<小言航兵衛>

ロボット防災

 日本で「危機管理」という言葉を聞くようになって久しい。20年になるか、30年になるか。少なくとも阪神淡路大震災で危機管理の不備が叫ばれて19年が経つ。にもかかわらず、9日朝のテレビを見て、今なお何にもできていないことに驚いた。

 しかも、あのテレビの主人公は危機管理の専門家たる防災担当部署や消防航空隊である。その関係者たちが東日本大震災をふり返って、もはや3年も経つのに、しきりと反省するばかり。カメラの前で長嘆息しながら「口惜しい」などといってみせるが、口惜しいのは津波に流されたり、避難所で病気になって死亡した犠牲者や、身内や財産を失った被災者たちの方である。いったいこの3年間何をしていたのか。こっちこそ長嘆息したくなる。

 口先だけの反省なんぞは何にもならない。あのときの教訓から運用の指針を見直していますなどというが、いまだに出来ていないところをみると、永久に出来ないだろう。次の災害でも再び同じような無為無策の醜態をさらすにちがいない。

 たとえば、あのテレビによれば、東日本大震災に際して全国の消防防災ヘリコプター58機が岩手、宮城、福島の3県に派遣された。そのうち岩手県には18の自治体のヘリコプターが集結したが、地震発生の翌日から3日間の稼働率は36%だったという。

 これは、岩手県が保管する当時の活動記録をもとに、ヘリコプターの稼働時間と待機していた時間を調べた結果、3日間で1機当たりの稼働率が36.3%にとどまり、飛行可能な昼間の時間帯の3分の2はボンヤリ待っていたというのである。

 昔から「サーチ・アンド・レスキュー」(SAR)という。日本語では「捜索救難」だが、遭難者が出た場合、まず捜索して、居所(いどころ)を発見したら救助にかかる。海難事故などで海上保安庁がよくやっている救難体制で、捜索も救難もヘリコプターでおこなう。基地で待っていて、海の上を漂流している人から連絡が入ったら出動するわけではない。そんなことは山の遭難も同じこと。捜索隊が山に入り、ヘリコプターも上空から捜索する。しかるに、あのテレビの舞台となった岩手の被災地では、情報がないからといって多数のヘリコプターがぼんやりと空港で待っていたというのだ。呆れるほかはない。


待機する多数の消防防災ヘリコプター

 彼らは「情報がなかった」という。何故こんなときに「情報」などという、ご大層な言葉を使うのか。子供が川の流れに落ちて「助けてェ……」と叫ぶ。あれも貴公らは情報と呼ぶのか。

 東日本の震災被害者も、川に落ちた子供と同じである。情報もクソもない。ただただ「助けてェ……」と叫んでいるのだ。しかし、声は聞こえなかった。だから助けに行かなかった。

 事実、テレビ画面に出てきた消防航空隊員たちは「要請がなく出動できなかった」「手持ちぶさただった」などと語っている。それで自分たちの責務は果たしたといわんばかりである。

 これだけの大災害が起こっているのに、「情報」がないからみんな無事だと思っていたのだろうか。よほど想像力のない連中である。それぞれに手分けしてヘリコプターを飛ばし、被災者を捜して回る。そのくらいのことが考えられなかったとすれば、これはもう人間の姿をしたロボットにすぎない。

 ロボットは人間の命令には忠実に従う。しかし命令がなければ動かない。平時ならば、それでいい。けれども被災地に集結したヘリコプターは異常事態に対処するのが本来の任務ではなかったのか。有事にぶつかって平時と同じ行動をしていたのでは、助かる人も助からない。自分だって、津波に襲われたときは命がけで逃げ出すだろう。にもかかわらず漫然と「情報」を待っていたというのだから、再び長嘆息のほかはない。

 ここで、ちょっと気を鎮めて、もう少し冷静に考えてみたい。ひとつは自治体の防災責任者が素人ではないかということ。だからテレビ・カメラの前で堂々と「どうしていいか分からなかった」などといえるのだ。こういう人は防災責任者になってはいけないのである。

 役所の年功序列か人事の配分でそうなったのだろうが、危機対応部門の責任者は例外としなければならない。何々大学の出身で、ペーパーテストの成績が良かったというだけで責任者にするのは最悪の人事である。それだけで地域の住民は、そのうちに自分も犠牲になることを覚悟しなければならない。

 防災責任者は、人事異動の例外とすべきである。訓練と経験を積んだ適任者を長年にわたって、その位置に据えておくことが肝要である。責任者が2〜3年ごとにクルクル変わって、どうして緊急時に指揮が執れるだろうか。指揮の対象はヘリコプターだけではない。自衛隊、警察、消防などの地上部隊も救援に駆けつける。それらを一括して、自治体の責任者は総合的に指揮してゆかねばならない。

 したがって、できれば声が大きく、体が大きく、押しが強く、多少は態度もデカイくらいの人物が好い。それが現場指揮官の資質で、むろん臨機応変の判断力が必要なことはいうまでもない。とはいえ体が小さくても訓練や経験によって指揮能力の高い人もあるだろうが、防災責任者がそうした資質や能力を備えてなければ、自衛隊でも警察でも、経験を積んだ隊長に指揮権を譲ればよい。

 さらに各緊急対応部隊が現場で張り合い、てんでんバラバラに行動するのもよくない。この際、他者の指揮や命令を受けるのは嫌だという気持ちは、いさぎよく捨て去るべきである。

 もうひとつ、助けて貰う側も準備をしておく必要がある。2005年夏、米ニューオーリンズを襲ったハリケーン・カトリーナの大洪水に際しては、沿岸警備隊のヘリコプターが被災者捜索のために水の中に沈んだ被災地上空を飛び回った。そのとき、ヘリコプターに向かって銃を発射したものがいる。日本のマスコミでは、救助のヘリコプターがなかなか助けてくれないので、怒った被災者が腹立ちまぎれにヘリコプターに発砲したように報じられた。

 しかし実際は違う。航兵衛自身、アメリカに行ったとき、かねて知り合いの消防航空隊長に、カトリーナのときはヘリコプターが撃たれたらしいね、と訊いたところ、「とんでもない」という答えが返ってきた。あれは、ここにも被災者がいるよ、早く助けてくれという合図の射撃だというのである。なるほど、いわれてみればその通りで、救援ヘリコプターを撃つはずがない。

 東日本で屋上に取り残された人びとが、まさか銃を持っていることはないだろうが、その場で火を燃やして煙を上げ、ヘリコプターに合図をするような手段が考えられる。一種の狼煙(のろし)である。狼煙は太古の昔から遠距離の通信連絡手段として使われてきた。今では無線機や携帯電話が普及した余り、それらが通じなければ、もうダメだ、連絡の方法がないなどと思いこむ人が多い。

 あるいは、孤立するかもしれない部落や避難所には、あらかじめ発煙筒などを配備しておき、捜索のヘリコプターに合図できるようにしておく。航兵衛の近所でも、災害時の避難所が決まっていて、万一のときは何処そこ大学のグラウンドへ、などの看板が立っているが、そこに無線機や発煙筒などは準備されているのだろうか。

(小言航兵衛、2014.3.12)

【関連頁】

 カトリーナ救助(2006.6.1)

【参考文献】

 

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