<小言航兵衛>

相手が悪い

 『相手が悪いと思う中国人 相手に悪いと思う日本人』(加瀬英明・石平、ワック新書、2012年12月27日刊)は、表題が巧みで面白いと同時に、中味も日中を対比してまことに面白い。

 ここでは、対談者2人を区別せずに発言を取り上げ、時折り航兵衛の小言も交えながら、本を読んでゆくことにしよう。

 秦の始皇帝は文字を統一したというが、その理由は何か。「民衆の間のコミュニケーションを図るためではない」。自分の「命令を文字というものを通じて全国に行き渡らせるため」であった。だから漢字は字画が密集しており、「見る人の美的感覚をあまり考えてない。あれは行政文書の形」だという。

 漢字は「お互いにコミュニケーションを図ることなど、はじめから考えてない。行政命令的な形で威圧的なんです。これが命令だ、お前ら受け入れろっていうことからはじまった」

 なるほど、いわれてみれば、今の役所の文書類も漢字の羅列で紙面は黒々としていて、役人たちは読みやすい文章ときれいな紙面をつくろうなどとは思わない。見ただけで読む気が失せるけれども、自分に関係あるところはよく読んでおかないと、あとで法律違反とか何とか難癖をつけられ、ひどい目に逢わされる。

 すなわち「漢字は悪魔の文字」である。大隈重信にいたっては15歳のときからそう信じて、あとは文字を書かなかった。すべて口述筆記で文書をつくったらしい。

 だから日本人が「相手の心を強く打とう」とするときは漢字で言っても通じない。和歌に漢語を使わぬことはよく知られたきまりだが、日常的にも「国家」とか「生命」と言っては駄目。「くに」とか「いのち」といわなければならない。「別離」は「わかれ」、「憧憬」は「あこがれ」と言わねば、他人事になってしまう。

 女性を口説くときも「愛してます」では西洋映画の翻訳せりふになってしまって、相手の心に届かない。やはり「好き」と言わなければなるまい。

 それにしても、中国は2000年にわたって続いてきた漢字を戦後、簡体字につくり変えてしまった。なぜ昔のままにしておかないのか。航兵衛などは書きやすく、読みやすくするための簡体字かと思っていた。ところが、あるとき著者が共産党の老幹部に訊いたところ「人民が解放(共産革命)前の有害な文書を読めないようにするため」という驚くべき本音が返ってきた。「実はそれこそが、中国共産党の思想教育」の根源であった。

 つまり、革命前の歴史を隠し、忘れさせようというわけだ。道理で日本に対しては「南京大虐殺」などと、ありもせぬ歴史を押しつけてくるが、日本人は中国人と違って歴史を忘れているわけではない。


秦の始皇帝

 次の話題。日本の干支(えと)はネズミから始まってイノシシで終わる。ところが中国の干支はブタで終わる。彼らにとって豚は重要な食料だが、獣を食べなかった日本人には豚なんぞ関心がない。だから遣唐使や遣隋使も、豚を日本へ連れてくることはなかった。

 それに元々、日本には豚が存在しなかった。「そのため、もとの中国、韓国の干支には豚年があるのに、日本では猪になった」のである。

 中国では、今も豚は裕福の象徴だそうで、豚年になると子供をつくりたがる。豚年生まれの子供は、将来お金持ちになると考えられているからだ。そういえば逆に、日本では丙午(ヒノエウマ)の年に生まれた女の子は気性が激しく、将来、亭主を蹴殺すといわれる。だから60年に一度のこの年に生まれる子供は数が少ない。

 余談ながら、ベトナムにはウサギ年の代わりにネコ年があるらしい。これではネズミ年がなくなるのではないかと思うが、仲良く同居しているとか。ベトナムの猫は鼠を獲らないのだろうか。


中国の干支

「龍の爪が1本足りない」という話も面白い。中国の龍の絵や彫刻を見ると、龍の爪が5本になっている。ところが朝鮮やベトナムは4本で、日本は3本しか許されなかった。中華思想にもとづく「華夷秩序」の最下位だからだ。

 日本の画家たちは、そんなことを知ってか知らでか、長谷川等伯も葛飾北斎も3本爪の龍を描いてすましている。最近の例では龍をシンボルとする右翼団体も、街宣車に掲げた旗に3本爪の龍を描いていた。著者は、その団体の会長に電話をして、中韓より下位になると忠告したらしい。会長も「えーッ!」と驚いたというから、今頃は爪を2本増やしたかもしれない。ともかくも、中韓の日本に対する優越感の尺度は、笑うなかれ、架空の龍の何の根拠もない爪の数だった。

 航兵衛は、友好と親善の違いを論じたところにも感心した。「日中友好」とか「日韓友好」などというが、「日米友好」とか「日英友好」とはいわない。無論これは「日米親善」「日英親善」である。

 真に親しい国に対しては「親善」という言葉を使う。しかし表面的な相手には「友好」ですます。何かの規則で決まっているわけではないだろうから、この使い分けは、日本人の素晴らしい知恵といってよいであろう。


中国が誇る五爪龍

 中国では過去何千年にもわたって易姓革命が繰り返されてきた。「易姓革命」とは中国の王朝の姓が変わること。皇帝は、天命を受けて王位についたなどというが、実際は盗賊か泥棒の親分が暴力によって国を簒奪しただけのこと。このあたりの事情は『中国の大盗賊』(高島俊男、講談社現代新書、2004年10月20日刊)に詳しく、この本がまた実に面白い。

 元にもどって、国を盗んだ盗賊の親分には姓がある。つまり一族の代表であって、皇帝といっても実は親分一族が天下を私物化し支配することである。そうなると民衆は一族の使用人(役人)か奴隷になってしまい、皇帝は民衆から土地でも財産でも食料でも何でも欲しいままに取り上げる。これで皇帝と民衆との間には、どうしても対立関係が生じる。

 今の中国共産党による独裁支配も、まさに昔ながらの易姓革命にほかならない。国民に対しても強制的に服従を強いるから、やはり対立関係が生まれる。支配者は表向きエバッているが、内心はいつなんどき暴動や反乱が起こるか、決して穏やかではない。

 いっぽう、日本の天皇家には姓がない。易姓革命など起こりようがなく、過去2675年にわたって天皇と国民が一つに結ばれてきた。民のかまどを心配した仁徳天皇を引くまでもない。どの天皇にあっても対立関係など聞いたことがないのである。

 そこで、日本と中国との間の「コウ」の違いが生じる。中国人は「孝」を重んじ、日本人は「公」を優先する。孝は儒教における最も重要な徳目だが、日本は「共同体の利益を優先する公の心が重視されてきた」

 このような「公」(パブリック)の概念は、もともと中国には存在しない。「中国の文化は親子関係――つまり、姓を同じくする一族(ファミリー)を大事にする。……ところが、孝を絶対視すると……公が失われてしまう。……公と一族の利益が対立すると公が犠牲になる」

 そのため、官僚は父親が死んだら、無条件に3年間の休暇がもらえる。孝の方が公よりも大事だからだ。また論語の教えによれば、父親が羊を盗んでも「何よりも孝が大事」だから外に言ってはいけない。現代においても、天安門事件の真相を隠すとか、毒ギョーザ事件を隠すのも、儒教国家としては当然のことである。

 19世紀、西洋列強がアジア諸国を植民地化しようとしたとき、日本だけが「帝国主義の脅威をはね返して近代化を成し遂げられたのは……国民が一丸となって、公を一族の上に置いたから」だった。

 

 『三国志』に登場する曹操も中国の典型的な帝王であった。「俺は天下に対してどんな悪いことをやってもいい。だが、天下は俺に悪いことをしてはならない」という徹底した悪の精神。これが中国の歴史であり、今の中華人民共和国も同じである。中国は世界に対してどんな悪いことをやっても構わない。しかし世界は中国に悪いことをしてはならない。曹操と同じ論理なのだ。

 しかるに日本は日清戦争で俺たちを撃ち負かし、日支事変でも攻めこんできた。その劣等感が今の反日思想となり、いろんなところでいちゃもんをつけてくる。あげくには尖閣は中国のものだなどと歴史的な根拠を無視し、石油が出るかもしれないという欲の皮をつっぱらかして爪を伸ばす。

 それどころか、今や中国は曹操よろしく沖縄も取りにきている。「中国人にとって一番我慢できないのは日本人」である。日本列島を中国大陸の沖合いに寝そべらせておけば、太平洋に向かって自由に出入りできぬ。中国の一部に取りこでしまえと、虎視眈々狙っている。

 こうした危惧は『中国はなぜ尖閣を取りに来るのか』(自由社、2010年12月1日刊)という本の中で、同じ2人が「ひれ伏す日本、嵩にかかる中国」と題する対談で語っている。

 それによると中国の軍事雑誌『新軍事』(2009年7月号)に「尖閣諸島をどうやって攻略するか」という軍のシミュレーションが掲載されているらしい。そのやり方は特殊部隊が漁船に乗って尖閣諸島に上陸し、重機関銃や地対空ミサイルを配備、常時80人余りの予備軍人を半年から1年交代で駐屯させるというのだ。

 この論文を著者が防衛省の幹部に見せると「どうせ、一部のはねあがった者がやっているだけで、気にする必要ありませんよ」という反応。著者はなんとノンキな防衛幹部と語っているが、これはノウテンキな呆衛患部というべきであろう。

 このノウテンキぶりはルーピー(クルクルパー)というよりも国賊となった鳩山幽奇夫に始まり、2年10ヵ月の民主党政権を経て今の沖縄県知事にまで伝染した。

 五爪の龍が狙っている目の前で、新しい沖縄県知事は、外部に対する警戒心を欠いたまま、内部に向かって辺野古基地の建設は認めないなどと騒ぎ立てる。龍が爪を立ててきたときは、一番先にやられるのを知らないのか。知ってて騒いでいるとすれば、この男、中国の回し者としか考えられない。

 新知事が辺野古の工事を認めない理由は海底のサンゴ礁を傷めるからだという。とすれば、浮体式の滑走路がいいのではないかというので、すでに20年余り前「メガフロート」が開発され、実際に横須賀沖でYS-11の離着陸試験もおこなわれた。

 航兵衛もコミューター空港やヘリポートに使えるのではないかと思って見にゆき、滑走路上で沖縄の基地問題解消にもなるという説明を受けた。ところが、これが実現しなかったのは、沖縄が埋め立てを主張したからである。というのは、そんなものを本土から持ってきて据え付けるだけでは、地元の土建業者が経済的利益を得られないという手前勝手な理由からであった。

 その言い分を、政府も受入れたわけだが、にもかかわらず今さら何をいうか。誰しもそう思うであろう。このあたりの内情は『ひみつの教養』(飯島勲、プレジデント社、2015年3月17日刊)に詳しい。ご承知のとおり、この本の著者は小泉首相の首席秘書官だったし、メガフロートを沖縄に提示した橋本内閣の秘書官だったから、書いてあることも自らたずさわった内部事情そのものである。


浮体基地にすれば海底は傷つかない

 こうした国難を避けるためには、日本も核武装をする必要があるというのが『中国はなぜ尖閣を……』の主張するところである。ただし、実際に核を使用するわけではない。無知な鳩山が知らなかった抑止力として使うのだ。

 70年前にアメリカが広島・長崎に原爆を落としたとき、もしも日本に原爆があれば、アメリカは原爆を使用しなかったというのが、この本に登場するアメリカのマッケロイ元陸軍長官で、この人はトルーマン大統領と共に日本への原爆投下を決めた人物である。原爆を「日本がもっていなかったから、我々は落としたのだ」と、著者の質問に答えている。

 そもそも中国は、日本の聖徳太子が「日いづるところの天子、日没するところの天子に書を致す」という国書を隋の煬帝に送って以来ずっと日本が目障りだった。いずれ、これを取りこむという考えは1400年にわたって、今も変わっていない。

 そして将来は、地球上すべての国が中国の属国になるべきだと本気で考えている。具体的には巨大な軍事力と核兵器をもち、取り敢えずは尖閣諸島から沖縄を取りにくる。このままではサンゴ礁は無傷で残るけれども、沖縄自体は中国に荒らされてしまうだろう。

(小言航兵衛、2015.4.11) 

 

    

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