<西川修著作集>

古都を行くの記


近江神宮

 早朝、大阪に着いて梅雨晴れの緑の色もしっとりと重い御堂筋の街路樹の下を三々五々歩いて行くのは、この気持ちのよいグループの小旅行の第一歩にふさわしい快さであった。

 ただ黒いアスファルト舗道の一ヵ所に、栗の花のような小さな白斑が無数に散っているのをよく見たら、それが皆小さなウジで、いっせいに忙しく這っていたのには驚いた。舗道に沿った塀の内側のゴミ箱からあふれ出たのであろう。しかし大都会のととのった美しさの中では、この不潔な虫たちもそう汚い感じを与えなかった。

 出張旅行などで一日にひとつ以上の仕事を計画しても成就は困難だというのは、私の軍隊生活中に体得したひとつの法則であって、今でもちょいちょい人に云いふらす。もっとも、終戦近いころの出張では汽車もバスも予定の通りには動かず、空襲を避けて半日も止まっていることがあったり、目的地に行っても肝心の機関がいつの間にか疎開して山の中に移転していたりしたから、これは無理もないことであった。今日に至ってもこの法則を主張するのは、自分の怠惰をカバーしようとする下心が主になっているらしい。

 今度の旅行では、およそ怠惰などという文字をその辞書に持たないN技師の東道によったから、第一日は京都の白川学園、大津の近江学園、石山寺、近江神宮、第二日は大津宮跡、比叡山というように、わずかの時間に豊富な見聞を得た。まったくN技師のお蔭である。


石山寺

 美しい竹薮を織り交ぜて、闊葉樹を主にした叢林が人家を覆うように茂っている京都郊外の風物は、四国にも九州にもない独特の柔らかな趣をもっている。白川学園もそういう環境の中にあった。建物も古く部屋も狭いが、すでに四十年の経営の惨苦をしのいで今日に至った落着きが感じられる。

 見学させてもらっていると、白痴の子供が近よってきて何となしに手を握ろうとする。白くて柔らかい手だ。骨があるかどうかもわからないような、幼児の手に似た柔らかさだ。そういえば、この前、国府台病院の児童部で見た白痴の子もやはり同じような柔らかい手で私に触りにきた。手の使用が人類の知能を高めたのと同様の意味で、白痴の子供では手の発育が悪く、赤ん坊のような柔らかい手をもっているのではあるまいか。

 近江学園のランプハウス。小さな物置のような小屋の表にペンキで大きくLAMP HOUSEと書いてある。中に入ると室の中央の梁に又になった木の枝が打ちつけてあって、それに吊り洋燈がかけてある。もっとも中味は電燈なのだろう、コードが枝にまきついていた。机、椅子は丸木を割った頑丈なもの。周囲の棚いっぱいに色とりどりの陶器や、彩色した木彫りが並べてある。

 山小屋に似た趣の、この小部屋が『百二十三本目の草』の田村氏の仕事場らしい。療舎や教室や作業場などの沢山な建物の間にはさまれたこの小屋は、これでまた特殊な重要な役目をもっているのだろう。絶えず刺激の源泉をつくり出している内分泌器官のように。

 細波の志賀の都のあとは、畑の間の小径を通って、荒れた竹薮のあたり、この付近だと案内された。日に乾いた草の間に白茶けた瓦の砕片が無数に落ち散っている。梵釈寺の礎石といわれる大石が竹薮の中のあちこちに、なかば地に埋れている。

 日本の国家的な統一、中央集権の確立は中大兄の皇太子時代にはじまり、泰徳斉明の御代を経て、天智天皇即位の滋賀の都がその第一の頂点であったろうと思われるのに、その後幾十の年月をも経ぬ藤原の御代に、柿本人麿がこの湖畔の地を通過したときには、春草の繁く生い、春日のはれる中に、大宮の柱も大殿のいらかも既に跡形もなかったらしい。

 この転変のはなはだしさは何の故であったろうか。天智帝の鴻業は何故かくも空しく滅びたのであろうか。古代日本の経済の基礎は部曲の民によって支えられ、文化はその奴隷的な労働の上に成り立っていたことは誰しも認めるところであろう。しかし時と共に氏族の力がそれぞれの民を土台として伸張し、互いに相競い、最後に天皇家と肩をならべた蘇我氏が中大兄の率いる勢力によって滅ぼされ、中央集権の基礎ができた。

 しかし、その当時においても奴隷労働力のもつ意味は低まってはいなかった。それにもかかわらず中大兄皇子の政策が班田収受の法によって、土地人民を氏族の私有から開放し公地公民としたことは、いずれは必要なことであったには違いないが尚早に過ぎ、結局国家の基盤を危からしめる結果となったのではなかろうか。このために氏族の族長たちは離反し、天智天皇崩ずるやたちまち起った壬申の乱によって、近江の都はわずか二代で廃虚となってしまった。天智天皇の嗣を滅ぼした天武天皇は、究極においては天智の偉業の推進者であったに違いないが、まず政策の一部を後退させ、土地人民の一部の私有を認め、奴隷経済の復活によって、藤原期の基礎、ひいては白鳳天平文化の基をつくったのであろう。

 すぱらしい文化が奴隷経済の奉仕の上に成り立っている例は、洋の東西、時の古今を通じて決して少なくない。ギリシャ、ローマの文明がそうであったし、近くはアメリカの現代の繁栄も、さかのぽってその植民の歴史を見れば、やはりかの広大豊沃な土地に豊富な奴隷の労働力が提供されて得られた巨富がその基礎になっていることが知られる。

 近江の古都は進歩的な天皇の悲劇の遺跡だ。

 比叡山の山頂に近い茶屋から重畳する洛北の山々を望んで投げるかわらけ投げは印象深い。かわらけは青空遠く滑走して、やがて真黒に密生した杉の谷間にひらひらと落ちて消える。入れ代わり立ち代わり投げる人々の手を離れて、遠く近く、高く低く、舞い落ちて行く小さな白い円盤は美しくはかない。

 それは帰ることのない人生の遠い日々を思い出させるようであった。


比叡山

 ワンマンカーというのに乗った。叡山鉄道の終点、出町柳から京阪三条までの間を連絡しているバスである。車掌がいなくて、運転手ひとりである。運転手の傍に料金入れの函がある。函の中は透いて見えるようになっている。車内の中央部と最後部に拡声器がついていて、お客さんが乗りこむとすぐに「ただ今お乗りの方は料金をお入れ下さい」という。もちろん運転手がいうのである。釣銭の要る人に対しては妙に曲ったチューブから釣銭が出てくるようになった仕掛けもある。次の停留場名も運転手がスピーカーを通じて知らせる。そこで降りようと思えば吊革の上のあたりに横に渡してある白いひもを引くのである。すると何か仕掛けがあって運転手に通じるらしい。次の停留所へ来るとちゃんと留まって、乗り口と違った後尾の扉が開き、昇降の階段がバネで下りて、お客さんは降りることができる。するとスピーカーが「毎度有り難うございます」などという。

 アメリカ帰りのM先生は「向こうのバスは皆これですよ。何しろ人件費が高いので、なるべく少ない人間ですまそうというのですね」などと涼しい顔をしているが、我々は珍しいのでキョロキョロ見まわして「これは、あらかじめよく規則を知っておかないと乗れませんなァ」などと感心した。

 東京ではこういうものはまだ走っていないのじゃないかしら。新しもの好きの京都のことだ。日本最初を誇っているのだろうと思う。

(西川 修、精神衛生、1952年7月)

 

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