講演について

――やさしそうで難かしい―― 

 

 時折り、講演会の司会をしたり、講演そのものを頼まれたりすることがある。そのため少しばかりの経験を重ねてきたが、いまだに講演は難かしいと思う。 

 難しい理由は、第一に大勢の人の前に立つことで、それだけで精神の緊張を強いられる。最近は長年の慣れと歳のせいもあって、余りアガルようなことはなくなったが、内心は何かヘマをやらかしはしないかと、決しておだやかではない。

 第2の理由は、自分1人で脚本を書き、演出をして、演技をしなければならない点にある。芝居やドラマは、これらの役割が別個に割り振られ、本を書くのは脚本家、演技の指導は演出家と決まっている。その指導や助言を受けながら、専門の役者が演技をするのだから、うまくゆかないはずがない。

 しかるに講演は全て自分ひとりだから、脚本が面白くなければ、どんなに話っぷりが上手でも、面白い話にはならない。また脚本が面白くても、だらだら、ぼそぼそした話し方や、機関銃のような早口では聴いていて心地良くない。こんなときに演出家がいて、もっと声を大きくとか、もっと間をあけてとか、ゆっくりといった助言をしてくれればいいのだがと思う。

 聞くところによると、大統領や総理大臣などは演説原稿を書くライターや演技をつけてくれる演出家をかかえているようだが、そういう政治家は本稿の対象外である。したがって講演がうまいというのは、脚本、演出、演技の3拍子がそろっていることで、よほど芝居っ気の多い才能のある人でなければ難かしいのは当然であろう。

 

 私は芝居っ気という点では全く不器用だから、せめて脚本だけでもしっかり組み立てておかねばならない。そのため、本当にしゃべっているようなつもりで、一言一句を文字にする。だいたい300字が1分間のしゃべりに相当すると聞いたので、1時間の講演ならば18,000字、400字詰め原稿用紙で50枚くらいのセリフを書く。

 そんなもの書かなくたって、話の筋立てだけを目次のように並べておいてしゃべる人も多いようだが、私の場合、目次程度では不安にかられ、本番でアガってしまう恐れがある。

 もっとも、いったん書いてしまえば、本番のときに目を通すようなことはほとんどない。第一、壇上で原稿をめくっているような余裕はない。というのも、レジュメやスライドを見なければならないからで、原稿の方は会場へゆく電車の中などで2〜3度読み返しておいて、あとはレジュメを見ながらしゃべってゆく。

 したがってレジュメにないような、ちょっとした挿話などは、言い落とすことも多い。話が終わってから「しまった、忘れた」と思うこともままあるが、それはやむを得ない。いずれにせよ、準備だけは常に充分でなければならないと思うし、最終的にはそうした準備が自分の気持ちを落ち着かせるのである。

 

 他人(ひと)様の話を聞いていて、自分のことを棚に上げて言うならば、ときどき「準備不足だなあ」と思われる人がいる。その場で考えたり、思いつきの話をするような人は、司会者も聴衆も話の行方がどうなるのか、不安にかられる。

 いつぞや朝からの研究発表会で、昼食の時間になっても、まだ話がつづいていた。プログラムの進行に30分の遅れが出たためである。というのも、前の方の誰かが30分の制限時間を30分オーバーして1時間近くしゃべったためで、ひどい男もいるものだと書きたいところだが、犯人は実は女であった。女性だけに司会者も遠慮したのかもしれない。

 学会などの場合は制限時間の5分前にチーンという予鈴を鳴らし、制限時間になったらチンチーンと2回鳴らすなどの取り決めが多い。時には演台の前に赤ランプを点けたりするが、それでも無視してしゃべり続ける人が出てくる。そういう人物はブラックリストにのせておいて、次回からはペーパーの提出だけで登壇はさせないようにする必要があろう。

 1人だけの講演会ならば多少の時間の延びは問題にならない。けれども朝早くから夕方まで、1日20人から30人もの登壇者が目白押しにひかえている学会などは、前の人の時間が伸びると次の人は精神の異常をきたす。それでなくても今か今かと緊張を強いられているから、その状態が長引くとだんだん耐えられなくなり、ひどいときはプッツンなんてことになりかねない。

 私も一度、そういう目に遭ったことがあるが、やっと登壇したときは我慢しきれず、むろん丁寧な言葉ではあったが、司会者にもっと時間を守って貰うように注文をつけたことがある。それから「時間がきましたけれど、すいませんが3分ください」「あと5分」「もう一つ言い忘れてました」などと言いながら、結局15分くらい延ばす人がいる。まことにずる賢いやり方で、むろん私は気に入らない。

 学会などで見ていると、制限時間を越えた場合、座長が「そろそろ締めくくって下さい」と、話の途中に割って入ることがある。また「時間が過ぎたので質問は受けないことにします。次の方どうぞ」といって進行を速めるのは、聴衆としても気持ちがいい。

 ところが、時間がオーバーしているのに、「質問をどうぞ」ということになって、その質問者が何を訊きたいのか延々としゃべったりするのは、聴いていていらいらする。学術上の大問題を大勢で論じ合わねばならないようなことは、もっとたっぷりと時間を取って、違うやり方にして貰いたい。私が出席するような会合では、宇宙の起源にビッグバンがあったかなかったか、などというような大議論は余り聴いたことがない。けれども、言葉のやり取りだけは無闇に多かったりするのである。

 質問の長い人は結局、自分の意見を語っているのであって、質問ではなかったりする。質問や反論は、一言か二言でズバリ核心をつくべきである。自信がないから色いろつけ足して、わけが分からなくなるのだが、聴衆は質問者の意見ではなくて、発表者の研究結果を聴きにきているのである。自分の考えを聴かせたいならば、初めから演題発表を申しこむべきであろう。

 もうひとつ、「三つ質問があります」などと言って、質問を並べ立てる人がいるのも困る。単純な質問ならばいいが、込み入った話になると、答える方はいっぺんに三つも憶えきれない。「えーと、三つめの質問は何でしたっけ?」などと聞き返したり、それに対して同じ質問をもう一度繰り返したりして、これまた時間の無駄である。私も、こんな質問を受けたときはすぐメモを取るようにしているけれども、かつて経験の少ないときには質問の内容を忘れて立ち往生をした憶えがある。

 そこで質問者は、三つの疑問があったとしても、自分が最も訊きたい問題、その場の流れに最も適切な問題など、どれか一つを選んで質問すべきではないだろうか。そして、ほかに次の質問者がいなければ「では、もうひとつ質問があります」と2番目を切り出すべきだ。学会などの質問時間はどうせ時間がないのだから、1人の質問者が時間をひとり占めするのは横暴である。大勢で時間を分かち合うように考えるべきだろう。

 自分も次に質問しようと思っているのに、前の質問や回答が長びいて時間がなくなり、司会者が「では、次へ移ります」などと言ったりする。その意味では、回答する方も簡潔に答えなければならない。この辺りのさばきと整理は、座長の機転にもかかっている。

 

 1人1時間前後の「講演」や、大勢が交互に登壇する「研究発表(または調査報告)」に加えて、もうひとつ「パネル討論」という形式がある。私も自分で司会をしたり、パネリストになったり、むろん聴衆になったり、いろんな経験があるが、いずれにしてもパネル討論は難かしくて、面白くない。おそらく日本人には不向きの形式ではないかと思う。

 近頃はテレビでも、衛星放送などで盛んにやっているけれども、印象が散漫で面白みが感じられない。最後に司会者が勝手に結論をまとめたりしているが、「違うんじゃないの」と言いたくなることも多く、結局なんだったのかわけが分からないままに終わってしまう。

 というのも、われわれ日本人は冷静なディベートが不得手だし、議論が白熱したときにユーモアで冷やすといったこともできないからである。

 そうした事態を避けるために、あらかじめシナリオをつくって、4〜5人のパネリストの話の内容、司会者とのやりとりなどが決めてあったりする。波風の立たないパネル討論で無事に終わるけれども、おとなしくて面白くない。

 第2に問答のやりとりが司会者を中心におこなわれる。パネリスト1人ひとりに司会者が質問し、それぞれが司会者に向かって答えるといった問答が多く、パネリスト間の意見の違いはすれ違いのままで終わってしまう。本当はパネリスト同士のやり取りが欲しいところで、お互いに質問したり、相互の考えを補強し合ったり、ときには意見が対立したりするのが討論で、思いがけない止揚の結論(アウフヘーベン)が出てくれば面白かろうと思う。その中には聴衆からの質問や意見も含まれるわけで、ステージとフロアが一体となって何かを生み出すことが理想である。

 しかし、残念ながら、そんなパネル討論は経験したことがない。自分の意見をしっかりと表明し、反対意見や批判を冷静に受けとめ、異論があれば反論を加える。そんなディベートが日本人にできないことは、テレビ朝日の朝まで生討論を見ればすぐ分かる。あそこでは、出演者の多くが頭に血が上ってののしり合ったり、人の意見を冷笑したり、最後は声の大きい方が勝ったように見えたりする。私は、あの討論会の司会者も嫌いで、最近は見なくなった。したがって今も続いているのかどうか知らない。

 あれは演出(やらせ)だとか演技だという人もいるが、感情と嫉妬のかたまりのような日本人に、そんな冷静な演技はできやしない。したがって学会のパネル討論なども表面的なやりとりで終わるから、逆におとなしいだけで、ちっとも面白くない。話題の人物たちの顔見せ興行みたいなものである。

 パネル討論を少しでも面白くするには、まず人数をしぼる必要がある。パネリストが多いと、1人あたりの持ち時間が少なくなって、結局は何にも言わないうちに終わってしまう。あるいは、めいめいの意見表明だけで、討論の時間がなくなってしまう。

 そこで、面白い討論を実現するには、ある問題について賛成1人、反対1人、中立1人くらいで、それに司会者が入る程度の人数が適当ではないか。むろん賛成と反対ではなくて、ある現象の解釈について、A論とB論と中間的なC論の3人でもいいかもしれない。航空機の製造者と運航者と利用者の3人、あるいは学者と役者と芸者といった立場の違う3人でもいい。

 少数の人が腰を落ちつけ、たっぷりと時間を使って、感情に溺れぬような議論をして、それに触発されたフロアからも質問や意見が出るというようなパネル討論ができれば、さぞかし面白いにちがいない。聴衆も充実感を味わうことができよう。

 

 いずれにしても、われわれは講釈師や落語家のような話芸のプロではない。政治家でもなければ早稲田雄弁会でもない。学会や講演会は素人の集まりだから、話は下手に決まっている。うまくやろうなどと考える方がおかしいのかもしれない。

 ただし、真面目にやる必要はある。素人が手抜きをしたら見ていられない。充分な準備をして、時間を守り、少しずつ譲り合って、気持ちの良い会合にしなければならないと思う。

 ここまで書いてきて、さて締めくくりをどうしようかと思いながらインターネットを探っていたら、わが敬愛する言語学者、金川欣次先生の「実り豊かな講演のための“紙”上講演」というエッセイが見つかった。私のつまらぬ話とは全く異なる口調で、軽妙にして面白く、かつ為になる。

 下記の目次を見ていただければ一目瞭然。エッセイであると同時に、講演をする人のための一種のマニュアルにもなっている。ご一読をお奨めして、降壇することにいたしたい。

(西川渉、2000.7.2)

 

金川欣二氏「実り豊かな講演のための“紙”上講演」目次

 ・タイトル――魅力的に
 ・客層――早めに掴め
 ・展開――脱線してもいいから本筋を追え
 ・内容――ほどほどの情報量を
 ・マクラ
 ・サワリ
 ・結び――地口落ちは止めよう
 ・AV機器――頼るな
 ・ユーモア――多く笑わせたら勝ち
 ・仕込み――たっぷりと、でも全て使わなくてもいい
 ・口調――ゆっくりと落ち着いて話す
 ・スタイル――コツで賢く見せろ
 ・時間――時間泥棒にならないように
 ・自慢と悪口――ちょっとだけPRとチクリと一刺し
 ・質問――なるべく避ける
 ・最後に――いい講演とは

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