<本の紹介>

広告は歴史を動かす

 

 

 自己表現は生きとし生けるものの本性であろう。この世に生をうけた生物が生きていることのあかしとして、さまざまな形で自己の存在を発現する。花は黄や赤に咲いて虫や鳥を呼び寄せ、鳥は美しい羽飾りで雌を誘う。すべては生きていることの表現だが、『私説 広告五千年史』(天野祐吉著、新潮社、2003年11月20日)の著者ならば、それも広告だというにちがいない。

 本書は花や鳥にまでは及んでいないが、「広告は人間の本能的な表現行為」という宮武外骨の見方を引きながら、古今東西のあらゆる出来事を「広告」の一点から解釈し、説明してみせる。

 それによると、広告のはじまりは「世の中でいちばん古い職業」とされるシャーマンや呪術師によっておこなわれた神秘を広告すること、すなわち彼らのとなえる呪文が広告の第1歩であった。日本では「ちちんぷいぷい」や「くわばらくわばら」が、これに相当するとか。

 王様や権力者も広告には熱心である。秦の始皇帝は「自らの権力を広告する」ために豪華な大宮殿「阿房宮」を建てた。「もともと建築物というのは広告メディアとしての性格を強く持っているものですが、この宮殿を見たり、中に入ったりした人は、その権力の大きさを否応なく実感させられて、恐れ入ってしまったんじゃないでしょうか」と著者はいう。

 今でも地方都市に行くと、県庁や市役所だけが周囲を睥睨して建っているところが多い。あれは単にバブル時代の交付金が潤沢だったばかりではなく、その地域の首長や議員や役人が権力を誇示したかったのである。現今のような不況の時代に入ると、周辺の商店街などがさびれ、シャッターを降ろしたままの人通りの少ない家並みに映えて、いっそう立派に光り輝き、権力の広告としてますます効果を発揮するかのようである。

 イエス・キリストも広告は上手だったし、日本の坊さんも地獄極楽を対比させて、広告がうまい。空海はコピーライターとしてすぐれ、一遍上人は「すばらしい広告的アイディアの持ち主」と著者の語りはつづく。

 情報戦に勝った豊臣秀吉もそうだし、ルイ14世は広告塔としてのヴェルサイユ宮殿をつくった。この王様は国王を超えて現人神となり、晩餐会やダンスパーティなど豪華なイベントを繰り広げ、「太陽神の力」をフランス国民の心の隅々にまで与えつづけた。


始皇帝

 さた、本書のような観点から現世を見ると、何といってもホワイトハウスは広告がうまい。毎週土曜日の深夜、NHKテレビが放送している「ホワイトハウス」という連続ドラマも、主役は大統領とそれを取り巻く広報担当者たちである。彼らは言葉によって国民を引っ張り、議会をあやつり、世界をリードしていくために、大統領の演説草稿を書き、記者会見をし、テレビのインタビューに答える。

 それでも、大統領のちょっとした言葉の端々が波紋として広がり、大きな波乱を起こし、国家間の紛争にもなりかねない事態を惹き起こす。無論これはフィクションだが、おそらくは本物のホワイトハウスでも同じような論議がなされ、広告されているのであろう。

 そこへゆくと、日本の首相官邸ではどんなことがおこなわれているか知らないが、国民を引っ張り、政治を推し進めるという点では、少なくとも外から見ている限り、決して充分な広告がなされているとは思えない。

 道路公団の処理もできず、北朝鮮には自国民をさらわれながら何の手出しもできず、中国や韓国には内政干渉を受けつづける有様。もう少し、この本でも読んで、ルイ14世のようなやり方はともかく、秀吉の情報戦や空海のコピーライティングの技術くらいは学んだらどうか。

 そういえば本書の中に、「親鸞の教えをひろめたダイレクト・メールの元祖」蓮如が出てくる。首相官邸からも毎週イーメールが送られてくるが、ちっとも面白くない。あのメールは小泉さんの首相就任の直後から始まり、私も楽しみにしたものだが、あれで世論を喚起するとか、政治を動かす効果があったとか、そんな話は聞いたことがない。

 おそらくは編集長の問題でもあろう。政治家か役人がやっているようだが、もう少し気の利いた人材はいないのだろうか。難しい問題をわかりやすく、しかも面白く浮き彫りにして国民の前に提示できるような能力を持った人くらいは、探せば沢山いそうなものだが。

 もう一度本書に戻ると、最後の章で「明治の三粋人」が取り上げられている。奇人とされる「新聞広告のパイオニア」岸田吟香、怪人の「広告が化けた人間」岩谷松平、変人の「面白ジャーナリスト」宮武外骨である。私には、この3人の話がいちばん面白かったし、首相メールの編集長が見習うべき人物ではないだろうか。詳しくは本書を読んでいただきたい。

(西川 渉、2004.1.14)

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