<ヘリコプター救急の父>

クグラーさんを偲ぶ

 

 本稿は昨年11月初め、アメリカで開催されたAMTC09から帰国して間もなく「HEM-Netグラフ」のために書いたものである。すでに3ヵ月ほどたつが、掲載誌の紙幅に合わせて削った部分も復元し、ここに記録を残しておきたい。

  

 クグラーさんの病(やまい)が篤い――そのことを、私は何人もの人から聞いた。去る10月下旬、カリフォルニア州サンノゼで開かれた国際航空医療学会(AMTC09)の場である。

 最初は、P. ミュラー法学博士との立ち話であった。2008年チェコのプラハで開催されたAIRMEDの会長をつとめた人で「心配だ……」という。家の中では歩いているのかどうかたずねると「いや、ベッドの中」という返事。私は事態が深刻であることを知って、言葉をなくした。

 次いで、ドイツのエルウィン・シュトルペ先生は「今年いっぱいはむずかしい」という医師らしい判断だった。さらにAMTCを主催するアメリカ航空医療学会の会長サンディ・キンケイドさんは、最近アメリカからドイツまでわざわざお見舞いに行ったという女性のやさしさを見せた。

 こうして航空医療にかかわる世界の要人たちが心を寄せる中、クグラーさんはミュンヘンの自宅で静かに身を横たえていたのだろう。むろん1年前のAMTCには元気な姿を見せていたのだが。

 3日間の会合が終わり、同行の山野豊さんと共に帰国して間もなく、追いかけるようにして訃報が届いた。2009年11月3日きわめて安らかな死であったという。


2008年5月ベルリンにて
クグラーさんをはさんで、シュトルペ先生と山野さん

 今から40年ほど前の1960年代終わり頃、クグラーさんはドイツ自動車連盟(ADAC)にあって、アウトバーンの交通事故死が多いことから、これを減らさなければならないと考えた。むろん人道的な精神に発するものだが、ADACの会員に対するサービスでもあり、ADACが運営する旅行傷害保険の出費を減らすためでもあった。そして当時、ドイツで完成したばかりのBO105双発ヘリコプターを使って、ミュンヘン郊外を走るアウトバーンの事故現場まで医師を乗せて飛び、その場で治療にあたる実験を開始した。

 やがてヘリコプターの救命効果が認められ、1970年11月から市内のハラヒン病院に「クリストフ」(旅の守り神)の愛称を持つ救急専用機を常駐させ、本格的な事業が始まった。これには病院ばかりでなく、消防機関も協力してパラメディックを派遣し、事故の通報から2〜3分で医師とパラメディックを乗せて離陸するという体制が組まれ、クグラーさんはその責任者となった。

 この救急体制はみごとな成果をあげ、またたくうちにクリストフ2号機、3号機……とドイツ各地に普及していった。これにより1970年2万人を超えた西ドイツの交通事故死は、15年後の1985年に半減する。そのことは交通戦争に悩む日本でも注目され、交通や医療の関係者が、政治家、官僚、企業人を含めてドイツの実情を見にゆくようになった。

 

 NHKもドイツ・ヘリコプター救急の成果について特別番組を放送することになり、取材班がクグラーさんのオフィスを訪ねた。このときクグラーさんが引き出しをあけると、そこから出てきたのは日本からの来訪者の何十枚という名刺だった。そしてテレビ画面に向かって「こんなに沢山の人がおいでになってますが、日本のヘリコプター救急はまだ実現していないのですか」と苦笑して見せた。それが「死者半減」という表題で放送されたのは1989年12月だが、交通戦争に苦戦していた日本中に大きな衝撃を与えた。

 それから1年近くたってクグラーさんが来日した。宿泊先のホテルに山野さんと一緒に訪ねると、「ベルリンでも救急ヘリコプターを飛ばし始めた」というのが最初の言葉だった。愛称は「クリストフ31」。

 ちなみにクグラーさんのご出身はズデーテン地方と聞いたが、それだけに、当時まだ分断されていた東ドイツへの郷愁は深いものがあったにちがいない。そのことは後に東西ドイツが統一されるや、一挙に旧東ドイツ地域にも救急拠点が拡大していったことによく示されている。


今も記念に保存されているベルリン救急機

 1990年11月のクグラーさんの来日は、日本救急医学会で特別講演をするためだった。その機会に私の勤務先でもヘリコプター救急に関するセミナーを開き、外部の100人余りの人びとに集まって貰った。同時にこのときシュトルペ先生と川崎医科大学の小濱啓次教授(当時)にも登壇していただいた。日本のヘリコプター救急がまだ夜明け前の時代である。 

 クグラーさんがこの世に遺したもの――とても数えきれるはずはないが、最大の公的遺産は「ミュンヘン・モデル」と呼ばれて欧州全域に広がったヘリコプター救急システムであることは間違いない。日本のドクターヘリがほぼ同じ方式を取っているのも、しばしば来日して惜しみない助言を発し続けたクグラーさんの好意のたまものといえよう。

 そして2002年刊行の著書"ADACOPTER"。ADACとHelicopterを組み合わせた題名で、ドイツのヘリコプター救急の発展過程とその意義を文章とスケッチで描いたもの。各頁にひとつずつクグラーさん自身の描いたマンガもしくはスケッチが掲載されているユニークな大部の書籍である。この描画に使った竹ペンは日本製で、ときどき山野さんが京都から取り寄せ、ドイツへ送っていた。1年ほど前に2冊目を執筆中と聞いたが、完成したのだろうか。

 ゲアハルト・クグラー(Gerhard Kugler)氏、1935年生まれ、享年74。


ヘリコプターがないと手遅れになる(ADACOPTERより)

(西川 渉、「HEM-Netグラフ」2010年冬16号掲載)

 

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