<西川修著作集>

狂院小記

「大勢の精神病の患者を一つの部屋に入れてあるようですが、あれで喧嘩などすることはないのですか」という質問を受けることが度々ある。私はいっもこう答えている。

「むしろ普通の人が沢山集まっている場合よりも喧嘩は少ないのではないでしょうか。というのは、精神病の患者はあれだけ一緒にいてもお互いに割合に無関心ですからね」と。

 一般に精神病院の大部屋の住人の大部分は精神分裂病の患者であるが、社会性の喪失ということを主症状とするこの病気の人達の間では喧嘩の少ないのと共に、相互扶助とか協力とかいう事も少ない。従って患者会などを組織して病院当局と折衝しようなどという事態も殆ど起こらない。いわば彼等は全くの烏合の衆であり、病院を管理する立場にある我々としてはまことに幸福なことだといわなければならない。

 ところが、こういう患者の集まりの中で、分裂病以外の精神疾患、特に精神病質とか各種の中毒性疾患の占める比率が高くなってくると話は変わってくる。ヒロポン中毒患者を収容する目的で建てられた某病院では開設後最初の一年間は、患者達が病院当局に向かって提出する種々の厄介な要求に全く参らされたらしい。

 しかし面白いもので、第二年目になると、病院側の指導もよかったに違いないが、患者達の間に醸し出された自治的な空気が次第に発展して強い統制力となり、患者の生活指導が行なわれ、ひいては中毒の治療の上に極めてよい効果を上げはじめたという。こういうことは分裂病の集団の中では到底望めない事である。

 日支事変が始まってしばらく経った頃であるからもう二十年近くも前の話。

 中等学校の配属将校で兵隊から昇進した少尉の人がアルコール中毒で入院した。事変のはじめ九州師団が北支を席捲した頃に准尉で戦争を体験して来た戦地帰りのホヤホヤで、しかも銃剣術の名手だという。酒焼けした赤ら顔に、身体は鍛えに鍛えて全く巌のよう。これが暴れ出したら困るなと思ったが一見したところ態度は極めて礼節あり言葉も丁重である。家では奥さんに乱暴するので是非にというのでともかく入院させることにした。

 第一日は極めて穏和であった。第二日、同室の十何人かいる患者の世話をこまごまと焼いてくれる。その内に「ちょっと家に帰って来たい。学校の仕事などで整理しなければならぬことがあるから」などと言いはじめた。執拗に言うて来るが、なだめすかして一応納まった。

 第三日の昼、看護人が蒼くなって走って来た。昼食の配膳のために看護人達が炊事場に行き、一人だけが監視のために残っていたところが、いきなり箒を構えて「これは竹箒だが俺の手練で突けば銃剣同様、お前の胸板を突き剌すぞ」と脅迫して部屋の鍵を強請してきたのを必死になって様々に言いくるめて、隙を見て逃げ出してきたというのだ。病棟には看護人は誰もいないという。

 病棟にかけつけてみると中から「開けろ、開けろ」と怒号している。何か物をこわすような音も混って聞こえる。中庭にまわって窓から病棟を見ると驚いた。炊事場の廊下に通じるドアの所に三、四人の患者が集まって看護人室にあった長椅子を扉に打ちつけて破壊しようとしている。外来の方の廊下の出口は蔭になって見えないが、これも五、六人の一団がいるらしく、掛け声が聞こえてくる。気の効いた二、三人が詰所に入って看護人の替えズボンなどを探っているのは、鍵を探しているのだろう。

 中央に、片手に例の竹箒を持って仁王立ちになり、大きな声で指揮しているのが件のアルコール少尉である。病棟を破壊して逃げ出そうというのだ。最早、暴動の様相を呈している。十数人の患者が一度に飛び出したら一大事である。ともかく両方の出入り口には外側から机や畳をおいて、たとえ扉を破ってもそうたやすくは出られないようにして警察に電話をかけ、私は少尉を窓の所から説得にかかった。勿論聴くわけのものではない。しかし多少の時をかせいだ事にはなった。

 七人程の制服、私服、あるいは柔道着を着込んだ警官の一隊が到着して窓の外から中の様子をしらべはじめた時、指揮者は狼狽した。うっかり私と話をして時を失ったのに気がついたのである。にわかに、大声で他の患者を叱咤激励して戸口を破壊させようとしたが、幸に既に痴呆状態にある多くの患者はそう要領よく動いてはくれなかった。愚図々々しているうちに椅子の脚を前向けにして、胸の高さに抱えて楯とした四、五人の警官が一斉に部屋の中に飛び込んで、つまずいて倒れた少尉に捕縄をかけて事は終わった。

 分裂病の患者が一斉に立ち上がって部屋の扉を壊すなどという事は普通にはないことだが、しばらくにせよ病室内の全部の者が共同して動いていたのは、やはり指揮官の極めて優秀な指揮能力によるものであったのだろうか。

(西川 修/絵と色紙も、大塚薬報、1956年)

(著作集目次へ)  (本頁表紙へ