<西川修著作集>

泉鏡花とおばけ

 鏡花に対して久保田万太郎が「どうかあの幽霊だけは封じていただきたい」と進言したことがあるという話であるが、実際、彼の作品には幽霊ないしおばけの出てくることが多い。彼は確かにおばけの実在を信じていたようである。また信じなければ自分の小説にあれほど無暗にその登場を許すこともできなかったかと思われる。彼は『おばけ好きのいわれ少々』と題して、次のようなことを述べている。

「ぽくは明らかに世に二つの大なる超自然力のあることを信ずる。これを強いてひとまとめに命名すると、一を観音力、他を鬼神力とでも呼ぼうか。共に人間はこれに対してとうてい不可抗力のものである。鬼神力が具体的に吾人の前に顕現するときは三つ目小僧ともなり、大入道ともなり、一本足の傘の化物ともなる。世にいわゆる妖怪変化の類はすべてこれ鬼神力の具体的現前に外ならぬ。……ぼくは一方、鬼神力に対しては大なるおそれをもっている。けれどもまた一方、観音力の絶大なる加護を信ずる。この故に念々順々、かの観音力を念ずる時には、たとえ如何なる形において鬼神力の現前することがあるとも、それに向って遂に何等のおそれを抱くことがない。されば自分にとっては最もおそるべき鬼神力も、またあるときは最も親しむべき友たることが少なくない……」

 彼の観ずる世界においては、人間の生活し、目に見え、耳に聞く世界の他に、これより一段上の世界として鬼神力ないし観音力のおこなわれる世界、魔道の世界が存在する。この世界の住人は人間を無視している。しかし、さかしらな人間がこの一段上の世界に余計な容かいをしようとしたり、人界で得た小さな権力や財力をかさにきて、この世界の掟までも侵そうとすると、鬼神力の一撃はたちまち人間を損なう。

『草迷宮』を例にとってみる。怪しいことのつづく秋谷邸に宿をとった客僧の前に「六十余州をまかり通るもの」と名乗って現われた、頭が鴨居を越す偉大な魔人の言菓を聞いてみよう。

「魔は人間をのろうものではない。否、人間をよけて通るものじゃ。しかるが故に人間どもが迎え見て損なわるるは自業自得じゃ。真日中に天下の往来を通るときも人がくれば路を避ける。出会えば傍へ外れ、やり過ごして背後を参る。が、しばしば見返る者あれば、煩わしさに隠れおおせぬ。見て驚くはそやつの罪じゃ」

 すなわち、鬼神力の世界があって、なるべく人間の眼にふれまいとしてはいるが、何かの機会に人間の世界と交渉ができると、人は畏怖しなけれぱならないというのである。


姫路城

 ところが『天守物語』では、姫路城の天守に住む魔界のけん族で気高い貴女の天守夫人は、城主の武田播磨守が馬に乗ってそり返って威張っているのを好まない。そして鷹狩の雪のような白鷹を手取りにし、地上の人が驚いて矢を射かけるとそでで払い落し「推参な」と怒っている。さらに後段で「鷹には鷹の世界がある。露霜の清い林、朝嵐夕風のさわやかな空があります。決して人間の持ちものではありません。諸侯などというものが、思い上った行過ぎな、あの童を、ただ一人じめに自分のものと、つけ上がりがしています」とも言う。

 ここでは人間の権力や欲望や、あるいは掟などが鬼神力を侵そうとし、人間と魔界の衝突が起っている。しかも鏡花は、人間が魔界を侵すのを許さない。武力を持った姫路の城主もその家来も、ただ空しく右往左往するにすぎないのである。

 鏡花自身は、そのおばけ趣味は両親の信仰に影響された彼自身の迷信的な性質によるものだといっているが、彼の持っているこのような魔界観を単に迷信と考えてよいものであろうか。彼はその伝記によると、内気で臆病でごくわずかの親友を除けば交際の範囲もせまかった。彼の作品を愛し、彼を崇拝する人は多かった。しかし彼は、そういう崇拝者を自分の弟子として後継者として面倒を見、世話をするということはできなかった。彼はその故郷金沢の自然を熱愛した。また、その士地のさまざまの年中行事や習慣を懐かしがっ

ている。それにもかかわらず彼は故郷の人間を極端に嫌い軽蔑した。『由縁の女』などを見ると、彼は故郷の人々に対して被害妄想的な感情さえ持っていたのではないかと疑われる。とにかく彼が社会性の少ない、むしろ人間嫌いというような性格をそなえていたことは誤りがないところだと思う。

 彼の人間瞭いの特徴が最もはっきり現われているのは『化鳥』であろう。この中では、美しい母とただ一人で貧しく暮らしている子供が母に教えられて、橋の上を通る人々や仕事をしている人達を獣や茸になぞらえて楽しんでいる。そこには、人間を軽蔑するといりよりも、人間よりも烏や獣や植物などの自然物の方がいっそう美しいものだという考えが根本に横たわっているのである。

 こういう彼の性格は、私に精神分裂症に親和性のある分裂性性格を思い出させる。特に、彼の人間嫌いは、彼自身を含めた人間嫌いではなく、彼自身は全然別個のものとした嫌人であり、己のみの小天地をつくろうとする自閉であって、分裂性性格にはしぱしば特有なものである。

 『化鳥』の中で、美しいお母さんがほかの人々に関しては平然と島や獣にたとえながら、自分のことだけはいささかちゅうちよした後に「五色の羽のある美しい姉さん」といっているのは、鏡花の他人との対立的な意識を示していると思う。

 彼はその分裂的性格にもとづいて他人が嫌いなのである。軽蔑さえもしている。また同時に彼は他人に恐怖を抱いてもいる。そこで彼は逃避を試みる。彼の世界は人の世では困るのである。彼は、あるいは追憶の懐かしさに沈潜した。また彼は観念的な美の世界を創造しようともした。それにもまして彼は、超人間的な多神教的な魔道の世界に安住の地を見出そうとした。すなわち、彼のおぱけの世界は人間界からの逃避なのである。 

            (西川 修、精神衛生、1951年4月号)

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