<ストレートアップ>

いつまで待てばいいのか

 

 またしても交通事故の現場上空にドクターヘリが飛来しながら、着陸できないという事態が起こった。

 いまから5か月ほど前の5月27日のことである。16時20分頃、東名高速三ヶ日トンネル付近で、7人が乗ったワゴン車のタイヤがパンク、時速100キロを超える高速で走っていたため、車はガードレールにぶつかって横転、2人が車外に放り出された。目撃者からの通報で、119番本部が事故の発生を知ったのは16時24分。救急車が現場へ走るなどして、浜松に近い聖隷三方原病院のドクターヘリが出動要請を受けたのは16時33分。3分後に離陸し、ほぼ5分で現場上空に到着した。

 ところが着陸できない。付近に障害物があったわけではない。片側2車線の高速道路も事故のために交通が止まり、前方は広くあいている。けれども道路公団や警察が着陸を認めないのだ。

 ヘリコプターは医師をのせたまま、路上に倒れている怪我人を上から見ながら10分間ほど許可を待った。しかし、ついに諦めて、やや離れた小学校の校庭に着陸したのは16時51分であった。

 そこから医師と看護師が、救急車に便乗して現場に着いたのは16時54分。ヘリコプターの現場到着から約15分後、事故発生を知ってから30分後のことである。

 現場では直ちに救急治療が始まった。その間もドクターヘリ関係者からは道路公団と警察へ着陸許可を求めつづけ、公団が承認を出したのは17時18分。ヘリコプターが現場上空に到着してから30分近く後のことである。しかし警察の承認は最後まで得られず、怪我人は救急車で病院へ向かった。

 この事態にあたって、ヘリコプターと医師の活動が円滑に進行していれば、ヘリコプターの出動要請から8分後、事故発生から約20分後には、現場での治療を始めることができたであろう。出動要請がもっと早ければ、治療の着手も早かったはずだが、実は初めのうち119番本部でも事故の様子がよく分からず、要請を出すのが遅かった。

 結果として、ワゴン車に乗っていた7人は1人が死亡、2人が重傷、4人が軽症であった。突発的な事態に対応するのは決してたやすいことではないが、同時にまた救急業務が一刻を争うことはいうまでもない。この矛盾した状況に如何に対応するかが、危機管理の根本である。

 今後は二度と同じことを起こさぬようにという決まり文句で締めくくる前に、実はこれが昨年の二の舞だったことは記憶に新しい。2003年6月23日、同じ東名高速道で生じた多重玉突き事故で、浜松と名古屋から合わせて2機のドクターヘリが飛来しながら、やはり10分ほど上空で待機させられた。しかし何故か、道路公団も警察も広々とあいた本線上への着陸を認めようとせず、道路から離れた空き地に着陸せざるを得なかった。

 怪我人は大勢の人にかつがれた担架で土手を降り、あぜ道を越えてヘリコプターのそばへ運ばれた。このとき事故に巻きこまれた車は12台、うち6台が焼損。死者は4人、負傷者13人であった。

 日本の交通事故による死者は1970年の16,765人をピークとして、2002年には8,326人まで、ようやく半減した。これを受けて小泉首相は2003年1月2日、今後10年間でさらに半減させると発表した。あれは単に、正月の屠蘇気分が言わせただけものだったのか。上のような無為無策が繰り返されているところを見ると、早くも2年になろうとしていながら、未だに屠蘇の酔いが覚めてないに違いない。

 今年3月に発表された「厚生労働科学研究――ドクターヘリの実態と評価」(益子邦洋ほか)によれば、2003年中にドクターヘリの治療を受けた重症患者1,702例のうち死者は542人であった。しかし、もしもヘリコプターがなければ821が死亡したと推定される。

 ということは、その差279人が死なずにすんだことになる。すなわち推定死亡821人のうち34%が「避けられた死」を免れたわけである。この比率を1970年から2003年までの路上の死者354,069人に当てはめると、34年間で丁度12万人が無駄に死んだことになる。

 逆にいえば、救急ヘリコプターの全国配備によって、死者を5割減らすうちの3割余が達成されるのである。あとは道路や車の安全性の向上、酒酔い運転や暴走の取締りといった対策になろう。ヘリコプターの効果は決して軽視してはならない。

(西川 渉、『日本航空新聞』2004年11月11日付所載)

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