<ヘリコプター救急>

二つの発端 

  

 昨夏ドイツを訪ねた折り、NPO法人ドイツ・エアレスキュー(DRF)の役員と話をする機会があった。DRFは現在、国内27ヵ所に拠点を置いてヘリコプター救急事業を進めているが、ここに至る発端は1969年にさかのぼる。

 ある日、ひとりの少年がプールで泳いだ帰り道、向こうから走ってきた車にはねられた。現場近くにいた人びとがすぐに救急本部や警察に電話をかけた。しかし何度電話しても救急車は現れない。やっと到着したのは1時間以上たってからであった。

 大けがをした少年にとって、この待ち時間は余りに長すぎた。病院へ運ばれる途中、救急車の中で息を引き取ったが、あと数日で9歳の誕生日を迎えるという日のことである。

 この事件を知った人びとは、少年が死ぬ必要のなかったことに気がついた。そして少年の死から何日もたたずして、両親は自ら基金を出し、少年の名前をつけた財団をつくった。目的は迅速な救急体制を実現することだが、それには救急車を補うためのヘリコプターが要る。そこで寄付を募って1機を購入、内務省に提供した。内務省は、それを使って救急業務を実行に移した。

 やがて1972年、財団は今のDRFを設立、自らもヘリコプター救急活動に乗り出した。その結果、今では総勢およそ約700人の救急医とパラメディック500人を擁し、パイロット180人と整備技術者80人でヘリコプター35機、アンビュランス・ジェット4機を飛ばしている。2004年秋には発足以来30万人目の患者を救護した。

 そのDRFが1988年から支援を開始したのが欧州で最も小さい国ルクセンブルクのNPO法人ルクセンブルグ・エアレスキュー(LAR)である。それ以前ヘリコプターが必要なときは、国境を接するドイツやフランスに出動を依頼していた。しかしヘリコプターの飛来までに4時間もかかることがあったりして、救急担当者は外国への依存が不充分であることを痛感していた。

 この事態を解決するには、自分でヘリコプターを持つしかない。担当者はそのことを何度も上申した。しかし、誰もが反対するのである。おそらくは従来の救急機関にとって、自分たちの仕事が奪われると感じたからであろう。

 ところが、そうした議論をしているうちに、ある政府高官の子息が交通事故で死亡するという事件が起こった。救急車の到着までに45分を要したためで、このときヘリコプターがあれば、息子は死なずにすんだはずと思われた。

 そこで先ず、隣国からの応援を必要の都度頼むのではなく、ヘリコプターに常駐して貰うことになった。その依頼先がドイツのDRFで、機体1機とパイロット2人を借り受けた。

 やがて、さまざまな論議の果てに、1988年LARの設立が認められた。実際の飛行がはじまったのは翌89年で、最初の1週間に7件の救急飛行がおこなわれた。

 それでも、運航環境は必ずしも良くなかった。国の支援は燃料費だけで、それも飛行距離に応じた救急車の燃料代と同じ金額だった。また当初の事務所は飛行場の一角に置いたトレーラーだったし、格納庫の代わりにはテントが使われた。

 しかしルクセンブルグは国土がせまいために、身近に置いたヘリコプターはみごとな救命効果を発揮した。出動件数の7割が10分以内に患者のもとへ到着し、国境付近の遠いところでも16分しかかからない。こうして国民の多くが救急ヘリコプターの存在意義を認めるようになった。今ではルクセンブルク大公を初め、国民の多くの寄付に支えられ、2機のMDエクスプローラーがLARの救急業務に当たっている。

 以上は去る2月1日発行の「HEM-Netニュースレター」に掲載したものだが、LARについて最近、次のようなニュースが報じられた。それは4機目のMDエクスプローラー救急機が配備されたというもの。

 ルクセンブルクの国土面積は2,586ku。そこに今や4機の救急機が存在することになったわけだが、うち1機が予備機としても、配備密度は世界で最も高いといわれるスイスよりもさらに高く、3.7倍になる。ちなみにスイスは面積41,284kuで、13機の救急ヘリコプターが配備され、国内どこでも15分以内に医師が飛んでゆける体制である。 

 これでルクセンブルク国内は、如何なるところでも8分以内に医師が駆けつけられる体制となった。さらにドイツ当局と協定して、ドイツ側の辺境地帯へも飛ぶようになったという。かつてドイツの支援の下に始まったルクセンブルクのヘリコプター救急が、逆にドイツを支援するようになったわけである。

 LARには現在、地上職員のほかに、医師3人、フライト・ナース11人、パイロット10人が所属している。ヘリコプターの医療装備は単なる救急器具ばかりでなく、集中治療室にも相当する内容になっていて、救急ヘリコプターとしては世界最高の設備を誇る。

 このため搭載できる患者は1人。それを医師とフライト・ナースが救護するかたちだが、複数の患者が発生したときは、同時に2機でも3機でもヘリコプターを出動させる。また装備が充実しているだけにルクセンブルクからパリ、ストラスブルク、ブリュッセルなど半径400km程度の長距離搬送によって、容態に応じた大病院へ患者を送りこむこともできる。

 世界のヘリコプター救急は、ますます充実の度を加え、とどまるところを知らない。

(西川 渉、2005・2.17)

 

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