ミルMi−8

――ロシアの大型ヘリコプター――

 

 去る2月なかばのHAI大会で拾ってきたニュースの中に、ロシアのミルMi−8/Mi-17ヘリコプターの受注数が昨年は2割増し、8,000万ドル相当になったと書いてあった。これは新製機40機分に相当するらしい。このうち10機はコロンビア向け、残りはエジプト、インンドネシア、台湾、中国、ベトナムからの注文という。また現在Mi−8/Mi-17ヘリコプターは世界中で約6,000機が飛んでいる。うち半数はロシア国外とか。

 それを読んで思い出したのは4年ほど前に書いたMi-8シリーズの記事である。時間が経ったけれども、Mi-8ヘリコプターがどんなものであるかを書いたもので、話の内容は今でも通用するはず。いささか長いが、以下に掲載してご高覧に供したい。


所沢の航空発祥記念館へ

 今から20年余り前、旧ソ連の南部にあって黒海に臨む保養地のソチへミルMi−8ヘリコプターの旅客輸送を見に行ったことがある。当時の私の記録類はどこかにまぎれこんでしまって、いま手もとにはない。したがって全てがうろ憶えだが、厳寒のモスクワから朝早く、英語の上手なアビアエクスポルト(航空機輸出公団)の職員に案内されて、日帰りでソチへ飛んだ。

 いま頭の中に残っているソチの印象は、ほの暖かくて穏やかな天候だったような気がする。それにソチ空港の食堂で、空港長などとご馳走になった昼食のグルジア料理が、大きくて新鮮なキュウリなどと共に記憶に残っている。Mi−8に乗ったのは、その空港からであったろうか。とにかく黒海沿岸に点在する保養地を結んで、ヘリコプター定期便が飛んでいたのを旅客として体験したのである。

 しかし、どこをどう飛んだのか、今では忘れてしまった――というよりも、そのときもよく分からなかった。当時のソ連は、モスクワですら地図が入手できず、ソチの地図やヘリコプター路線図なども、要求すると「あとで送ります」というような返事しか得られなかったからである。東西冷戦の真っただ中で、外国人は常に監視されているという時代だった。市街地図などは最も危険な諜報資料だったのであろう。

 だから単に乗ってみたというだけだったが、それからしばらくして、朝日ヘリコプター経営陣は、これを日本に導入するという決断をした。成田空港の着工が論議されていた頃で、それがいかにも遠いというところから、ヘリコプター旅客便が計画されたのである。

 その場合、西側世界の大型ヘリコプターは高すぎて、どんなに計算しても採算に合わない。しかし西側の半値以下で買えるソ連機ならば、何とかいけるのではないかという判断であった。

 けれども、その後が大変だった。実際にMi−8が日本で飛ぶようになるまでには、およそ10年の歳月を要した。ソ連機の設計基準と、西側あるいは日本の耐空性基準が合わず、ミル設計局と日本の航空局との間で、延々と論議が続いたからである。

 航空局の姿勢は決して拒否反応ばかりではなかった。後段になってからは、設計基準が異なっていても、実験か何かの方法で日本側の基準を満たしていることが証明されれば、それでも認めようというということになった。

 ソ連側も初めのうちは、何千機も生産されて安全に飛んでいる実績があるのだから、それでいいではないかという乱暴な主張だったが、その強圧的な姿勢もだんだん柔らいで日本の要求に応じ、実験や改修をするようになった。最後はエンジン換装まで了承するなど、何百項目もの問題解決に応じてくれたが、それでも、どうしても解決できない問題が数十項目も残った。大きな問題ではパイロットの視界やキャビンの通路幅が、いずれもせまいということだが、こうなると胴体そのものを取り替える以外には解決できない。

 そこで結局、 Mi−8は旅客輸送を断念することになり、 貨物輸送だけという限定条件つきの耐空証明を認められた。しかも耐空類別上は「X類」という実験機のような扱いである。

 こうして日本に入ってきたMi−8は、ソ連のMi−8Pの改造型という意味でMi−8PAと名づけられた。世界で1機だけの呼称である。そして旅客輸送には使えぬため、重量物の運搬や木材搬出に使われた。しかし、過酷な作業条件にもかかわらず、本機は10年間の飛行中、機材上の不具合がほとんどなく、この間の整備費は何と1時間当り約 500円という安さであった。機外の騒音も、主ローターが大きくて回転数が少ないせいか、甲高い音がなくて苦情も少なかった。

 ソ連機は部品の補給体勢がよくないといわれる。たしかに、いざとなると困惑するようなこともあったが、そもそも部品を要求しなければならないような事態がほとんど生じなかったのも事実である。

 こうして1980年以来10年余りの間に3,000時間近い飛行をしたMi−8PAは、このほど、所沢に新設され航空発祥記念館に寄贈されることになった。今年(1993年)秋から公開展示の予定である。日本にきて、朝日航洋のパイロットや整備士に可愛がられ、いかにも大陸ロシアの航空機らしい力強さを発揮して、いま安住の場所を得たということができようか。

 

 

世界最高のベストセラー機

 ミルMi−8が初めて人びとの目に触れたのは1961年、モスクワで開かれた航空ショーのときである。その数年後に実用化されて以来、今日まで30年ほどの間に生産された機数は、正式の資料はないけれども、派生型のMi−14やMi−17も合わせて1万機以上である。これは、とりもなおさず、世界最高のベストセラー機といえよう。

 しかもソ連一国だけが使っていたわけではない。 2,800機が国外へ輸出され、55か国で使用された。アメリカにもヒューイ・シリーズという大量生産機があるが、それに勝るとも劣らぬ輝かしい記録であろう。

 そのうえMi−8の実績は単なる数や量の問題だけではない。量産に入ってからも絶え間なく改善と進歩をつづけ、この30年間に次々と改良を重ねて多数の派生型を生み出したのである。

 その冷戦の時代を通じて、このヘリコプターはソ連および東欧諸国の中核的な軍用機のひとつとして、あらゆる種類の任務に使われた。本来は中型輸送用ヘリコプターであったが、ロケット弾やミサイル装備をして攻撃機としても使われた。また戦場司令機や無線中継機などの特殊な任務にもついた。海軍では対潜水艦攻撃、機雷掃海、捜索救難などの任務をこなしている。

 実際に姿を見せた戦場は、たとえばイスラエル軍との闘いがある。1973年のことで、およそ 100機のMi−8がエジプト軍のコマンド部隊をのせ、スエズ運河を越えて進攻した。ヘリコプターによる進攻作戦としては、歴史上、もっとも大胆かつ成功した作戦といわれる。このときヘリコプターはロケット弾やキャノン砲で重装備をしており、兵員たちを地上に降ろすと、もう一度空中に上がって護衛の任務に当った。イスラエル軍の上空に飛んで、爆弾やナパーム弾を投下した機体もある。

 その後、Mi−8はアフガニスタン侵攻作戦、リビヤ戦争、長期にわたったイラン・イラク戦争、エチオピアとソマリアとの間のオガデン紛争、そしてアンゴラ、モザンビーク、ニカラグアの紛争などにも姿を見せた。これらの闘いを通じて、Mi−8はどこの戦場でも頑丈で、機構が簡単で、信頼性の高いことが実証された。

 Mi−8は軍用ばかりでなく、民間機としても重要な役割を果たした。アエロフロートが初のヘリコプター旅客輸送に使ったのもMi−8である。さらに宇宙から戻ってきた飛行士たちは誰もがMi−8で回収されるし、薬剤散布、消防、緊急物資輸送、救急患者輸送などにも使われる。また長いケーブルを引っ張って、電線を張ることもできる。

 そして現在なおロシア連邦はもとより、世界の多くの国々で現役の中核ヘリコプターとして飛行しているものが多い。そんな中で今日、Mi−8はしばしば時代遅れで、出力不足で、航続距離が短かいといった評価を受ける。確かに西側世界の最新のヘリコプターにくらべれば、そういう評価もやむを得ないだろう。

 しかし今から30年余り前の、同じ頃に開発された西側世界のヘリコプターに対比して決して遜色はないし、第一その頃の西側機材は今やほとんど姿を消したではないか。息長く存続しているのも、本機の優秀性を実証するものであろう。

主ローターは5枚ブレード

 ミルMi−8は、Mi−4ピストン機の後を継ぐ第2世代のヘリコプターとして、ターボシャフト・エンジンを装備して誕生した。タービン機であるために、Mi−4よりも、はるかにすぐれた能力を発揮した。いうまでもないことだが、タービン・エンジンは出力の割に小さくて、軽く、燃料も高価なガソリンを使う必要がない。

 それに、コンパクトだから、機体のどこにでも取りつけ可能で、Mi−8の場合は、キャビン上方、マストの前方につけることになった。これで機体の形状は空力的にもすっきりしたものとなる。エンジンからトランスミッションを経由して、ローター・マストにつながる動力伝達経路も、Mi−4にくらべるとはるかに短かく、かつ簡単になった。そのためトランスミッション系統の機構も簡便になった。

 ちなみにMi−4の場合はエンジンが機首先端にあり、その動力を延々と頭上のローターまで引っ張っていた。余談ながら、これは西側のシコルスキーS−55やS−58も同じである。それがS−61やS−62といったタービン機になって、エンジンはマストのそばに移り、機体形状もメカニズムも飛行性能も全てがすっきりと良くなった。

 タービン・エンジンによって、Mi−8がどれくらい進歩したか。Mi−4にくらべて、たとえば重量は1,247kgしか増えず、胴体も1.2mほど長くなっただけだが、キャビンの座席数はMi−4の14席に対して28席と2倍になった。エンジンの位置が変ったために、コクピットが最前方にゆき、その分だけ客室が大きくなったのである。

 キャビンを大きくすることはMi−8設計の最優先目標で、邪魔な突起物はまったく許されなかった。そのため燃料タンクは 371lの小さなものが床下に取りつけられただけで、あとは胴体両外側に大きな補助タンクが取りつけられた。大きさは右側が682l、左側が746lである。ただし、これらの補助タンクは常につけたままで、一種の標準タンクとして扱われている。そのうえキャビンの中にも補助タンクをつけることが可能であった。

 コクピットを最前方に置いたために、操縦席の視界は大きく広がった。操縦席の前の計器パネルも、小さく2つに分けていっそう視界を広げた。

 ローター・ヘッドも頑丈で簡単で、整備の手が余りかからないような構造になった。当初はMi−4と同じ主ローター、テールブーム、尾部ローターを使う予定だったが、1964年に実現した量産型は、むしろMi−6のものを縮小したようなものに改められ、主ローターも5枚ブレードになった。

 

数多くの派生型を生む

 最初のMi−8は、当時V−8と呼ばれた。「V]というのはロシア語のヘリコプター、すなわちヴェルトリヨート(Vertolet)の頭文字である。

 エンジンは1基だけで、ソロビヨフ・ターボシャフト(2,700shp)を装備していた。これが初めて公開されたのは、1961年7月3日に開催されたツシノ航空ショーである。直ちに「ヒップA」というNATOコード名が与えられたが、この単発機はやや出力不足だった。そのため、それを改善し、さらに安全性を高めるために考えられたのが双発機である。

 採用されたのはイソトフTV2-117エンジン。これを2基装備したヒップBは1962年9月17日に初飛行し、1964年から量産がはじまった。エンジン出力は、原型機が1基当り1,400shpだったが、量産機では1,500shpに向上し、後には1,700shpになった。

 そして最後に1,900shpのイソトフTV3-117MTに換装されたが、これが民間型のMi−17である。なおMi−17という呼称は民間型だけで、軍用型はMi−8Mと呼ばれる。またヒップというNATO名は両方に共通である。

 これらMi−8/17ヒップの大きな特徴は、キャビン後方の貝殻ドアである。これで大型貨物の積みこみが可能になる。また、このドアは容易に取り外し可能で、パラシュート降下のときなどは外して飛ぶらしい。

 ヒップは気象条件の悪い中でも飛行できるよう設計された。4軸の自動操縦装置に豊富な航法装備を加え、全天候性と全気候性を持つようになった。またドップラーも装備され、低速でピトー管の速度計が無効になるときでも、正確な速度や偏流を測ることができた。また寒冷地でも使えるように、ローター・ブレードには氷結感応装置が付き、自動的に防氷電熱装置のスイッチを作動させる仕組みになっている。この装置は、さらに窓ガラスやエンジン空気取り入れ口の氷結も防ぐことができる。

 最近のMi−17やMi−8Mは、エンジン出力が増大したため、飛行性能がいちじるしく改善され、信頼性が高く、しかも経済性の高い機材となった。高温・高地性能も非常に良くなっている。巡航速度も速くなり、地面効果外のホバリング能力は2倍になった。また1発停止のときは、残りのエンジン1基で2,200shpまでの緊急出力を発揮することができる。

 またMi−8の時代は右側についていた尾部ローターが、左側に移って効率がよくなった。主ローター・ハブもチタニウム合金に変わり、新しいギアボックスがつき、アビオニクスや計器類も改善された。

 さらに出力が増大したために、ヒップの使い勝手はますます良くなり、軍用機としては攻撃機としてもすぐれた能力を発揮、特殊な電子作戦にも使えるようになった。そのためには胴体の随所に巨大なアンテナを取りつけ、下面には熱交換機がつくという特異な外観であったが、重装備にもかかわらず、飛行性能はほとんど落ちていない。

 海軍機としても、胴体の下半分を水密構造の艇体型に改めたMi−14が登場した。NATOコード名は「ヘイズ」である。同機は降着装置を引込み脚とし、ポップアウト・フロートを装着、着水や水上タキシングも可能な水陸両用機となった。そしてASW対潜水艦作戦、機雷掃海、SAR捜索救難などに使われた。

 Mi−8は辺境の地にある国境警備隊でもよく使われている。その任務は、Mi−24ハインド攻撃機の護衛を受けながら、進攻作戦の兵員輸送であった。同時に、みずからも重装備が可能で、ロケット弾や対戦車ミサイルを装備して攻撃機として飛ぶこともあった。

Mi−8の派生型と発達型

 それでは以下、こうしたMi−8/14/17シリーズの多数の派生型と発達型を見てゆくことにしよう。ただし、その各型についてミル設計局がどのような呼称をつけていたか、余りはっきりしないところもある。そこで、ここではソ連もしくはロシア側の名前を推定しながら、はっきりしないときはNATO委員会がつけたコード名で区別することにする。そのコード名はMi−8とMi−17が「ヒップ」、Mi−14が「ヘイズ」である。

 

●Mi−8(V−8)ヒップA

 Mi−8の原型1号機が初飛行したのは1961年と見られる。ツシノ航空ショーで初めて公開されたのは1961年7月3日であった。

 エンジンはソロビヨフ・ターボシャフト(2,700shp)が1基という単発機である。主ローターはMi−4の4枚ブレードを使用。主脚には独特のフェアリングがかぶせてあった。また操縦席両側のドアは上半分の窓だけでなく、下半分も透明で、外部下方がよく見えるようになっていた。

 この最初のMi−8は、むろんMi−4の後継機として設計されたもので、随所に進歩のあとが見られるが、如何せん、やや出力不足であったし、双発の安全性もなかった。

 

●Mi−8ヒップB

 Mi−8の2番目の原型機である。合わせて何機か製造されたが、エンジンはイソトフTV2-117(1,400shp)2基に変わり、双発の安全性をそなえると共に、出力も増加した。主ローターは、初飛行の時点では依然4枚ブレードだったが、Mi−4のそれとは異なり、テーパーがなくなって翼弦一定の金属製であった。

 初飛行は1962年9月12日と推定される。その初飛行から間もなく、主ローターは5枚ブレードに換装された。これはMi−6のそれを短縮したような構造をもっていた。のちにはパイロット専用のドアもなくなった。さらにエンジン出力も増加し、1基当り1,500shpとなった。

 こうした改良によって、Mi−8は速度201km/h、航続距離2,464kmという記録をつくった。そして1965年と67年のパリ航空ショーに参加、多数の外国人パイロットの試乗を許した。このとき、米国のあるテスト・パイロットは操縦性の良さに驚いたと語っている。

 この原型機は乗客24人乗りの旅客輸送用の内装がほどこされていた。また客席を取り外せば、そのまま貨物輸送にも使えるよう、床面には固定金具がついていた。この基本的考え方は、のちのMi−8Tに受け継がれている。

 

●Mi−8PヒップC

Mi−8初の量産型である。民間向けの旅客輸送および貨物輸送用で、客席やじゅうたんなどの内装を取り外すと、貨物機にも早変わりできる。

 この量産型1号機は1967年、アエロフロートに引渡された。同機はすぐにアゼルバイジャン地方へ送られ、石油開発支援のための人員輸送に使われた。そこでは、Mi−8の到着するまでMi−4が使われていたが、Mi−8はエンジンが双発で、航法機器もすぐれていたため、Mi−4では飛べないような悪天候でも飛行可能であった。

 客席は左右2席のベンチ・シートで、これが通路をはさんで左右2列、前後7列並んでいる。座席には肘掛けがついていたが、通路の幅はせまく窮屈だった。これが先に述べたように、朝日ヘリコプターのMi−8で問題になり、航空局からは座席を改造して幅を広げるよう求められた。そうでないと、万一のときに迅速な脱出ができないというのである。しかし通路を広げると座席幅が小さくなりすぎるし、さもなければ座席数を減らさなくてはならず、また改造費も高くて、結局は旅客輸送を断念せざるを得なかった。

 Mi−8のキャビン後方には、手洗い、ワードローブ、手荷物室などもあった。また後方の食器棚を取り外せば、もう1列の客席装着が可能だった。また、副操縦席の窓の下は依然透明ガラスになっていたし、主脚にはフェアリングがかぶせてあって、先の原型機の形態をとどめていた。

 Mi−8Pは、軍隊でも高官輸送用に使われた。

 

●Mi−8S(サロン)ヒップC

 これも民間向けの旅客輸送用として開発されたものである。ただし、その一部は政府要人や軍高官のVIP輸送用としても使われた。機内はMi−8Pよりも豪華で、9〜11人分の肘掛け椅子やテーブル、さらには厨房があった。

 外観はMi−8Pと同じで、キャビンの窓が四角くて、大きいこと。その後の軍用型は全て小さな丸窓になった。航続距離は、30分の予備燃料を残して380kmである。

 (Mi-8S)

 

最も標準的なMi−8T

●Mi−8TヒップC

 Mi−8Tはもともと民間向け多用途機として設計されたものである。外観上の大きな特徴は、キャビンの窓が、それまでの大きな四角形から小さな円形に変わったことで、しかもこの丸窓は飛行中に開けることが可能であった。

 座席はすべてレールの上に取りつけられ、素早く取り外して貨物機や救急用に早変わりさせることが可能であった。救急機としては担架11人分と多数の医師や看護人をのせることができた。

 また、機内には容量 200kgのウィンチがあって、貨物の積みこみを容易にした。乗降ドアの上方には、Mi−8としては初めて人員の吊り上げウィンチが取りつけられ、捜索救難にも使えるようになった。乗降口に透明なゴンドラを取りつけ、クレーン作業の際はここに補助者をのせ、吊り下げ貨物のようすを見ながらパイロットを誘導できるようにもした。吊り下げフックの容量は3トンである。

 Mi−8Tの量産1号機は、これもアエロフロートに引渡され、旅客輸送、貨物輸送、患者輸送などに使われた。北極や南極のパトロールや調査飛行もしている。

 軍用機としては1967年7月、ドモデドボ航空ショーで初公開された。胴体左右に2か所ずつの火器取りつけパイロンがあって、それぞれに57mmロケット弾16発ずつを入れたポッドを装着することが可能であった。のちにはパイロンを強化して、もっと大きなロケット・ポッドや250kg爆弾も搭載できるようになった。

 Mi−8Tは、初めのうちは1,500shpのエンジンをつけていたが、後に1,700shpのTV2-117Aに変わった。そして標準的な軍用ヘリコプターとして、Mi−8の中では最も多く生産された。外国にも多数が輸出されている。

 新しい航空技術の開発用テスト・ベッドとしても使われた。たとえば1989年には本機を使ってフライ・バイ・ワイヤ試験がおこなわれ、またプロパン/ブタン・ガスを燃料する可能性について試験がなされた。そのためのエンジンは1,500shpのTV2-117TGで、シベリアの僻地に特殊な航空燃料を配置するのが厄介だったため、現地調達が可能なプロパンおよびブタンで飛ぶことの可能性を探ったものである。

 

●Mi−8?ヒップD

 本機に対するロシア連邦やミル設計局の呼称は、今も不明である。ほかのヒップとの違いは、胴体左右のパイロンに小さな四角い容器がついていること、またテールブームの上下に沢山のアンテナがついていることで、おそらくは無線中継機か戦場指令機と思われる。こうしたヒップDはごくわずかしか存在しないようだが、新しく製造されたものか、あるいはMi−8Tを改造したものかも分っていない。

 

●Mi−8TBヒップE

 Mi−8Tとの相違は、機首に12.7mm機銃を装備していること。また火器パイロンが再設計され、それぞれに57mmロケット弾32発入りのポッドを6個ずつ取りつけられるようになった。合計 192発である。また4基のファランガ対戦車誘導ミサイルの装着もできる。そして機首下面には12.7mm機銃を装備、大きな攻撃力と破壊力をもっている。それにコクピットの周囲は装甲板で囲まれ、赤外線抑制装備をするなど、ヒップEは恐らくは世界で最も重装備をしたヘリコプターではないかと思われる。たぶんMi−24を超える重装備であろう。

 なお重装備の分だけ、ヒップEは兵員の搭載数を減らす必要があるはずで、14人が最大と見られる。

 

●Mi−8TBKヒップF

 Mi−8TBとそれに装備するAT−2スワッター・ミサイルの輸出が認められなかった当時、東ドイツからの要求に応じてつくられたのが、このTBKである。機体はTBと変わらず、機首の機銃や火器パイロンもヒップEと同じだが、実際に装着されたのは旧式のマリュートカ(NATO名AT−3サガー)ミサイル6基であった。

 東ドイツにおける存在は1980年に明らかになったが、本機を保有していたのは恐らく同国だけであろう。ドイツ統一後は、新しい空軍に引き継がれている。

 なおユーゴスラビアは、自国でMi−8を改造し、AT−3ミサイルを装備できるようにしたもよう。同じAT−3をガゼル軽ヘリコプターにもつけたらしい。

 

●Mi−9ヒップG

 Mi−9の存在はほとんど知られていない。東ドイツが旧式化したヒップDの代わりに、戦場指令機および無線中継機として採用したものである。標準型Mi−8Tとの外観上の相違は、胴体後方下面とテールブームに合わせて3本のアイスホッケー型アンテナがついていること。

 ドイツ統一後は、電子装備が取り外され、輸送ヘリコプターとして使われている。またロシア、チェコ、およびスロバキア空軍は、今も司令機として使っている。

 

 Mi-8シリーズの主要データ

Mi−8

Mi−14

Mi-17

エンジン

TV2-117A

Tv3-117MT

エンジン出力

1,700shp×2

1,900shp×2

主ローター直径

21.29m

21.29m

21.63m

尾部ローター直径

3.91m

3.91m

3.91m

全長

25.24m

25.30m

25.35m

全高

5.65m

6.93m

5.65m

自重(民間型)

6,800kg

7,100kg

自重(軍用型)

7,260kg

総重量(通常)

11,100kg

11,100kg

総重量(最大)

12,000kg

14,000kg

13,000kg

機内ペイロード

4,000kg

4,000kg

機外ペイロード

3,000kg

3,000kg

最大速度

260km/h

230km/h

250km/h

巡航速度

220km/h

215km/h

240km/h

運用高度限界

4,500m

3,500m

5,000m

地面効果外ホバ高度限界

800m

1,760m

地面効果内ホバ高度限界

1,900m

航続距離

500km

1,135km

495km

第2世代のMi−17

●Mi−17/Mi−8M/TVヒップH

 初飛行から15年を経たMi−8は、ここから第2世代に入る。

 Mi−17は1976年に初飛行、1981年のパリ航空ショーで初めて西側世界に公開された。Mi−8Tを基本として、エンジンをTV3-117MT(1,950shp)に換装したもの。このエンジンは1発停止の場合、残りの1発が2,200shpの緊急出力を発揮することができる。

 外観はエンジン空気取り入れ口に大きな防塵フィルターがついたことと、尾部ローターが右舷から左舷に移ったこと。これで回転方向が逆になり、牽引力で反トルク力を発揮するようになり、効率が良くなったという。

 また外観では分からないけれども、ローター・ハブはチタニウム製に変わり、ギアボックスも新しくなっている。機外の吊り下げフックと機内搭載量は変わらず、それぞれ3トンと4トンである。しかし飛行性能は大いに改善され、巡航速度は60km/hほど増加したし、地面効果外のホバリング高度限界は2倍になった。最大離陸重量も10,000kgから13,000kgに増えたが、燃料消費は逆に減っている。

 Mi−17という呼称はロシア空軍では使っていない。正式にはMi−8M、Mi−8MT、またはMi−8TVと呼んでいる。ただし外国向けの輸出機はMi−17と呼ばれている。

 そこで両者を合わせたヒップHの装備上の特徴は、コクピットの装甲、赤外線ジャマー、排気ガス分散装置など。火器パイロンはMi−8TBと同じだが、機首の機銃をつけたものは少なくなった。ただしアフガニスタンのMi−17には機首の高い位置に12.7mm機銃がついた。操縦席の外側周囲には装甲板がついている。機内には航続距離を伸ばすための補助燃料タンクも搭載できる。

 

●Mi−17−1ヒップH

 Mi−17の改良型として1980年代末頃出現した。Mi-171とも呼ばれる。エンジンは高々度用のTV2-117VM(1,900shp)が2基。これで4トンの重量物を高度5,000mまで持ち上げることが可能になった。

 機首下面にはレドームがつき、その中に気象レーダーを装備する。ほかに長距離航法システム、ドップラー・レーダー、ホバリング・コントロール装置など、新しいアビオニクス類がつく。1990年イギリスのヘリテクで展示されたが、その機体はキャビンが前向きのエアライン型の座席であった。

 

●Mi−17−1BAヒップH

 1989年のパリ航空ショーで公開された病院ヘリコプター。手術台や術後の回復用ベッド、各種の生命維持装置をそなえ、外科手術用の照明設備も完備している。後方の貝殻ドアには2つの発電機と医療機器が搭載され、西側の救急ヘリコプターに対して、はるかに大がかりな医療設備をもつ。

 これに医師や看護婦が乗り組んで、大災害の現場――特に病院の少ない辺地や災害のために医療施設が破壊されたようなとKROへ飛んで、怪我人の治療に当るのが目的であろう。事実、本機はアルメニア地震の際に使われている。

 

●Mi−8?ヒップJ

 ロシア連邦やミル設計局の呼称は不明。レーダーのジャミングやECMプラットフォーム機として使われているらしい。ごく少数が存在するだけで、ドイツ国境線などに配備されていた。

 外観はMi−8Tと変わらない。ただし胴体側面に箱型のアンテナが左側だけで2か所についている。

 

●Mi−8P(Mi−8PPA?)ヒップK

 ヒップJと同じように、ヒップKも1980年代初め、欧州に現れた。おそらく通信用電波の妨害を主要任務とするもので、そのための十字形2極アンテナをテールブーム前方とキャビン後部にまたがって、両舷につけている。またエンジン排気口のすぐ下の辺りに、キャビン側面から大きな四角い箱を突き出しているが、これも何かのアンテナを内包しているのであろう。胴体下面には6つの熱交換器を左右に並べて取りつけてある。チェコスロバキアなどにも輸出された。もっとも実際に本機の使用が確認されているのはチェコだけで、そのチェコではMi−8PPAが本機の正しい呼称としている。

 

●Mi−17P(Mi−17PP?)ヒップK

 NATOコード・ネームは同じヒップKだが、実際はMi−8Pの派生型で、機体とトランスミッションはMi−17のものを使用している。テールブーム前方の2極アンテナは、小さな円筒形のアンテナが8個ずつ縦に4列、合わせて32個並んだものに変更されている。またテールブーム中央部にも4個の円筒から成るアンテナがついた。本機は少なくとも2機がハンガリーに輸出された。

 

●Mi−17?ヒップ?

 チェコスロバキア固有の機体で、少なくとも2機が存在する。機体は明らかにMi−17ヒップHだが、チェコ軍みずから何と呼んでいるか分からない。

 チェコスロバキアは珍しいヒップ・シリーズの博物館のようなもので、Mi−8PPAヒップKのほかにも、少なくとも1機のMi−9ヒップGや、このMi−17を持っている。胴体左右に張り出した腕木の先に大きなドラム缶のような容器を2個ずつつけ、中身は明らかに電子機器かアンテナで、電子作戦に使われるもよう。

海軍専用のMi−14ヘイズ

●Mi−14/V−14ヘイズA

 Mi−8ヒップを海軍向けに改造した水陸両用ヘリコプター。開発は1968年にはじまったらしいが、実際に飛んでいるところが確認されたのは1973年で、おそらくこの年初飛行したものであろう。原型機はV−14と呼ばれ、Mi−8を基本として胴体の下半分を艇体型に改め、両側にはスポンソンをつけて、ポップアウト・フロートと引込み脚を収納する。またテールブーム先端にも小さなフロートがついた。なお緊急用フロートは着水時に膨らませて、水面に浮いているときの機体の安定を保つ。またテールブーム下面先端の小さなフロートは、着水時に尾部ローターが水面を叩くのを防ぐためのものである。

 ほかにエンジンの空気取り入れ口の形状が変わり、キャビン後方の貝殻ドアがなくなり、機首下面のレーダーは引込み式となって、尾部ローターは右側。エンジンはTV2-117A(1,700shp)が2基である。

 このMi−14原型機からは、次の通り3種類の派生型がつくられた。Mi−14PLはNATOコード名がヘイズAで対潜水艦作戦(ASW)機、Mi−14BTはヘイズBで機雷掃海機、Mi−14PSはヘイズCで捜索救難(SAR)機である。

 

●Mi−14PLヘイズA

 Mi−14の量産型である。当初はほとんど原型機と同じだったが、1982年にTV3-117MT(1,900shp)エンジンが装着されてからは、引込み脚のドアがなくなり、胴体下面の魚雷収納ベイのドアも移動し、尾部ローターは左側に移った。その後、さらにエンジン出力が1,950shpに増強され、片発時の緊急出力は2,225shpとなった。

 対潜水艦作戦では、長時間のホバリングが可能だし、きわめてゆっくりした速度で飛行することができる。これらはソナーの操作をするためだが、このように長いホバリングや低速飛行では正確な操縦が必要であり、さらに安全性を確保するためにも、エンジン出力が増強された。

 しかし艦載機としては大きすぎるために、通常は陸上基地から出動する。東ドイツ、リビヤ、ポーランド、ユーゴスラビアなどに輸出された。

 

●Mi−14PLMヘイズA

 本機は1989年のモスクワ国ショーで公開されたもので、従来のMi−14にくらべて多少の改良が見られる。外観上最も大きく目立つのは機首下面のAPM−60磁気異常探知器の収納ハウジングである。エンジンはTV3-117MT(1,950shp)が2基。前輪および主脚の収納ドアはない。

 

●Mi−14BTヘイズB

 Mi−14PLのASW機として成功したことと、米国の機雷掃海用ヘリコプターの存在にヒントを得て、本機は機雷掃海機として開発されたものである。1982〜83年に徹底的な実用テストがおこなわれ、それに成功して艦載機としてソ連艦隊に配備された。BTとはロシア語の掃海装置曳航機の頭文字で、高度15〜20mで掃海器具を曳航する。

 掃海器具は対象となる音響機雷や接触機雷に応じて、少なくとも3種類がある。

Mi−14PLとの違いは、キャビン後部に積んでいたMADがないこと。またキャビン最後部の下の方に新しい小窓がついて、掃海係員が掃海そりの動きを機上から見ることができる。また胴体右側の窓の上に冷暖房装置がついた。

 エンジンはTV3-117MT(1,950shp)。

 ロシア海軍では、25機程度を保有しているものと思われる。また東ドイツに6機が輸出されたが、ドイツ統一の直前、掃海装置を外してSAR機に改められた。

 

●Mi−14PSヘイズC

 Mi−14BTの機体を基本とする多用途機として開発された。主な任務は捜索救難で、そのためヘイズCはキャビン・ドアの幅が非常に広くなり、サーチライトや吊り上げホイストもついた。中には垂直写真を撮るためのカメラ・マウントをテールブームの下面につけたMi−14PSもある。

 前輪および主脚を引っ込めた後のドアはない。エンジンはTV3-117MT(1,950shp)が2基。

 

●Mi−14PXヘイズA

 PXとはポーランドの呼称で、Mi−14PSの訓練機としてポーランドで使われているもの。PSの装備品をほとんど外してあるが、主脚を収めるスポンソンの先端とMADバードを収めるハウジングに灯火が追加装着され、サーチライトも2個装備している。これでSARの乗員訓練に使われる。

アフガニスタン侵攻作戦に参加

 以上のような、さまざまなMi−8シリーズは、この30年間、実際にどのような場面でどのような使われ方をしてきたのであろうか。いくつかの具体例を、以下に見てゆこう。

 最初に取り上げるのは、アフガニスタン侵攻と反政府軍に対する作戦に使われたソ連のMi−8Tである。

 ソ連軍のアフガニスタン侵攻は1979年12月からちょうど10年間に渡っておこなわれた。この間、親ソ政府に対抗するゲリラ軍を攻撃するためMi−24ハインドやMi−8/17などのヘリコプターが使われた。

 このうちMi−8については、当初Mi−8ヒップCが使われたが、1985年頃からMi−17ヒップHが投入された。これらの用途は兵員輸送、物資補給といった本来の輸送任務のほかに、空中パトロールや攻撃機として使われることもあり、機雷の敷設もヒップの任務であった。

 攻撃機としての戦法はハインドと同様、胴体左右にロケット弾やミサイルなどの火器を装着、機内には7.62mmまたは12.7mm機銃、もしくは30mmてき弾砲を搭載した。しかし実際はハインドと違ってコクピット周りの装甲板が最大7mmの厚さしかなく、パイロットたちはゲリラの近くを低空で飛ぶのをいやがったらしい。

 また輸送機としては人員、物資、死傷者を輸送した。このような輸送は、この国が山岳地帯にあるため、ヘリコプターがなければきわめて困難だったはずである。ヒップの基地は通常、戦場ではなくて後方の飛行場にあった。そして出動命令が出ると前線に出てゆくのである。

 ヒップの最も重要な任務は進攻輸送であった。兵員をのせたヒップの編隊の前をハインドが飛び、ゲリラの攻撃を抑えておいて、前線目的地にヒップが着陸、兵員や火器を降ろすという方法を取った。この作戦は通常、大隊規模でおこなわれるが、ときにはゲリラ軍の射程内に入って、大量の死傷者を出すこともあった。特にゲリラ軍が西側のスティンガー・ミサイルを使うようになってからは、その攻撃を避けるために夜間、山合いの低空飛行を強いられるようになった。

 ソ連軍は、この実戦によって初めて真のヘリコプター用法または戦術を学ぶことになったが、その陰にはみずから10万人の戦死者を出し、アフガニスタン側には 100万人以上の犠牲者を生んだ。しかも国際的には一方的な軍事介入と内政干渉という非難を浴び、財政的な疲弊を招いた。 

対戦車ミサイルの装備も可能

 ポーランドもソ連に忠実に、空軍と海軍がMi−8、Mi−17、Mi−14の全てを使用してきた。空軍のMi−8Tが最初に配備されたのは1967年12月のこと。1979年末までの13年間に輸送用のMi−8Tが43機、人員輸送用のMi−8Pが9機、VIP輸送用のMi−8Sが5機輸入された。また1983〜89年の間には8機のMi−17が入っている。

 その主要任務は兵員、火器、資材の輸送と、負傷兵の護送である。機内の搭載能力は最大4トン委担架は12床である。最も重要な作戦は、兵員を搭載して進攻輸送に当ることで、最前線を突破して敵地に入り、橋、飛行場、鉄道駅などを占拠することである。このときMi−8/17はMi−24攻撃ヘリコプターやジェット戦闘機の護衛を受けながら、作戦を遂行する。兵員をのせた輸送用ヘリコプターは、敵の反撃を避けるため、地形の起伏に沿って超低空を飛びながら侵入してゆき、目的地をめざすのである。

目的地にくると、ヘリコプターは素早く着陸し、Mi−24の護衛のもとで、兵員を降ろす。この間、敵の攻撃に襲われるかもしれない。目的地の地形がせますぎたり、何かの理由で着陸できないときは、上空でホバリングをしながらロープで兵員を降ろすこともある。兵員を降ろしたヘリコプターは、そのまま基地に戻ることもあれば、地上部隊の護衛にまわることもある。そのためMi−8Tの胴体側面には、左右2つずつのロケット・ポッドが取りつけられ、総数64発の57mmロケット弾が収められている。またパイロンには爆弾をつけることもできる。

 Mi−17は、Mi−8にくらべて火器搭載能力が大きい。Mi−8のパイロンが4点で火器を取りつけていたのに対し、Mi−17は6点になった。そしてロケット弾32発を収納したポッド6個を搭載することができる。もしくは80mmロケット弾20発入りのロケット・ランチャー6個を装着することも可能。ほかに23mm機銃2門で、毎分3,000〜3,400発の弾丸を発射することも可能で、これらロケット弾と機銃は同時に搭載装備することができる。

 ただし火器装備が多くなると、兵員の搭載人数が減る。火器装備をしないときは、武装兵員24人の搭載が可能である。

 Mi−8やMi−17は特殊な任務にも当たる。たとえば夜陰にまぎれて単機で敵地に飛び、特殊部隊の兵員を降ろして基地に戻るか、そのままそこで待機するのである。あるいは機雷敷設にも使われる。キャビン後部のランプドアを特別に改造し、下方に下げたまま低速で飛行しながら機雷を落としていくのである。このようなヘリコプターによる機雷敷設は、進撃してくる敵の部隊を急きょ食い止めるような場合におこなわれる。

 ポーランド軍は旅客輸送型のMi−8PやMi−8Sサロンの運航もしている。これらは政府高官や要人の輸送に使われるもので、キャビン後部のランプ・ドアがないので軍用型と区別することができる。

 Mi−8Pの乗客は28人乗り。Mi−8Sは、外観はMi−8Pと変わらないが、機内は3つに分かれ、コクピットのすぐ後ろはバーになっている。真ん中のコンパートメントはゆったりした座席11人分があり、座席の間にはテーブルが2つ。各座席には地上との交信が可能な無線電話がついている。

 ポーランド軍には、もうひとつMi−8PDが存在する。Mi−8Pを改造したもので、ソ連のMi−9に相当し、機内にはさまざまな通信機器を搭載して空飛ぶ司令室として使われる。

 これらの軍用Mi−8/17は今も使われているが、軍縮協定によって火器装備は全て外された。そして民間の災害出動やクレーン作業、ときにはパラシュート降下にまで忙しく働いている。さらに軍隊のほかに警察もMi−8/17を使っている。大きなスピーカーやサーチライトがついて、重要な郵便物や銀行券の輸送にも使われる。

 こうした軍と警察の全部を合わせて、ポーランドのMi−8/17は現在、Mi−8Tが38機、Mi−8Pが6機、Mi−8Sが5機、Mi−17が5機である。これらの機材は今後も当分、使われて行くであろう。

対潜水艦作戦と機雷掃海

 ポーランドでは、海軍でもMi−14ヘイズが活動している。対潜水艦作戦(ASW)用の最初のMi−14PLが導入されたのは1981年7月のことである。先ず6機が購入され、さらに1984年6機が追加された。それから4機のMi−14PSも捜索救難(SAR)機として導入された。

 ポーランドのMi−14は全天候飛行が可能であった。また超短波の無線で僚機や地上基地と交信し、場合によっては遭難者との交信も可能であった。電波高度計は高度0から300mまでの高度を正確に測ることができた。

 ASWとしてのMi−14PLは、キャビンが大きく2つに分かれ、一方にはASWの各装備とレーダー操作員が乗り組む。第2のコンパートメントには特殊な火器収納ベイがあり、爆弾、深度測定装置、魚雷、救命いかだ、補助燃料タンクなどが収納してある。

 敵の潜水艦を探すための磁気異常探知機(MAD)は電動ウィンチで流される。これにはソナーもついて、ASW装備の一部をなす。このASWをさらに改良したのがMi−14PW−Mである。

 SAR用のMi−14PSは20人乗りのライフラフト10個を積んでいる。吊り上げウィンチは最大2人まで可能だが、急ぐときには直径 1.6mの救命バスケットを使い、一時に3人ずつ吊り上げることもできる。また長さ 1,000mの救助用ロープをもっていて、吊り上げた遭難者10人を機内に、残り12人をライフラフトにのせて引っ張ることも可能。胴体前方にはサーチライトもついている。

なお海軍向けMi−14には、もうひとつ機雷掃海機のMi−14BTがある。ポーランド海軍には、このBTがないけれども、強力なウィンチを装備していて、さまざまな掃海装置を曳航する。また同じ曳航要領で、このヘリコプターは小型船舶やバージ(はしけ)を引っ張ることもできる。

 こうした海軍向けMi−14ヘイズはソ連やポーランドのほか、ブルガリア、ルーマニア、キューバ、北朝鮮、リビア、シリア、ユーゴスラビアでも使われた。

 ポーランドと同じく、旧東ドイツでも多数のソ連製ヘリコプターが使われた。が、東西のドイツ統合から2年半を経た現在、それらのヘリコプターはどうなっているだろうか。統一ドイツの手に入ったソ連製のヘリコプターはMi−8ヒップが36機、Mi−24ハインドが51機であった。ヒップの中には何機かのMi−9戦場司令機も含まれる。またハインドは39機が旧式Mi−24D、12機が新しいMi−24Pであった。

 36機のMi−8は現在、ドイツ陸軍の3つの部隊に所属し、連絡や人員輸送に当たっている。しかし実際に飛んでいるのは36機のうちの24機で、残り12機は部品取りの機体になってしまった。

 またハインドは、今も飛べる状態だが、これといった飛行任務はない。そして6機がソ連機の実力を調べる評価試験に使われた。すなわち2機は米陸軍に貸し出され、4機はドイツ軍みずからテストをしたという。

 

 

最新型Mi-171へ発展

 そういう不幸な機体もあったけれども、Mi−8の活力は今も衰えない。そこで最後に、本シリーズの最新型、Mi-171について見ておくことにしよう。その開発と生産はシベリア東部のバイカル湖に近い工場でおこなわれ、1991年9月には英国レッドヒルで開催されたヘリテック・ショーに出場した。設計上の基本目標は全天候性と高々度性能を高めることであった。

 主ローター・ヘッドはチタニウム製の星形プレートで、五角形の各先端に振動防止のための大きな振り子型の釣り合い錘(おもり)がついている。ローター・ブレードは5枚で、アルミ製のブレード・スパーと複合材から成る。尾部ローターは3枚ブレードで、水安定板の左側につく。

 エンジンはTV3-117VMターボシャフト(1,950shp)が2基。空気取り入れ口には、ドーム形の防塵セパレーターが標準装備としてついている。このエンジンは高度 3,000mまで1,900shpの出力発揮が可能で、そのためにカーゴスリングの最大ペイロードも従来の3,000mまででなく、4,000mまで維持できるようになった。地面効果外のホバリング高度限界も、11,100kgという通常の全備重量で3,980mまで上がった。

 また自動ホバリング装置をつけて、重量物を吊り下げ輸送中のパイロットの労力を軽減させた。さらにエンジンの1発停止のときには自動燃料コントロール装置が働いて、自動的に残りのエンジン出力が増加し、30分にわたって2,100shpを維持できるようになった。

 さらにMi-171の改良点は機首に気象レーダーがついたことである。またドップラー航法コンピューター/レーダーがついて、テールブーム下面にそのアンテナがついている。長距離航法装置や星座トラッカーもついた。

 キャビン容積は5.34×2.34×1.8m。ここに折りたたみ式のベンチ・シート32席、またはエアライン・タイプの座席26席を取りつけられる。また貨物の機内搭載量は最大4トンで、後方には貝殻ドアがついている。貨物はここからのせるし、コンテナ搭載も可能である。

 胴体左側の前方には、Mi−8やMi−14と同じように乗降ドアがあり、その上方に吊り上げ容量150kgのウィンチをつけることもできる。

 機内には増加燃料タンクを積むことも可能で、最大 1,830lの燃料が増加する。これで本機の航続距離は最大 1,065kmまで伸びる。通常の燃料搭載量は、床下の燃料タンクと胴体左右のパイロン内のタンクを合わせて2,615lである。その性能諸元は別表の通りである。

 こうしてMi−8シリーズは、ロシアらしい旺盛な生命力を維持しながら、今も新たな発展を続けている。 

(西川渉、月刊『エアワールド』誌93年11月号掲載)

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