ヘリコプターの奇蹟

 

ヘリコプターは奇蹟の航空機

 ヘリコプターは大空を自由に飛びたいという人類の夢をそのまま実現した奇蹟の航空機である。あたかも空飛ぶ絨毯のように、垂直に飛び上がり、縦横に飛び回り、空中の一点に停止することができる。そこから、ヘリコプターは不可能を可能にするさまざまな奇蹟を演じてきた。

 たとえば富士山頂にある巨大なレーダードームも、今から30年余り前、ヘリコプターによって運び上げられ、据えつけられた。もしもヘリコプターがなければ、あの当時、世界最大といわれた気象レーダーの建設工事は人の肩か馬の背に頼るほかはなく、時間もかかったであろうし、実際に実現できたかどうかも分からない。そのときの奇蹟を演じたヘリコプターの仕事ぶりは『富士山頂』(新田次郎著、文春文庫)という小説にもなったほどである。

 同じように今、遠隔の発電所から大都会へ電気を送ってくる高圧送電線も、ヘリコプターによって建設されたものが多い。山深い尾根伝いに300〜500mおきに鉄骨や生コンなど、1か所約1,000トンずつの資材を輸送し、鉄塔を組み上げ、その鉄塔間に送電線を張りわたしてゆく大工事も、ヘリコプターがなければ時間と費用がかかるばかりでなく、まず建設現場までの道路をつくる必要が生じるなど、環境を損なう原因にもなるであろう。

 環境保護の面では、木材の搬出に際しても、ヘリコプターは森林全体に手を触れることなく、必要な樹木だけを選択伐採し、1本吊りで引っ張り上げることができる。あるいは山中を走る送電線の点検パトロールもヘリコプターを使うが、昔は徒歩で地上から高いところを仰ぎ見ながら、ときには鉄塔によじ登ったりして検査をしていた。山中の徒歩巡視は時間がかかり、係員の疲労がはなはだしいのはもちろん、点検そのものの効果もヘリコプターほどではなかったであろう。

 海底油田の開発では、沖合いに建てられた原油採掘用のプラットフォームへ飛び、せまいデッキに降りるのは、これもヘリコプターでなければできない。プラットフォーム上の急病人や怪我人を短時間のうちに陸地の病院へ運びこむのがヘリコプターの役目である。その緊急事態にそなえて、石油開発の現場では常にヘリコプターが待機するようになった。それならば緊急時ばかりでなく、陸地との間の技術者や作業員の往来にも使う方が有効ということから、海底油田の開発ではヘリコプターが昔から通常の交通手段として飛んできた。

 

奇蹟的な利便性を実現

 これは、とりもなおさず定期旅客輸送にほかならない。というので、世界各地の大都市では、ロサンゼルス、ニューヨーク、シカゴ、サンフランシスコ、パリ、ロンドン、ブリュッセルなどで、1960年代から70年代にかけてヘリコプターの定期路線が開設された。

 たとえばニューヨークでは、マンハッタンからケネディ空港まで混雑する道路を走れば1時間もかかるところを、ヘリコプターは10分以内に飛ぶことができる。しかも市内ヘリポートでチェックインをすませ、ボーディングパスを受け取り、手荷物を預けてあるから、乗客はそのまま東京行きのジャンボ機に乗り換えればよい。その利便性はまさに奇蹟的といえるものであった。

 しかし、いかんせん費用が高く、騒音が大きいといった制約が多く、最近は羽田〜成田間のシティ・エアリンクも含めて、ほとんどのヘリコプター旅客運航が中断してしまった。

 そこで今、アメリカ運輸省を中心に検討されているのはティルトローター機の起用である。ティルトローターはご承知の通り、普通の飛行機の固定翼両端にローターを立て、ヘリコプターのように垂直に離着陸しながら、離陸後はローターを前傾させ、ターボプロップ機として巡航飛行をするVTOL機である。したがって大都市の中心部に近いヴァーティポートで発着すると同時に500km前後の区間を1時間程度で飛ぶことができる。つまり今のような大空港を使う必要がないから、空港は長距離便の発着だけに限ることができるようになり、混雑の解消にも役立つというのが米運輸省の見方である。

 ティルトローターは現在、軍用機としての開発が進み、今世紀末中に実用化できるところまできた。その技術を利用して、21世紀初めには旅客輸送用のティルトローターを実現し、パンク寸前の空港をよみがえらせる。米運輸省は今、その奇蹟を起こさせようとして開発努力をつづけている。

 

天命としての人命救助

 だが、ヘリコプターの奇蹟は何といっても人命救助にある。戦場で、海上で、路上で、絶望の淵にあった人命がヘリコプターによって生還した例は数え切れない。ヘリコプターにとって、人命救助こそは天命といってよいであろう。

 その天命によって、ヘリコプターは実用化と同時に人命救助に当たった。1944年1月3日、米海軍の駆逐艦がコネチカット州の沖合で爆発事故を起こし、100人を超える負傷者が出たとき、沿岸警備隊のシコルスキーR-4はニューヨークから血液プラズマを積んで海上に飛び、多数の人命を救った。おそらく、これがヘリコプターによる救助活動の最初ではないかと思われるが、そのR-4ヘリコプターはまるで当時のブリキのおもちゃのように見える代物だった。

 その後、第2次大戦末期、米陸海軍のR-4、R-5、R-6といったヘリコプターが日本との戦争に明け暮れるフィリピンや中国大陸に送られ、戦場で倒れた兵士を救出し、護送するのに使われた。

 余談ながら、当時、敗色濃い日本では特攻作戦が奨励されていた時期で、いかに戦争とはいえ、彼我の人命に関する考え方の相違に愕然たらざるを得ない。この違いは実は今も変わっていないのではないかという疑いを筆者は持っている。経済戦争に勝つことだけを考えてきた日本が、欧米先進国でとっくに日常化しているヘリコプター救急をいまだに実現していないのは、そのせいではないか、と。

 ともあれ、米国では戦後もヘリコプターによる人命救助がつづいた。その中で初めて救難用ホイストが使われたのは1945年11月29日のこと。前日の暴風雨のためにロングアイランド沖で遭難し、16時間にわたって漂流した油槽船から、2人の船員が米陸軍のR-5で吊り上げられた。船員の1人は機内まで引き上げられたが、もう1人は空中にぶら下がったまま、海岸へ運ばれた。このとき荒れ模様はまだおさまらず、毎秒15〜25mの風雨の中での救出作業であった。

 それからは、航空母艦への着艦に失敗した海軍機のパイロットや、訓練飛行中に事故を起こして海上にパラシュート降下をした戦闘機パイロットの救出にも、救難用ホイストを装備したヘリコプターが使われるようになった。

 そして1950年、朝鮮戦争がはじまる。その3年余りの戦闘で、ヘリコプターはベル47とシコルスキーS-55を中心に、山の多い朝鮮半島の戦場で兵員や武器弾薬、食糧などの輸送に使われ、同時に何千という人命を救助した。戦場で傷ついた兵士たちは、ヘリコプターでいち早く後方の医療施設まで護送されたが、彼らの生死を分けたのはヘリコプター搬送が時間的にはやかったばかりでなく、凹凸の激しい山道をジープで運ぶと、それだけで患者の傷を深め、容態を悪化させることにもなった。

 朝鮮戦線では、また、撃墜された航空機の乗員救出にもヘリコプターが使われた。救難用のホイストをつけたヘリコプターは敵中深く、海上遠くまで飛んで、みずからの危険を冒しながら、空中脱出をしたパイロットたちを救出した。こうした経験から、ヘリコプターは朝鮮戦争後いっそうの発達を遂げ、搭載量が増し、航続距離が伸び、速度が向上して、ベトナム戦争ではさらに本格的に負傷兵の救護に当たった。

 ヘリコプターが戦場での負傷兵救出に使われるようになって、第2次大戦中の死亡率5.8%は、朝鮮戦争では2.4%に半減し、ベトナム戦争では1.7%にまで下がったのである。

 

伊勢湾台風で5千人以上を救助 

 1950年代後半には、洪水の中で人命救助に活躍したヘリコプターの記録も多い。1955年8月、米国コネチカット州を襲った洪水では、水中に孤立した多数の家屋から約1,100人の人びとがヘリコプターで助けられた。ヘリコプターは全機がホイストを装備していたわけではない。急遽出動したシコルスキーS-58はロープの先に古タイヤを縛りつけ、それにつかまらせて、屋根や樹木の上に取り残された人びとを救出した。

 その数か月後、今度はカリフォルニア州で大洪水が起こったが、このときも多数のヘリコプターが出動し、1,000人以上を救出した。その中の1機、沿岸警備隊のS-55は連続15時間にわたって飛びつづけ、138人を救っている。

 このようなヘリコプターの救出記録の中で、おそらく最も人数の多いひとつは、日本の伊勢湾台風であろう。それは1959年10月、日本に駐留していた米軍と発足間もない自衛隊のヘリコプターが、5,000人以上の人びとを濁流の中から救助したのである。このとき、ほぼ同数の5,000人が死んだというから、ヘリコプターがなければ犠牲者の数は2倍になっていたかもしれない。

 再び余談だが、同じ日本でこれだけの実績がありながら、なぜ阪神大震災では人命救助にヘリコプターが使われなかったのであろうか。なるほど一方は洪水であり、一方は地震である。また一方は田舎であり、一方は大都市の災害かもしれない。しかし果たして、それだけの違いによるものだろうか。

 いくつかの推定によれば、阪神大震災の被災現場で死亡した5,500人のうち8割は即死だったようだが、残りの1,000〜1,500人はしばらく生きていたと思われる。また、500人は生き埋めになったまま燃え広がってきた火災のために焼死したのではないかという推測もある。あのとき、迅速にヘリコプター救急がおこなわれていれば、またヘリコプターによる空中消火がおこなわれていれば、これらの人びとは助かったかもしれない。

 何故それがおこなわれなかったのか。おそらく伊勢湾台風の当時にくらべて、法規に縛られる社会体制の硬直化が進み過ぎたからではないかと思われるが、同時に伊勢湾台風のときの救助の主体が米軍であったことを思うと、またしても彼我の国民性の違いに驚かされるのである。

 洪水のときの多数の人命救助は伊勢湾台風ばかりではない。もっと多くの人命が救われたのは、1955年メキシコのタンピコで起こった洪水であった。このときも米軍のヘリコプターが出動し、総計9,262人を救出した。タンピコ市長はヘリコプター部隊への感謝の言葉の中で「この数日間、私たちは素晴らしい奇蹟を見た」と語っている。

 大洪水におけるヘリコプターの救助活動は、近年もしばしば見られる。それというのも、洪水のときは激しい濁流のために舟が使えず、救出した怪我人を病院へ運ぼうにも救急車は役に立たないからである。

 1986年2月、カリフォルニア州北部で発生した洪水では5万人が家を流されたが、そのうち2,400人がヘリコプターで救助された。このときもヘリコプターは夜を徹して被災者を捜し回り、濁流の中に取り残された人を見つけると、1機が救出作業にあたる間、別の1機が上空にとどまってサーチライトで現場を照らすといったチームワークを見せた。

 また今年、1996年1月初め、アメリカ北東部で雪溶け水が洪水となってペンシルバニア州を襲った。このとき州航空隊から出動した4機のチヌーク大型ヘリコプターは1日だけで合わせて65回の飛行をおこない、警察や民間のヘリコプターと協力しながら、多数の人びとを救出した。

 この日、気象条件はきわめて悪く、夜になって雪が降り出した。それでもパイロットは暗視ゴーグルをつけて飛行を続け、家の窓から屋根の上に逃れ出た人やマーケットの大屋根に残された4人、パン工場の屋根の9人、トレーラーハウスの上にいた婦人と猫、水中の車の中でふるえていた子どもと両親などを救出した。

 夜がふけると気温はマイナス15〜20℃にも下がった。その厳寒の中でヘリコプター隊員たちは、ときには激しい氷の水流に入り、自分の体を支えるのも困難な状態で救出作業をした。どうかすると自分自身が濡れた飛行服とダウンウォッシュのために体温が下がり、命を落としかねない状態だった。こうした隊員たちの行動は、みずからの危険をかえりみず、指示された任務の範囲を超えて、いわば自己犠牲の精神にあふれたものであった。

 

奇蹟を日常化するヘリコプター救急

 しかし、ヘリコプターによる人命救助は、戦争や洪水や地震など大災害のときにだけおこなわれるわけではない。実は、欧米先進国では、かなり前からヘリコプター救急が日常化し、電話一本で飛んでくる救急車のような働きをしているのである。

 組織的、体系的なヘリコプター救急が最も早くはじまったのはドイツである。1960年代末、当時の西ドイツでミュンヘンを拠点とする実験運航がはじまり、70年代に入ると全国37か所に広まった。いずれも救急病院を本拠としてヘリコプターとパイロットと医師が待機、半径50kmの担当範囲内で交通事故や急病人が発生した場合は、直ちに飛び立つ仕組みである。

 これでドイツ全土の95%以上の地域が救急ヘリコプターでカバーされ、電話ひとつで15分以内にヘリコプターに乗った医師が駆けつけてくる。その結果、平均8分で救急医の手当が受けられるようになり、交通事故による死者は1970年の19,193人から93年の6,926人まで減少した。現在は旧東ドイツを含めて50か所でヘリコプターが飛んでおり、その恩恵をこうむる救急患者は年間5万人、1機平均1,000人に達する。

 同様にアメリカでも、全米280か所で1,000の病院がヘリコプターを利用している。そのためのヘリコプターは約500機。アラスカを除く国土の93%以上をカバーし、飛行回数は年間25万回に及ぶ。ということは、およそ25万人の救急患者がヘリコプターで搬送されていることになろう。

 こうしたヘリコプター救急患者のうち、ドイツでもアメリカでも、もしもヘリコプターがなければ少なくとも1割、多ければ2割の人が命を喪くしたであろうと推定されている。毎年、いかに多くの人がヘリコプターに命を救われているかが分かるであろう。とすれば、ヘリコプター救急がほかの国へも広がって行くのは当然である。近年は欧州各国、カナダ、オーストラリアなどでも、さまざまな形で実行に移されており、アジア諸国でも韓国、台湾、タイなどに広がってきた。

 ところが、どうしたことか。日本だけはヘリコプター救急がいまだに実現していない。その必要性は救急専門医やヘリコプター関係者の間ではとっくに認識され、この10年来いろいろな形で実験運航が試みられてきた。しかるに本格的、日常的な仕組みはまだ全国どこにも存在しないのである。

 ヘリコプター救急が有効かつ必要であることは、1995年1月の阪神大震災でも多大の犠牲を払って認識されたはずである。また交通事故による死者は、この8年間、決まったように1万人を超えつづけている。私たちは1日も早くヘリコプター救急を実現し、ヘリコプターの奇蹟を日常化してゆく必要があろう。

 ヘリコプターは今から半世紀前に実用化された。第2次大戦末期にシコルスキーR-4が戦場にあらわれ、戦後間もなく1946年3月8日にベル47がヘリコプター初の民間型式証明を取得した。以来50年、ヘリコプターは多数の人命を救い、数々の奇蹟を演じてきた。しかし、ヘリコプターの奇蹟は神話や伝説に見られるような奇蹟ではない。それは人間の努力の結果としての奇蹟であり、何もしなければ何も起こらない。その奇蹟を実現するのは、ほかならぬ、これからパイロット・ライセンスを取ろうという読者諸君の力といってよいであろう。

(西川渉、『航空情報』96年11月臨時増刊号「ヘリコプターの操縦」掲載)

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