故宮田豊昭氏の御霊へ

 

宮田さん、悲しみのきわみです。

 この40年余り、公私にわたるおつきあいをいただきましたが、今すべては茫々たる過去のものになってしまいました。何もかも夢のように消えてしまいました。

 強いて記憶の糸をたぐれば、われわれが初めて出会ったのは1961年春でした。あなたが朝日ヘリコプターに入社されたときです。それ以来、あなたは航空自衛隊で飛行機の操縦経験を持ちながら、改めてヘリコプターの操縦を学び、ヘリコプターを飛ばしてこられました。

 しかし、あなたの人なみすぐれた才能と識見は、若いときから操縦業務にとどまりませんでした。1964年といえば、あなたが入社してからまる3年しか経っていませんが、秋田運航所が開設されたとき所長として赴任されました。

 もとよりパイロットとしての操縦業務が最大の任務でしたが、それに加えて折から干拓事業の始まった八郎潟の農業近代化にも参画し、秋田県の農業団体と共同で、ヘリコプターによる芦の種の散布、モミの直まき、肥料の散布、除草剤の散布など、広大な干拓地の土壌改良から稲が実るまでの全工程にわたってヘリコプターを活用するという近代農業の新しい試みを推進なさいました。

 さらに驚いたことは、秋田の運航所として独立採算にもってゆく構想を立てたことです。ヘリコプター2機とパイロット2人、整備士2人という小さな組織単位で、如何にすれば採算が合うのか。新しい観点から計画を立てて実行に移し、会社の中でも注目を集めました。

 その頃、あなたは1人の秋田生まれの美しいひとと出逢いました。ほほえましいエピソードがいろいろとあって、その人が今の宮田夫人であることはいうまでもありません。1960年代後半、あれは社会人としての人生を歩み始めた頃の、生涯で最も光り輝く幸福な時期でした。

 1970年代は石油ショックによって、日本近海でも石油探査が始まりました。ヘリコプターも、これに参加することになり、洋上長距離の飛行について、あなたはさまざまに工夫をこらし、新しい機材を導入すると共に、安全かつ有効な運航を続けました。

 石油開発の飛行範囲は日本の近海から徐々に拡大し、日韓大陸棚にもヘリコプターを飛ばすことになりました。韓国済州島に基地を置いて、石油掘削の現場まで沖合360kmの渺々たる海の上を如何にして飛べばいいのか。1980年の当時はまだ、便利なGPSもなく、あなたはオメガ、NDB,レーダー、トランスポンダーなどの組合せによって、独自の航法システムをつくり上げました。

 航空機の管制または航法の常識からすれば、NDBは本来機上に搭載すべきですが、あなたはそれを試掘リグに取りつけ、NDBの電波を地上で捉えるはずのレーダーをヘリコプターに持たせて、茫漠たる海上の針の頭のような石油プラットフォームを正確に探り当てようという方式です。この逆転の発想から生まれた航法システムについて、あなたはソウルで韓国航空局を説得し、その許可を取りつけて実行に移しました。これで、目標物のない広大な海の上でも確実な航法が可能となり、気象条件が急変しても安心して基地に戻れるような運航体制をつくったのでした。

 その後、1981年には中国でもヘリコプターを飛ばすことになりました。この作業のために日本から中国へ機材を投入する際、あなたは長崎から上海まで直接750kmの洋上を飛び渡り、ヘリコプター未曾有の長距離飛行を達成しました。

 その根底には、あなたの綿密な技術的準備と精密な計算にもとづく飛行計画がありました。その結果、これは世界的な記録となり、毎日新聞の人物欄にも大きく取り上げられ、社会的な注目を集めました。

 中国では、こんなこともありました。中国民航や中国石油公司の関係者と打ち合わせのあとで食事をしたとき、漢詩の話になって、先方が詩の一節を吟じながら、それを文字に書いてわれわれ日本人に示そうとしました。ところが次の一節を忘れたらしく、筆が止まってしまいました。そのとき、あなたは中国人の忘れた部分をその場で書いてみせ、先方を驚かせると共に、すっかり喜ばせました。中国側は、古い漢詩に通じている宮田さんを見て、これから一緒に仕事をしてゆく上で信頼に足る人物と感じたに相違ありません。

 漢詩の暗唱は、あなたの2人のお嬢さんに受け継がれました。もとより、このお2人は今では立派なお母さんとして、あなたの可愛い4人のお孫さんを育てておられます。

 宮田さん、あなたの文章力も舌を巻くばかりでした。こちらの思いも及ばぬ独自の発想が、航空関係はもとより、政治、経済、社会、歴史、宗教、教育などのあらゆる分野について、次々と論じられました。その全てがすぐれた論文となり、洒脱なエッセイとなって、緊張感とリズム感に満ちた独自の文体でつづられていました。

 死生観についても、あなたは防衛大学出身のパイロットらしい、胆力のすわった考えをもっていました。恐らくはこの半年間、わが身に迫った死の影を感じておられたのではないかと察せられますが、人にはそういう気配を全く感じさせず、つい先日まで明るく振る舞っておられました。

 それに関連して、あなたの親友、山野豊さんが訃報を聞いてつづられた文章があります。その一部をここに引用いたします。

「私は宮田さんのとどまることのない話を聞いて、ひたすら感心するばかりでした。その話ぶりは奇をてらうこともなく、少年のように純心で、常に新鮮でした。病を得て、死を予見していたに違いないのですが、ますます情熱が高まり、精神的活力をみなぎらせていました。12月に書かれたものを今読み返してみて、あくまでも冷静に心の整理を始められたことを感じさせられました。精一杯生きた戦士の死を思わせられます。しかし宮田さんは眠ったわけではなく、居場所を変えただけだと思っています」

 もうひとつ、日本ヘリコプタ技術協会の初代会長、義若基(もとい)氏から、協会を代表して「心から哀悼の意を表します」との伝言がありました。ここにお伝えいたします。

 日本ヘリコプタ技術協会では1年余り前の2002年秋、日本の航空再開50年を記念する講演会を催しました。その講演会で宮田さんは「国家戦略とヘリコプター」と題する講演をなさいました。国のありようとヘリコプター事業を結びつけて、卓見に満ちた講演でした。

 

 さらに最晩年、1998年以来の5年間、あなたは毎週、代々木のDMBパイロットスクールで特別講義をしてこられました。その講義を、私は何度も学生の皆さんと一緒に聴きました。学問的、技術的な裏付けのもとに、みずからの操縦経験を加味した実践的な内容で、ヘリコプターの理論と実務をみごとに結びつけると共に、これから航空機の操縦を志す者の心構えを説いて、余すところのない講義でした。

 さて宮田さん、とうとう最後のときが近づきました。今となっては、つい10日ほど前、病室にまで押しかけて、あなたの最後のレクチャーを受けたのが、せめてもの慰めです。

 内容は、ライト兄弟の初飛行から100年。その100年間に航空の発展に寄与した技術と、これから寄与するであろう技術について、私が30項目にわたって質問し、あなたの意見を聴いたたものです。

 それに答えるときのあなたは実に生き生きと、とても病気とは思えない明晰さで、どうしてこんなことまで知っているのかと思うような歴史上の出来事や技術上の問題点を、ベッドの上で何の参考資料もないまま、軽々と語っておられました。

 しかし――

 宮田さん、もうそんなお話も聞けなくなりました。

 悲しみのきわみです。この40年余りのご厚誼の全てを含めて、お礼を申し上げます。

 宮田さん、有難うございました。そして、さようなら。

2004年1月5日

西川 渉

 上は、去る1月5日の葬儀で読んだ弔辞です。故人の戒名は、ゆかりの秋田県嶺松山高建寺より「覺天院翔雲賢豊居士」を受けました。意味は「パイロットとして大空に昇り、航路を自分で決定し、雲をわけ、賢明に職務を遂行してきた」ことを表すとの説明が、ご住職からありました。

 なお祭壇の遺影は、故人の気持ちを汲んで窮屈なネクタイを外した写真を選び、狭苦しく感じられる黒枠を外して、背景も空の色になっています。

故人の略歴と論考

 1935年東京生まれ。1959年防衛大学航空工学科卒業。航空自衛隊3尉任官を経て、朝日ヘリコプター鰍ノ入社。ヘリコプターの操縦に携わり、1985年朝日航洋且謦役、87年常務取締役(航空事業本部長)、潟Gアロスポーツ・プロモーションズ社長、樺n域航空総合研究所顧問を経て、1998年日本技研顧問。

 宮田さんの文章は、著書『ヘリコプター物語』(無明舎出版)、共著『マルチメディア航空機図鑑』(アスキー出版局)ほか多数がありますが、その一部はインターネットでも読むことができます。主なサイトは次の通りです。

 国家戦略とヘリコプター
 宮田豊昭の部屋
 DMBパイロットスクール指導顧問室
 操縦士たちのヘリコプター
 ヘリコプター操縦指南 

関連ホームページ

 訃報

(西川 渉、2004.1.7)

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