ボーイング、ボーイング

行ってしまうのか……

 

 

 ボーイング社は5月11日、シアトルの本社をシカゴへ移転すると発表した。3月21日に移転の意向が明らかになったときは、シカゴのほかにデンバーとダラス・フォトワースが候補に上げられ、3つの地域の誘致運動は大変なものだった。またシアトル市長もボーイングの翻意を促すための説得を試みたが、無駄に終わったらしい。移転作業は今秋9月4日までにおこなわれるという。

 とはいえ、移転するのは本社機構のみ。本社の人員は現在およそ1,000人だが、そのうち400〜500人が動くだけである。そして新しい本社はボーイングの戦略本部になると同時に、新規ビジネスの育成機関として機能する。

 シアトルに残るのは工場要員78,000人。この中には研究開発部門も含まれ、今後も現状のまま飛行機をつくり続ける予定だが、将来いつまで今の状態が維持されるのか、そのあたりは分からない。 

  ボーイング社は1916年ウィリアム・ボーイングによって設立されて以来、85年間にわたってシアトルが本拠であった。その歴史と伝統に裏打ちされた場所から、なぜ移転するのか。

 直接のきっかけは今年2月28日にシアトルを襲った地震に恐れをなしたため――というのは冗談だが、あの地震でボーイングの試験飛行用の滑走路が破損したのは事実である。

 真面目なところ「株主への新しい価値の創造」とフィル・コンディット会長は言う。経済活動の3要素はヒト、モノ、カネというが、このうちカネとヒトがボーイング社の大きな問題であった。「資金と人材がもっと柔軟であること。それが株主への利益をもたらす」。つまり、カネとヒトの自由な移動が基本的な移転理由である。

 確かにシアトルはアメリカ大陸をはさんで国際金融市場ウォール街の反対側に位置し、いかにも遠い。そこへいくとシカゴはかなりニューヨークに近くなり、アメリカ第2の金融市場も存在する。

 ヒトの移動に関しても、シアトルはまことに不便というのがボーイングの幹部が長年にわたって抱いてきた悩みだった。顧客や役所や金融機関との接触を深めるには、やはり移動に便利な場所にいなければならない。シアトルは日本へ行くには便利かもしれないが、ワシントンやニューヨークへは片道5時間を要する。それが、シカゴからならば2時間ですむのだ。

 ボーイングの経営トップとしては毎月1〜2回は東部へ出張しなければならない。その都度、移動するだけで丸1日がつぶれてしまう。しかも最近は欧州エアバス社の追い上げが激しく、欧州との往来も頻繁になってきた。如何に空気や水に恵まれたとはいえ、田舎町に安閑としてはいられなくなったのである。

 国際企業として世界市場に向かい、競争相手と闘いながら新たな発展を期するには、地球上の中心にいなくてはならない。無論シカゴがそうだというわけではないけれども、カネとヒトの動きやすい場所ということはできるであろう。

 イリノイ州政府は、移転してくるボーイング社に対し、州への納税額の中から向こう20年間に4,100万ドル(約45億円)の免除を約束した。シカゴ市も同じ20年間に固定資産税など合わせて2,200万ドル相当の減免を約束している。

 州や市は、こうした優遇措置で大企業を誘致することにより、雇用の増加や地域経済の活性化などを期待しているわけである。シカゴに本社を置く大企業といえば、今のところシアーズ、モトローラ、マクドナルド、それに日用雑貨と食料品のサラ・リーがある程度。そこへボーイングがやってくれば、売上高では最大の企業ということになろう。

 しかし、ボーイングがシカゴを選んだのは、そうした優遇措置が目当てではない。やはり上述のように、国内および国際市場との接触が容易であることが最も大きい。たとえばシカゴ・オヘア空港は、すでに混雑がひどくなってはいるものの、全米最大のハブ空港として毎日2,500便を超える航空機が発着し、米国内はもとより世界中へ飛んでいる。

 確かにこれまでボーイングのビジネス環境にとって、最も欠けていたのが交通や通信の利便性であった。シアトルがグローバル・ビジネスを盛んにしたいと思うならば、交通、教育、および役所の煩雑な仕事ぶりを改善する必要があるとコンディット会長は語っている。

「われわれはシアトルが嫌いだから出て行くわけではない」。自分は36年間シアトルに住んでいた。ここは間違いなくふるさとであり、引退後はまたここで暮らしたいと思う。けれども「企業の立場で判断するならば、シアトルは仕事がやりにくい」

 道路は常に渋滞している。事務所を広げたり、工場を増築しようとすると、役所の手続きが煩雑でなかなか認可が出ない。それに、ここは人材豊富というわけでもない、と。 

 これを受けて、地元の新聞がシアトルとシカゴの違いを次のように比較している。シカゴの航空路は世界中に通じているが、シアトルは太平洋線のみ。町並みは伝統的、古典的な建物と近代的なビルが混在するのがシカゴだが、シアトルはちゃちな建物があるだけ。

 シカゴは夏と秋は風が強い。シアトルは夏も秋も雨ばかり。夜のシカゴはコメディ・ナイトクラブなどが多くて面白い。シアトルは騒がしい電気ロックがあるだけで面白くない。

 シカゴの有名人はアル・カポネ、シアトルはビル・ゲイツ。シカゴにはホワイトソックスが本拠を構える。シアトルはソックスをつけたサンダル履きが多い。つまり野暮ということだろうか。

 ここで地元紙はマリナーズの存在を忘れているようだが、シアトルよ、ボーイングがいなくなったからといって嘆くことはない。だって、イチローがいるじゃないか。


(シアトルを出てゆくボーイング)

(西川渉、2001.5.21)

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