<西川修著作集>

むずむずする話

 

 三月六日。啓螢(けいちつ)。

 地中に篭って冬を過した蟲が春の暖かさに地上に現われて来る日、歳時記にそう書いてある。地中にひそんではいないが蚤なども此頃の陽気で頻に活躍しはじめた。

「蚤の学名は何と云うのかな、その辺に昆虫図鑑か何かあったら調べてくれないかJ

 息子「蚤の学名なぞ何にするのさ」

「イヤ、ちょっと蚤の事でも書いて見ようと思うんだが、まァ何となく調べているうちに考えがまとまるかと思ってね」

 息子「蚤はね、昆虫の中でも最も高等な種類なんだよ、たしか。昆虫だから本来は翅があったんだけれど、それが不要になって、無くなったんだからね。ところがしらみの方は、翅が出来るより前の段階だからズっと下等なのさ。蚤は進化の上で非常に進んでるわけなんだ。」

 息子がどこかに行って蚤の名前を調べて来た。

 ヒトノミ。Pules irritans

 なる程、痒ゆそうな名前がつけてある。

 蚤は附く動物によって、それぞれ多少違うらしい。イヌノミ、ネコノミ……。昔、あらゆる動物の蚤を網羅しようと考えて蚤を集めた人があった。億万長者のロスチャイルドの第何代目かである。牛、馬、猫などはもちろんアフリカの象とかシベリアの狼とか、金にまかせて世界中から蚤を集めて三千種類に達したという。ところが、調べて見ると北極狐の蚤と、もう一つ何かの蚤がまだ足りない事が分った。そこでグリーンランド辺に出かける毛皮商人に頼んで、北極狐の蚤一匹を手に入れた。それには北極狐に附いていた事を証明する立派な証明書がついていたという。そこで彼はその毛皮商人に三百ポンドを贈った。今の日本のかねに計算して見ると一匹七万六千円というわけだ。

 このロスチャイルドは、アフリカの縞馬はどうしても人に馴れないという話をきいて、縞馬を苦心して調教させ、とうとう二頭立の馬車を牽かせる事に成功し、街の中を乗り廻していたという変った趣味の人である。

 五箇庄は椎葉と背中合せ、熊本県側にある平家部落の秘境である。ここに遺伝調査に行った友人のM君から、夜半に蚤を取る話を聞いた事がある。とにかく無暗に沢山蚤がいるのだそうで、はじめのうちは起き上って探し廻ったり、蚤取り粉をまいたりで、安眠が出来なかったそうだが、段々馴れて来ると半醒のうちにむずむずする所に自然と指が行き、ピタリと蚤を押える。それから片手で懐中電燈をつけて、明るいレンズに蚤を押しつけて潰す。こうして一晩に十数匹とか数十匹とかの蚤をとったというのである。

 つまらぬ事を憶えているようだが、私が一晩の間に一番多くの蚤をとったのは二十三匹であった。沖縄出身の兵隊が精神分裂病で兵役免除になったのを、郷里まで護送して行く時の話で、ノートにちゃんと蚤の散が書いてある。下士官一、兵二、軍医は私で、患者は沖縄のが一人、途中の奄美大島の古仁屋に帰るのが一人、計六名。沖縄行きの船は鹿児島から出る。あらかじめ船の出る日を調べて命令が出るのだから、鹿児島に着いたら直ぐその日に船に乗れるはずになっている。所が鹿児島に着いて船会社に行って見ると船は出ないと云う。「雨が降っていますからなア」と云う返事だ。

 雨が降ると動かない船など随分奇態な話だが、聞いて見れば理屈はあった。沖縄航路の船が沖縄から黒砂糖を積んで来ているが、砂糖袋を濡らすと困るので、雨降りには荷役が出来ない。積荷を降さなければ沖縄に引返すわけに行かない。だから雨が上って荷役が終るまでは出港いたしません。

 都合はそれで分ったが、こちらは精神病患者を抱えて、ぼんやり船の出るのを待っているのでは、頗る迷惑である。「やむを得ん、陸軍病院に頼んで、精神病室に収容してもらおうか」と云ったら下士官や兵隊は口を揃えて反対する。「軍医どの、それは困ります。患者を病院に入れて貰いますと、自分達は営内者でありますから、自分達も病院から出られなくなります。どこか旅館に泊るようにして戴きたいんでありますが……」

 なるほど、折角出張して、わずかの間でも娑婆の空気を吸える時に、見ず知らずのよその部隊で自由を縛られたりするのも不本意である。旅館で歓迎するはずはないが、何といっても白衣を着た傷痍軍人と軍服の一行である。憲兵隊から連絡してもらって港の近くの旅館に泊ることにした。所属の病院には、出帆の日時が全く予定出来ず、いつ急に乗船しなければならぬようになるか分らないから、船会社に近い港の附近で宿泊する、と連絡させた。

 二階の二問続きの部屋で、プツブツひとりごとなどいっている患者を中にして寛ろいでいると、おかみさんや女中が何かバタバタしている。間もなく「お掃除が出来ましたから」と言って来た。聞くと平素使わない上等の室を掃除したからそこも使ってくれというのである。我々の寛いでいる所よりは又二、三段高くなって妙な欄干などついた一室だ。お成りの間とでもいった構えで、癖易していると「軍医どの、こちらの方が便所も近くにありますし、患者の世話に便利でありますから、軍医どのあちらの部屋に……」など巧みに敬遠されて、私だけその明かずの間の真ん中に寝ることになった。

 その夜である、蚤に攻められたのは……。始めは、オヤ蚤がいると思って電燈をつけて見ると、脛のあたりに食いついているので潰すというわけで、別にどうも思もわなかったが、その中に身体中到る所がムズムズしはじめた。電燈を消すとまた疹くなる。また電燈をつけて見ると三匹位見つかると言った調子で、全く眠る事が出来ない。夜があけるまで蚤との戦いで、結局二十三匹をしとめ、こちらは一睡も出来なかったと云う次第だ。

 翌る日は早速蚤取り粉を買いに走らせ、部屋も布団も色が変る程撒き散らして寝たことであった。もとよりDDTなどは無い時代である。平素使っている部屋で寝た下士官や兵隊たちは別に大した被害もなく安眠して「ハア、そうでありますか、自分達は南京虫で鍛えられておりますから」などとうそぶいていたが、これはこちらの皮膚のせいではなくて、上段の間などに寝た報いであっただろう。            

 (南斗星、大塚薬報、1958年4月)

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