なぜホームページか




 何故こんなに時間ばかり取られるホームページを開くのか。

 新聞の投書欄を見ていると、60歳台で無職という人の書いたものが多い。当然のことながら、もっと若くて勤務先の仕事が忙しい人は、採用になるかならぬか分からぬような、そんな悠長な原稿を書いている暇はない。しかし定年になって、少し落ち着いて周囲を見回す余裕が出てくると、世の中は矛盾に満ちているし、こちらも多少の人生経験を積んでいるから、何かにつけて小言を言いたくなる。おそらくテレビの画面に向かって文句をつけている人も多いのではあるまいか。

 落語の「小言幸兵衛」は、そのあたりをまことにうまくとらえたもので、新聞や雑誌に論評を書くような機会のない当時は、古女房や飼い猫や隣のおさんどんの言動がいちいち気になる。そこでお経を詠みながらでも、やれ鍋が焦げてるよとか、子どもを泣かすなとか、猫が柱に爪をたてたなどという小言をいうのである。

 だが今や、老いの繰り言をおとなしく聞いてくれるような人はいない。隣のおさんどんもいなくなったし、猫には無視されし、女房殿に何か言おうものなら粗大ゴミと一緒に捨てられてしまう。

 そんなとき筆の立つ人は新聞に投書を書くことになる。もっとも、競争率が何十倍か何百倍かは知らぬが、大半はボツとして紙屑篭に放りこまれる運命である。その中からごく少数の運の良い人だけが編集者の目にとまり、活字となって紙面に掲載される。

 そこで筆者の場合だが、幸いにして航空関連の作文は伝統ある『航空情報』を初めとする航空専門紙誌に掲載して貰える。しかし、これから歳を取ってきて作文の内容が当節のセンスに合わなくなれば、採用は難しくなるであろう。

 それに、航空関連以外の話題は専門紙誌には載せてもらえない。といって、一般紙誌に面白おかしく書くほどの能力はないから、発表の機会はない。

 そんなとき、ホームページは最大の助けとなる。そこには自分の好きなことを書くことができる。好き勝手なことは自分の手帳か日記帳にでも書いておけばいいようなものだが、それでは誰も読んでくれない。日記などは死後何十年もたって公刊され評判になるような人もあるが、そんな死後のことまで考えてもしようがない。いますぐ小言を吐き出すには、ホームページこそが最適なのである。


(夜の航跡)


 と、書いたところで、12月21日付け『朝日新聞』の投書欄を見ると、全部で8人の投書が掲載されている。そのうち2人が60歳台、1人が59歳で、矢張り60歳前後の人が多い。

 そして投書の内容は、8篇中4篇が国の税金の使い方を論じたものである。ひとつは、ペルーの日本大使公邸がテロリストに襲われた人質事件で、いかに天皇誕生日とはいえ、わざわざ地球の裏側で2千人もの人を招いて豪華なパーティを催す必要がどこにあるのか。貧富の差がひどくて、極貧にあえぐ人の多い国でこんなことをすれば恨みを買うのは当たり前という趣旨である。

 この投書に賛同したわけではあるまいが、宮内庁は今年の天皇誕生日の祝賀の宴を取りやめにしてしまった。人目を気にするのが日本人の国民性である。

 それに外交官の重要な任務はパーティあろう。パーティの席で他国の人と知り合い、情報だか噂話だかを仕入れるのが彼らの役目ではないのか。それが出来なくなるとすれば、「俺たちゃ何をすればいいのか」。途方に暮れるに違いないと思って、投書を読みながらちょっと可笑しかった。

 もっとも今年の祝賀の宴はやめても、来年からは今まで通り高い税金をかけて、世界中で派手なパーティを催すに違いない。

 もう一つの投書は地方空港をつくる根拠がおかしいというもの。旅行者の少ないところに立派な空港をつくり、年々滑走路を延ばしていくのは、どういう魂胆かという趣旨で、まことにその通りである。

 空港の設置が全国的に整合性がなく、地元の要望の激しいところや代議士の腕力の強いところから整備されてきたとすれば、整合性がないのは当然のこと。

 その一方で、国際ハブ空港の必要性が叫ばれながら、成田空港も関西空港も国際ハブなどといえる状態ではない。しかも、またしても同じように中途半端な国際空港を中部や九州につくり、いずれも滑走路は1本ずつというのだから、こういう問題にこそ霞ヶ関の得意とする中央集権を発揮すべきではないのか。

 いずれ、東アジアにおける国際航空のハブは韓国仁川沖に建設中の永宗(よんじょん)国際空港や上海、香港に取られてしまうだろうという話は、もはや常識だからここでは繰り返さないが、ホームページの面白さは、こういう論評もボツにはならない点にあるのです。(西川渉、1996年12月22日)


(シカゴ・オヘヤ空港の管制塔)

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