<西川修著作集>

猫――動物二題の1

 近頃大分落着いていた学生のP君が、一昨日あたりからまた不安になって来た。二階の窓から、前の通りの家の中で動く人影を見て、どうもあれは昔の友達のようだ、と繰り返し、遂にはその友達が懐しいといって泣き出す始末だ。夜になると特に不安が強い。昨夜も大きな声で号泣していたので、睡眠剤の注射をする積りで病室に入って行くと、たちまち怯えた声をあげて病室を走り出し、家族や隣室の附添いがやっと捉えると、今度は廊下にうずくまって動かない。なだめすかしてやっと室に入ったが、注射には極力抵抗する。皆で手足を押えてようやく処置を終え、朝まで眠らせる事が出来た。

 今日の様子は昨夜ほどの事はないが、やはり色々な事が気になるのか、くどくどと附添いの母親に問いただしている。何しろ見るもの聞くもの、不思議で不安で、何か特別な意味がかくされているように解釈するのである。心配したお母さんが、呼びよせたので、お父さんもはるぱる来て看護している。

 昼頃、P君は父親に附き添われて、おずおずと病室に入って来た。

「昨日夢を見ていた。先生が真白な服を着て、僕を殺すための薬を入れた注射器を持って室に入って来た。それで僕は先生と大喧嘩をした。……そんな夢でした」
「夢でしたか。それじゃ今はもう不安な気持はないの」
「そうです。しかしその夢に何か意味があるのじゃないかと思って……。正夢などとも言うし……」
「それでは私が君を殺そうとしてるように思うんですか」
「そんなはずはないと父も母も言いますけれど……。何だかやはり毒でも飲まされるんじゃないか、毒の注射でもされるんじゃないかというような……夢の時と同じような感じがするんです」

 こんな次第で、色々な応酬と迂余曲折があって、葡萄糖なら大丈夫だと思うから注射してくれという事になった。P君は何となくソワソワしながら、それでも神妙に待っている。

 飼猫が診察室に入って来た。この猫は戸障子を自分であげてどこにでも入って来る妙な奴である。P君は猫をつかまえて膝の上に抱き上げた。元来P君は猫好きで、平素から可愛がられているから、猫の方もおとなしく膝にのったが、何となくP君の不安が猫にも感じられるらしい。段々落着かなくなり、もがいて逃げ出そうとするのだが、P君の方は意地になって腕の中に抱きかかえて離さない。

「サア、注射をしよう。ちょっと猫をおろしなさい」
「いえ、このままして下さい。……ちょっとそのアンプルを見せて下さい」

 P君の不安も次第につのって来るようだ。P君は相変らず片手に猫を抱きしめ、片手でアンプルをつまんで、刷り込んだ文字を繰り返し繰り返し眺めながら首をひねっている。葡萄糖といつわって毒薬を注射されるのだという気持が次第に強くなって来る模様だ。

「間違いなく葡萄糖でしょう。安心しましたね。じゃ注射しましょう」
「……ちょっと。先生、先に……自分でやって見て下さい」
「自分では出来ないよ」
「……矢っ張り怪しい……」

 急に彼は顔を上げて叫ぶ。
「先生がいけなければ、この猫に先にやってみて下さい」
「猫の注射など僕はやった事はないし……猫に葡萄糖なんて無駄な話だな」

 そんな馬鹿なことをといって家族や看護婦がなだめ、彼はしぶしぷ腕を出したが、眼を光らせている。不安は彼の全身をとらえているようだ。注射がすんで針を引き抜くと、彼はいきなり猫のロを注射のあとに押しつけた。私も驚いたが、猫は一層驚いたらしい。実際彼女にとっては迷惑千万な話で、爪を立て牙をむき出して抵抗するのも当然であろう。彼は反抗する猫を無理矢理に押しつけて注射のあとを砥めさせようとする。猫は怒る。

「あゝ、矢っ張り駄目だ。毒だから猫も砥めようとしない。こんなに厭がってる。やっぱり毒だ。飛んでもないことをしてしまった。毒を注射された……」

 彼は号泣しはじめた。なまじ葡萄糖などやらずに睡眠剤をやっておいた方がむしろよかったな、と思ったが仕方がない。様子を見ているより方法がない。

「お母さん、猫を逃がさぬようにしてくれ。動物は本能で毒か薬かすぐに分るんだから」
「注射した跡に葡萄糖などついているはずがないよ。それを猫に砥めさせようたって……」
「いや毒がつしているんだ。それで猫が逃げるんだ」
「先生がチャンとお薬を見せてくれたじゃないか」

「そんなもの当てにならない。猫まで逃げるのが間違いのない証拠だ……あゝ、殺される」
「猫はね、お前。仮に葡萄糖がついていたってよろこんで砥めたりしないよ。何か猫の好物ならともかく」
「葡萄糖は猫の好物でないのか。本当か」
「それはそうさ」

「じゃ、お母さん。何が猫の好物なんだ」
「決ってるじゃないの、魚の骨さ」
「魚の骨が猫の好物か、本当に間違いないか」
「……そりゃ身がついていれば、なお良いけれど……」

 P君は極めて真剣である。何しろ生命の危険が迫っていると考えているのだから。一方、お母さんの、何とかしてなだめよう、気を落着かせようと言う真剣さはP君よりもさらに上かも知れない。しかしこうして書いて見ると、何だか漫才めいた感がなくもない。

 P君はその後、間もなく落着いた。分裂病様反応というべき状態であった。

(西川 修、大塚薬報、1958年8月)

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