<ライト兄弟初飛行100年>

歴史を変えたヘリコプター

 

 『航空情報』誌2004年2月号がライト兄弟の100年を記念して「歴史を変えた航空機100」の特集をしている。この100年間の航空機の進歩と航空界の発展に寄与した100機を選んだのは編集部だが、その中のロータークラフトについて解説を依頼された。それに応じて書いたのが以下の文章である。

フォッケ・アハゲリスFa-61

 Fa-61は史上初めて安定した飛行能力を実現したヘリコプターである。ドイツのハインリッヒ・フォッケ教授が研究と実験を重ねて開発、完成するやヘリコプターに関する飛行記録を次々と樹立した。外観は軽飛行機の主翼を取り外したような胴体から左右上方に高く張り出した支柱の先に3枚ブレードのローターを取りつけ、互いに反転するという構造。

 初飛行は1936年6月26日。わずか28秒間の飛行だったが、1年後の1937年6月25日には滞空1時間20分29秒、到達高度2,439mの記録をつくり、翌日には速度108.974km/hなどの世界記録をつくった。

 また、これより先の同年5月、史上初のオートローテイション着陸に成功した。ヘリコプターはエンジンが停止しても、ローターの自動回転によって安全な着陸ができる。Fa-61は、そのことを実証し、安全性の確保に貢献したものである。

 さらに1938年、女流飛行家ハンナ・ライチがベルリンのドイチュランド・ホールで垂直に離陸し、ホバリングをしたのち、ホール一杯に飛び回って見せ、数千人の観客を驚嘆させた。この大胆な屋内飛行は、ヘリコプターの安定性と操縦性に関する技術が完成したことを実証したものといってよいであろう。


Fa-61

シコルスキーVS-300

 Fa-61の成果から1年ほどたった1939年9月14日、アメリカでVS-300が初飛行した。設計と開発にあたったイゴール・シコルスキー自ら操縦桿をにぎって飛び、近代ヘリコプター工業のきっかけをつくった。というのも、同機は今のほとんどのヘリコプターが持つ基本的な特徴――主ローターと尾部ローターから成るシングル・ローター形式やサイクリック・コントロールとコレクティブ・ピッチ・コントロールなど、所要の基本要件を具備していたからである。

 VS-300は試験飛行を重ね、1941年米陸軍から開発契約を得て実用機へ発展する。その原型XR-4は1942年1月13日に初飛行、やがて実用型R-4Bとして米陸軍に採用され、量産に入った。これが近代ヘリコプター工業の始まりである。

 量産機数はR-4Bが130機、改良型R-6が225機で、早くも第2次大戦の戦場で使われた。R-4は米沿岸警備隊にも採用され、1944年1月ロングアイランドの沖合で爆発事故を起こした米海軍の駆逐艦に血漿を空輸、100人以上の水兵の命を救っている。

 
VS300

ベル47

 ベル47小型機(2〜4席)は史上初めて民間証明を取得、商用飛行を可能にしたヘリコプターである。

 ヘリコプターの模型実験を繰り返していた天才アーサー・ヤングは、ベル社を創設したローレンス・ベルに見出され、その要請によってヘリコプターの開発に着手した。ヤング独自のローター機構はシーソー型のシステムと、それを安定させるためのスタビライザーバーである。これによってモデル30を完成、1943年6月23日初飛行に成功した。

 モデル30は改良を重ねながら3機が試作された。3号機はヤングの発案によって、操縦席が透明なプラスチック・バブルで覆われた。これが後にベル47に発展し、透明バブル・キャビンのはじまりとなる。

 ベル47は1945年12月8日に初飛行、翌46年5月8日民間証明H-1を取得して世界中に普及した。民間分野では農薬散布、資材輸送、旅客輸送、遊覧、救急、ビジネス飛行など、軍用分野では連絡、観測、偵察、救助、輸送、攻撃など、あらゆる業務に使われ、ヘリコプターの何たるかを多くの人びとに知らしめた。


ベル47

カマンK-Max

 チャールス・カマンは1943年春、シコルスキーVS-300の飛ぶのを見てヘリコプターに関心を抱いた。そしてプロペラ・メーカーのハミルトン社に勤めながら、家ではヘリコプターの難題に取り組み、2年後に会社を辞めてカマン・エアクラフト社を設立する。

 そこから生まれたのがK-125試作機である。細長い鳥籠を横にしたような枠組みの左右に支柱を張り出し、その上にローターを取りつけた双ローター機であった。初飛行は1947年だが、1949年には225hpのエンジンをつけたK-225を完成、型式証明を得て農薬散布に使われた。

 その後、さまざまな改良が進み、米空軍の救難用HH-43ハスキーに発展する。T53ターボシャフトを装備して、1958〜68年の間に250機近く製造された。到達高度10,000mや上昇率などの世界記録をつくったほか、安全性にすぐれ、米空軍の固定翼機よりも低い事故率で終始した。

 その流れを汲むK-Maxは1990年代に登場した民間機で、山岳地の資材輸送や木材搬出など、重量物の吊下げ輸送だけを目的とする特異なヘリコプターである。胴体が細く、脚はクロスチューブだけで自重の無駄を省き、大型でありながらパイロット1人乗り。クレーン作業をしやすくするために機首をそぎ落とし、直下の視界を広げている。エンジンはT53が1基のみの単発機だが、3トン前後の吊上げ能力を発揮する。

 余談ながら、このヘリコプターが日本で使われ始めた頃、単座のためにパイロットしか乗れず、物資輸送の現場を移動するとき、整備士は山野中を車で移動しなければならなかった。それが不便だというので、メーカーに申し入れたところ、どたの横に椅子を縛りつけたような構造が出来上がった。

 それがHAI大会の会場に展示され、「日本からの注文だ」という説明だった。みんなで代わりばんこにすわって見たが、これで空の上を飛ぶとなるとさぞかし怖いだろうと思ったものである。結局、誰もこの椅子を買う人はいなかった。 


HH-43

ベルUH-1

 ベル・ヘリコプター社がモデル47に次いで放った中型多用途機の傑作である。

 開発は1950年代なかば、米陸軍が朝鮮戦争の経験にもとづいて募集した設計競争にはじまる。戦場の負傷兵救出を有効におこなうことが当初の目的で、4人分の担架をのせ、半径185kmの範囲を速度185km/hで往復できることという仕様であった。今では何でもないことだが、当時としては画期的な設計目標だった。

 初飛行は1956年10月20日。3機の原型XH-40に続いて、6機のYH-40が飛び、1959年HU-1Aの呼称で173機の量産がはじまった。エンジンはライカミングT53。61年からは出力を強化したHU-1Bの生産に入り、1962年にはUH-1と呼ばれるようになった。

 同年初めてベトナム戦争に投入された。当初は南ベトナム軍の支援機として負傷兵の救出搬送にあたったが、やがてロケット弾やマシンガンを装備して自らも戦うようになる。

 並行して民間型もつくられ、使い勝手が良く、信頼性の高い多用途機として、204Bから205、214と進化し、212や412の双発機へ発展、今なお製造が続いている。派生型のAH-1を含めると、総数およそ2万機が生産され、航空機としておそらく史上最も多い生産記録を持つ機種の一つになるものと思われる。

ミルMi-6

 ロシアのヘリコプター界をリードしたミハイル・ミルが初めて実用化したヘリコプターはMi-1であった。4人乗りのピストン機(525hp)で、1948年9月に初飛行、51年から軍用向けの量産がはじまる。のちに民間機としても農薬散布や患者搬送に使われた。

 ミル・ヘリコプターは、やがてMi-2、Mi-4、Mi-6、Mi-8と進化してゆくが、Mi-2には早くもタービン・エンジン(400shp)2基が装備され、原型機は1961年9月に初飛行した。

 Mi-6は1957年秋に初飛行したが、当時としては世界最大のヘリコプターである。大砲、戦車、ミサイル、担架41人分、兵員または乗客65〜90人の搭載ができるし、機外吊下げ能力は8トンに及ぶ。また山火事の消火に際しては、機内のタンクに12トンの水を搭載、20秒で投下放水することができる。

 特異なのは、ローターハブ直下のやや後方に、スパン15mの短固定翼を着脱できること。長距離飛行などに有効で、必要な揚力の2割を負担する。これで主ローターの負担が軽減され、その分だけ速度が増す。事実Mi-6は、これほどの巨体でありながら、通常でも300km/hを超える速度性能を有する。

 記録飛行では340.15km/hの世界記録を持つ。また25,105kgの荷物を積んで高度2,840mまで上昇した記録もある。

 1960年から量産され、軍用ならびに民間用として約1,000機が製造された。 


Mi-6
(昔この巨人機が大阪へデモ飛行にきたとき、
キャビンの中で100人ほどの立食パーティが開かれたことがある)

BK117

 ヘリコプターの安全性を高めるために、小型ながらもエンジン2基を装備すると共に、ローターブレードに複合材を採用して、金属ブレードに見られる急激な疲労破壊をなくそうと考えたのが、ドイツのBO105(5席)である。さらにローターハブの関節をなくしてリジッド・ローターとし、高い運動能力を実現した。こうした革新的な技術によって1960年代、ドイツのヘリコプター技術は一挙に進む。

 このBO105を基本として、BK117(10席)は1970年代末頃から川崎重工業との間で共同開発された。随所に新しい技術が導入され、機体もひとまわり大きくなり、キャビンが広くなって使い勝手が良くなった。1982年の型式証明取得以来、エンジン出力の増加、トランスミッションの強化、尾部ローターの改善、総重量の増大などの進歩を重ね、2000年にはBK117C-2に生まれ変わる。欧州側ではこれをEC145と呼び、ドクターヘリなど新たな分野を切り開きつつある。


BK117

 再度の余談になるが、川崎重工を中心とする日本のヘリコプター工業界が陸上自衛隊のために開発したOH-1は、BK117の共同開発や長年にわたるライセンス生産から得られた技術を集大成したもので、機体、エンジンともに純国産のヘリコプターである。その飛行性能、操縦特性、騒音特性、整備性などは世界に誇り得るものがある。残念ながら武器輸出の禁止によって生産数が少なく、民間機への技術移転もないため隠れた存在となっているが、もっと活用する手段はないものだろうか。


陸上自衛隊の誇るOH-1

ベルAH-1

 攻撃ヘリコプターは胴体が細く、最前部に前後2つの座席があり、パイロットと射手兼副操縦士が乗り組む。機首下面には旋回砲塔を装備すると共に、胴体左右に張り出した短固定翼にロケット弾やミサイルを装着するというのが基本的な形状である。

 AH-1ヒューイコブラは、史上初めてこれを体現した。というよりもAH-1が攻撃ヘリコプターの基本概念をつくったのであった。ヘリコプターの機動性と「匍匐(ほふく)飛行」といわれる超低空の飛行能力を生かし、敵のすぐ傍へ忍び寄って攻撃を加えるといった新しい戦法を生み出した最初の攻撃機である。

 初飛行は1965年9月7日。ベルUH-1の改造型として開発され、ベトナム戦争の当時は、敵の地上砲火に対して味方の輸送ヘリコプターを護衛することが主な目的だった。最初の量産型AH-1Gは、1967年夏ベトナムの実戦に参加、その後の1年間に529機が米陸軍に納められた。次いで海兵隊も双発型AH-1Jシーコブラを採用する。1970年代に入ると、飛行性能とペイロードを増したAH-1Q,AH-1S,AH-1Tキングコブラ、AH-1Wスーパーコブラへと発展した。

 日本でも陸上自衛隊がAH-1Sを採用、富士重工で89機のライセンス生産がおこなわれた。


最新のAH-1Z

MDノーター機

 ヘリコプターにとって尾部ローターは一種のアキレス腱である。これを痛めると人間は歩けなくなり、ヘリコプターは飛べなくなる。主ローターのトルクを抑えるために、二重反転ローターや双ローターなど、初期の模索の果てにたどりついたシングル・ローター形式ではあるが、肝心の尾部ローターは大きな弱点でもあった。

 たとえば地面近くで機首を上げすぎると尾部ローターが地面を叩いたり、小石を跳ね上げて傷ついたり、場合によっては人身事故につながることもある。そうした不具合をなくす試みのひとつがユーロコプター機に見られるフェネストロンだが、もう一つがノーター(No Tail Rotor)機構である。

 その最初は1980年代後半、米陸軍のマクダネル・ダグラスOH-6を改造し、尾部ローターを取り除いて、テールブーム付け根内部にファンを取りつけた。その回転で低圧の圧縮空気をつくり、テールブーム右側の細長いスリットから噴き出させ、「コアンダ効果」によって横方向の推力を発生させて主ローターのトルクを打ち消す。同時に尾部先端につけたスラスターから横向きに空気を噴射して、機体の向きを操作し、方向舵の役を果たす仕組みである。尾部ローターがない分、騒音も静かになった。

 ノーターの原理を使ったヘリコプターは、当初のMD500N(5席)からMD900/902エクスプローラー(8席)やMD600N(8席)に発展、安全と減音という所期の目的を果たしながら数多く使われている。


MDエクスプローラー

EH101

 ヘリコプターのエンジンを3発にするとどうなるか。1発が停まると、双発なら出力が半分に落ちるが、3発ならば3分の2までしか落ちない。実際は緊急出力を発揮するから、出力低下はさらに少なくてすむ。それだけ安全性が高まると共に、オートローテイションをするような事態もほとんど考えられないので、ローター直径が小さくてすむ。したがってローターの先端速度を考えると、機体の前進速度を上げることができる。つまり速度性能が向上するのである。

 このことを最初に実現したのがフランスのシュペル・フルロン3発ヘリコプターであった。フランス海軍の対潜機として洋上長時間の飛行をするには3発の安全性が有効であった。1963年には期待通り、350.47km/hの速度記録をつくっている。

 そこでEH101も3発機として同様の特徴を持つと共に、開発時期が1980年代であるだけにローターブレードが複合材に変わった。形状にも新しい技術が取り入れられ、高い飛行能力を発揮する。ペイロードは兵員30人または貨物6トン。操縦系統にはフライ・バイ・ライトも組みこまれ、最新の電子機器を装備している。

 日本では1999年から警視庁が民間機としては世界でただ1機のEH101を導入、2001年7月には天皇皇后両陛下をのせて飛行した。最近は、海上自衛隊が14機を発注というニュースも聞かれる。

 日本以外では、英海空軍、イタリア海軍、カナダ国防軍、デンマーク、ポルトガルから注文を受け、受注総数は128機。そのうち約80機が引渡された。

 なお、本機の開発は、伊アグスタ社と英ウェストランド社の関係を深め、ついに2001年両社合併のきっかけとなったプロジェクトでもある。

カモフKa-50/52

 カモフ・ヘリコプターの特徴は同軸反転式のローターである。上下二重のローターが互いに反転する。小型機では初期のKa-26、それをタービン化したKa-226、大型機ではKa-27、Ka-32などがあり、ついにKa-50/52攻撃機が出現した。

 同軸反転ローターの特徴は、尾部ローターに取られる出力が要らないために、エンジン出力の効率が良くなる。またローターの回転直径が小さくてすむため高速性能が良くなる。さらにどんな速度でもペダル旋回で機首の方位を変更できるなど、操縦操作の効きが敏感で、敏捷な運動ができる。いずれも戦闘用ヘリコプターには都合の好い特性である。

 2つのローターは、それぞれ3枚の複合材ブレードから成り、直径は14.5m。胴体は細くて空力的に洗練され、左右に短固定翼を張り出す。火器は胴体右舷の高速機銃のほか、対戦車ミサイル、対空ミサイル、ロケット弾など総重量2,300kgの装備を短固定翼に取りつけることができる。

 降着装置は前輪式の引込み脚。コクピットは完全防弾装備がほどこされ、射出座席がつく。座席数はKa-50が単座、-52が複座だが、単座の攻撃ヘリコプターは他機には見られない。これはKa-50の運動性とすぐれた火器、射撃精度、ワークロードの減少などによるもので、機体重量の軽減に大きく貢献している。

 この軽量化によって、Ka-50は垂直上昇やホバリング能力にすぐれるばかりでなく、3.5Gの荷重に耐え、最小限の運動範囲で短時間のうちに、敵に対する優位な位置を取ることができる。


Ka-50ブラックシャーク攻撃機

ティルトローター

 ティルトローター機は、ヘリコプターと固定翼機の間をつなぐ新世代の垂直離着陸機として、期待が持たれている。

 ベル・ヘリコプター社では、このローター前傾の技術について、半世紀にわたる研究開発をつづけてきた。最初の実験機XV-3が飛んだのは1955年8月11日。左右の固定翼両端に長いマストを立て、その先に3枚ブレードのローターがつく。これでヘリコプター同様の垂直離陸をしたのち、マストを前方に倒して前進飛行に移るというのが基本概念である。

 XV-3が初めて遷移飛行に成功したのは、1958年12月17日であった。その後1966年まで飛行実験がつづき、総計125時間の飛行中に110回の遷移がおこなわれた。1970年代になると、より洗練されたXV-15実験機が飛び、ティルトローターの実用性を確信させた。 これにより米国防省は1985年、V-22オスプレイの採用を決定、ベル社とボーイング社が共同開発することになった。30人近い兵員をのせて、ヘリコプターの2倍の速度で4倍の遠距離まで高速輸送ができる。量産機は1999年から引渡しに入ったが、翌年2度の死亡事故を起こして飛行停止となり、2002年5月から改めて安全性に関する再確認試験が始まり、今もつづいている。

 ティルトローターはV-22に続いて民間向けBA609の開発も進んでおり、成功すれば次の100年に向かってロータークラフトの世界を大きく広げることになろう。


BA609

(西川 渉、『航空情報』2004年2月号所載)

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