<信州フォーラム>

あなたの知らないドクターヘリの色々

 

 去る2月13〜15日の3日間、長野県大町市文化会館で、長野県立こども病院を事務局として、新生児呼吸療法・モニタリングフォーラムの学術集会が開催された。その最終日、15日午前9時から10時半までのシンポジウム「周産期のヘリコプター搬送」に招かれ、パネル討論に参加する機会を与えられた。

 このとき、いきなりの余談で恐縮ながら、前日の14日夕方までに大町市に入る予定で新宿から松本経由で信濃大町までの切符を買ってあった。ところが、その日朝から降り出した雪のために列車が遅延、大町のホテルにチェックインしたのは深夜0時頃であった。

 シンポジウムは15日午前中、無事に終わったものの、午後からは観測史上最悪の積雪となって一切の交通が途絶、どこにも出られなくなり、2日間にわたってホテルに閉じこめられる結果となった。翌日は福岡で厚生労働省主催のドクターヘリ従事者研修会で講義の予定があったが、これも別の先生に代講をお願いせざるを得なかった。

 しかしまあ、ホテルに足留めというのは天国みたいなもので、閉じこめられている間に持参の本2冊を読み終わった。いっぽうテレビのニュースによれば長野県や山梨県を車で走っていた人びとは深い雪の中で立ち往生し、寒さ、空腹、トイレなどで地獄の苦しみに遭ったらしい。ご同情申し上げる次第です。(上の写真はホテルの玄関先の雪)

 以下はパネル討論における拙話の概要である。

 座長の青木幹弘先生(長崎医療センター小児科)から「あなたの知らないドクターヘリのいろいろ」という御題をいただきました。ドクターヘリについて、ご出席の先生方の知らないようなことがあるのかどうか。あるとすれば、われわれHEM-Netの努力が足りないことを意味するのではないか。いささか矛盾した気持ちで参上いたしました。

 ここ大町から北アルプスに向かった奥には、ご存知の黒部第四ダムがあります。あのダムが完成してから50年が経過しました。昨年そのダム・サイトに行く機会があって、大量の水が豪快に流れ落ちるもようを見ることができました。

 黒四ダムの工事にあたってはヘリコプターが使われました。ヘリコプターは第2次大戦末期に実用になり、アメリカ陸軍がフィリピンやビルマで連絡飛行や戦場偵察のために使いました。これがヘリコプター実用化の始まりですが、そのあと戦争が終わってしばらくして民間機としても実用化されました。

 しかし日本では戦後7年間、マッカーサー総司令部(GHQ)によって航空活動が禁止されていました。飛行機の製造も運航も研究も全て禁止、したがって大学の航空工学科も閉鎖という恐ろしくも情けない状況にありました。実はドイツも同じような仕打ちを受けました。しかし、あれから60年余、旅客機やビジネスジェットなどの開発は、ドイツの方が日本よりも遙かに進んでいるのは何故でしょうか。日本の航空工業がアメリカの下請けに甘んじたまま、遅れているのは戦後の空白期間があったからというのは、私には言い訳にしか聞こえません。

 1952年ようやく航空活動が解禁となり、日本へもヘリコプターが輸入されるようになりました。当時はまだ2〜3人乗りの小型ピストン機でした。

 この小型機が関西電力との契約により黒四ダムの建設に従事、建設資材の運搬や技術者の往来などに使われました。そのための拠点を、ここ大町に置いて、工事現場までおよそ20キロメートルを往復しておりましたが、資材輸送や人員輸送に加えて、工事現場で怪我をする人、谷間の崖から転落する人が出るようになって、現場から大町の病院まで救急搬送をするようになりました。つまり大町は「日本初のヘリコプター救急拠点」といっていいと思います。救急搬送をした患者さんは2年半の間に80人以上に上ります。

 ところが、その飛行中に、天候の良くない日だったようですが、ヘリコプターが谷間に張り渡した索道にぶつかって墜落する事故が発生、操縦士と整備士が殉職しました。ほかにも、この工事では多数の作業員が殉職しており、総数171人になります。ダムサイトには現在、殉職者の氏名を刻んだ銘板があり、上図のように花が供えてあります。

 ヘリコプターによる人命救助は伊勢湾台風でも、大きな成果をあげました。

 昭和和34(1959)年秋、紀伊半島に上陸した暴風雨は記録的な低気圧となって名古屋地方を襲い、伊勢湾の満潮時と重なって観測史上空前の高潮となり、海岸の堤防が決壊して大洪水が発生しました。死者・行方不明者は、愛知県と三重県を中心に5千人余り。負傷者4万人、被災者153万人という未曾有の被害となりました。

 このとき、日本に駐留していたアメリカ軍と、発足まもない自衛隊のヘリコプターが出動し、洪水のために濁流の中に取り残された人びと約5千人を救出しました。

 そのもようを、名古屋市の『伊勢湾台風災害誌』は特筆すべき事項として、数字はやや異なるが、「陸・海・空自衛隊ヘリコプターおよび米軍ヘリコプター(陸・海・空軍および海兵隊)が10月2日前後に実施した計40機による孤立被災者7千人の救出避難作業」と書いています。「最も顕著なものは、米第七艦隊と極東空軍の活躍で……空母ケアサージ号と空軍派遣のヘリコプター部隊は被災の翌朝から数週間にわたり、優秀な機動力を駆使して人命救助・医療・救急物資の輸送などに昼夜をわかたず協力、緊急事態収拾のため大きな功績を残した……」 。

 上図スライドに「死者・行方不明5千人を越す」という新聞記事を載せておきましたが、この数字とヘリコプターの救出数がほぼ同じですから、もしヘリコプターがなければ死者は2倍に達していたかもしれません。

 伊勢湾台風から35年ほど経って、神戸淡路付近で大地震が発生、阪神淡路大震災となりました。1995年1月のことです。このとき激しく燃え上がる神戸上空を多数のヘリコプターが飛びましたが、そのほとんどは報道取材機で、人命救助や消火にあたるヘリコプターは1機もなく、市民の怒りを買いました。伊勢湾台風のときのヘリコプターとは全く逆の結果です。

 新聞の投書欄には、炎上する神戸上空を騒音と共に飛び交うヘリコプターを見て「あのヘリは何しとんや。行ったり来たりするなら海から水くんででもまかんかいな。けが人のせて大阪まで運んだれや。用もないのにうろうろすな!」という怒りの声が掲載されました。

 救急ヘリコプターは世界中で、どのくらい飛んでいるのでしょうか。上表は主要10ヵ国を制度化の早かった順に並べたものですが、これだけで拠点数が1,100ヵ所を超え、それ以外の国も合わせるとおよそ1,300ヵ所になると思われます。このうち最も早くヘリコプターを日常的な救急手段として使い始めたのはドイツでした。

 ドイツでは1960年代後半、ドイツ自動車クラブ(ADAC)が主体となってアウトバーンの交通事故を対象とし、ドクターをヘリコプターで現場に送り、その場で治療を開始するという実験をおこないました。これで一定の成果を得て、1970年から世界で最も早く日常的な救急体制にヘリコプターを組みこむ制度をつくったのです。

 ドイツのヘリコプター救急方式は、上図に示す通り「ミュンヘン・モデル」と呼ばれています。拠点ごとの担当地域を半径50キロメートルとしたのは、救急患者に対して原則15分以内に治療を開始するという「レスポンス・タイム」が法規に定められているためです。これならば、ヘリコプターの速度を毎時200キロと想定して、遠くても15分以内に患者さんのところへドクターが到着できます。念のために15分以内という規定は、ヘリコプターだけのものではありません。全ての救急治療を15分以内におこなうよう求めるものです。

 なお、日本のドクターヘリは、ドイツのヘリコプター救急方式と、ほとんど同じようなやり方をしております。ただし医療スタッフは、医師とパラメディックの代わりに、医師とフライトナースが乗り組んでいます。また担当地域も50キロに限らず、府県ごとの自治体境界線の範囲となっています。そうなると、50キロ以上の遠いところまで飛ばなければならないことも出てきますが、最近は県境を越えて他県の最寄りの拠点から飛ぶといった相互協力体制を構築する動きも出てきました。

 スイスもドイツに倣って、標高4千メートル級のアルプス山岳国でありながら、国内のどこでも医師を乗せたヘリコプターが15分以内に到達できるよう、時間距離を考えた場所に拠点が設けてあります。拠点数は、日本の九州と同じくらいの国土に13ヵ所。これで医療過疎などという言葉は、スイスにはありません。

 ちなみに九州の拠点数は7ヵ所です。

 スイスで最初のヘリコプター救急拠点はチューリッヒ大学のこども病院屋上ヘリポートでした。機内にインキュベーター(保育器)を搭載して未熟児の搬送にあたりました。

 さて、日本のドクターヘリですが、これを整備するための「ドクターヘリ調査検討委員会」が発足したのは1999年夏。そして年度をまたいで、2000年4月まで5回の会議を開き、6月に報告書を公表、2001年4月1日正式にドクターヘリ事業が始まりました。私自身も委員のひとりとして参加しておりました。

 委員会では当時、ヘリコプターの救急効果について異論が多く、なかなか決着がつきません。委員の中からは「これはドクターヘリを実現させるための委員会か、それとも実現させないための委員会か」といった発言も飛び出しました。

 こうして委員会は年度内に終わらず、次年度もう一度最終回をおこなうことになり、最後の会議にあたっては、その冒頭、主宰の内閣内政審議室長が「もしドクターヘリが飛ばなければ、私の首が飛びます」という悲壮な冗句を飛ばしたほどです。

 それでも何とか、ドクターヘリを実行するという結論になったのは、われわれの議論ばかりでなく、その背景に当時の厚生省が並行しておこなった「ドクターヘリ試行的事業」の半年間の実績が出たからです。それは、およそのところ、ヘリコプターを使えば救急車にくらべて、死者がほぼ半分に減り、社会復帰者は2倍以上に増えるというものでした。

 なお、これらの議論と試行的事業の結果は、今も首相官邸のホームページで見るとができます。ただし、議論のやりとりは実際よりも柔らかく修正されています。

 ちなみに、調査検討委員会の最初から「ドクターヘリ」という言葉が使われていたことからして、この救急医療システムは実現する前から名前だけは決まっていたことになります。それも、世界中どこにも見られない日本独自の名前で、いわゆる和製英語ではありますが、何人かの外国人に訊いても即座に理解してくれましたから、まことに分かりやすい、うまい命名だったと思います。

 かくてドクターヘリ事業は2001年4月1日、新世紀の新年度頭初から正式に発足、13年を経た現在36道府県で43機が飛ぶようになりました。

 上の地図に見るように、まだ空白地域が残っていますが、それらを含めて、今後どのくらいまで普及すればいいのでしょうか。

 たとえばドイツ(357千平方キロ)と日本(378千平方キロ)は国土面積が殆ど変わりません。日本の方が数パーセント広いのですが、もしドイツ並みの普及を考えるならば70ヵ所まで増やしてゆく必要があるでしょう。

 しかしヨーロッパ大陸の中央部にあるドイツはほとんど平野です。それに対して日本は山が多い。したがってスイスに範を取るならば面積の割にして将来100ヵ所くらいまで増やす必要があります。

 最後に、私の夢について語るようにとのご指示なので、そのひとつはティルトローター救急です。

 ティルトローターとは、かのオスプレイでご存知のように、固定翼機にローターをつけた形状で、ヘリコプターのように垂直に離着陸すると共に、ローターを前方へ90°ティルトする――すなわち傾けることによって普通の飛行機のように巡航飛行のできる航空機です。

 オスプレイは新聞やテレビの宣伝によって、いかにも危険なように書き立てられていますが、あれは沖縄の基地問題のとばっちりを受けたのであって、ことさら危険というわけではありません。アメリカの海兵隊が使っているオスプレイとヘリコプターの事故率を見ますと、むしろオスプレイの方が安全という結果が出ています。

 しかもティルトローターは、同じクラスのヘリコプターにくらべて速度は2倍、航続距離は3倍ほどで、垂直離着陸も可能。広い地域の救急には最適の航空機です。

 なお、オスプレイは軍用機ですから、われわれがそのまま救急飛行に使うことはできませんが、目下イタリアのアグスタウェストランド社で民間向けティルトローター機の開発が進み、現在、試験飛行中です。オスプレイよりも小さく、操縦席は前方2席、客席は主キャビン9席という大きさで、AW609と呼んでおります。2017年には実用化の見こみです。

 さらに、もっと先の実用化をめざして、上図のような都市内を飛び回る垂直離着陸機(VTOL:Vertical Take-off & Landing)の開発計画も、イスラエルで進んでいます。ローターは胴体の前方と後方に埋めこまれ、外部に露出していませんので騒音が少ない。標準座席数は10席。警察のパトロールや救急飛行に使う構想で、図のように救急患者のストレッチャーを乗せることができます。

 ヘリコプターは最良の危機管理手段です。

 欧米では、ヘリコプター救急拠点にゆくと、たいていのヘリポートに保育器が置いてあり、異常分娩のような事態に、いつでも応じられる態勢を取っております。

 また上の写真のような図柄を胴体に描いて、新生児や小児患者の救急専用機として使われているヘリコプターも見かけます。

 ドクターヘリというと、日本ではほとんど外科の救急医療の先生方ばかりが使っていますが、それだけではもったいない。赤ちゃんにも子供さんにもお母さんにも、命の危険にぶつかったときは立派に役に立つことができます。

 周産期医療や新生児救急の先生方にも、今後ますますヘリコプターを活用していただきたいと思います。ご清聴有難うございました。

(西川 渉、2014.2.21)

 

    

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