<ティルトローター>

オスプレイ工場を見る

 

 

 ティルトローター機は大きな期待を集めて開発がはじまった。ここに取り上げるV-22オスプレイの開発契約が米政府とメーカーとの間で調印されたのは今からちょうど20年前、1985年のことである。

 ところが2000年、いよいよ実用段階に入ろうというとき、訓練飛行中に2度の死亡事故が起きてしまった。そのため、一時は開発打切りかと思われる事態に追いこまれる。ペンタゴンや政治家の間で激しい論議が巻き起こり、もう一度基本に立ち戻って安全性の確認からやり直すことになった。

 あれから5年。この間におこなわれた設計の見直しと改修作業で、V-22はどこまで安全になったのか。軍事上のきびしい任務に耐えられるのか。果たして生まれ替わることができるのか。その将来を賭けて、今ふたたび運用評価試験まで漕ぎ着けた。

 筆者は去る2月初め、ボーイング社のフィラデルフィア工場でV-22の製造工程を見る機会があったが、そのもようを含めてオスプレイの現状をご報告いたしたい。


雪の朝のボーイング・フィラデルフィア工場と、玄関までのオスプレイ通り

早くも100機以上の製造に着手

 フィラデルフィア国際空港の一角。2日ほど前に降り積もった雪に、明るい陽光がまばゆく照り映える。ジャーナリストの友人数人で駐車場を出ると、ボーイング社の玄関に通ずる道には「オスプレイ通り」や「コマンチ小径」などの名前がついていた。

 この工場では現在、CH-47チヌークが生産され、V-22オスプレイの胴体がつくられている。その製造現場を見学して、ちょっと驚いたことがいくつかあった。

 最も端的なのは、ここに書いていいのかどうか、工場の中で写真を撮っていいと言われたことである。航空機に限らず、ほとんどの製造工場では、写真撮影は禁止される。とりわけ軍事工場では制限がきびしい。場合によっては、門を入るところでカメラを取り上げられる。

 ところがここでは、軍用機の工場でもあり、どうせ駄目だろうと思いながら訊いてみると、「いいですよ」という答えが返ってきた。工場の中を歩きながら、初めのうちは遠慮しつつシャッターを切っていたが、だんだん大胆になり、余りにパチパチ、ピカピカやるので、とうとう責任者らしい人がすっ飛んできた。

 案内の広報担当役員に何か言ったようである。しかし、その役員は動ぜず、「これでいいんだ」というような返事をしたのだろう。こちらが心配していると、却って「さあ、ここで記念写真を撮りましょう」などと、わざわざ組立て中のオスプレイの前にわれわれを並ばせ、こちらのカメラで写真を撮ってくれるという大らかさ。同行していただいた商事会社の人も「こんなことは初めて」とびっくりしたほどだから、誰もが同じように撮影を認められるかどうか、それは知らない。

 2番目の驚きは、スタッフの皆さんが自信にあふれていること。オスプレイの将来に対する懸念や弱気はどこにも見られない。ひょっとしたら開発中止になるかもしれないなどと、こちらの方が心配していたところ、当のご本人たちは平気で開発と製作作業をつづけている。将来に向かって本格的な量産見通しが立ってきたからであろうか。

 その結果、これが最大の驚きだが、工場の中を歩いていて、組立て中の機体に製造番号「73」の文字が記されているのを見たときである。つまり、オスプレイは、もはや打切りかというような声もあった中で、まだ実用にもなっていないのに、いつの間にか73機目の組立てが進んでいるのである。


組立て中の胴体に記された「73」の文字。
これが製造番号であることはボーイング社も認めている。

ボルテックス・リングに陥いる

 V-22オスプレイは1989年3月19日に初飛行した。ベル・ヘリコプター社とボーイング社の共同開発になる大型双発ティルトローター機である。以来7年余りをかけて原型5機の試験飛行が続き、1997年からは3機の量産先行型が飛び始めた。ここまで、地上試験用の2機を含めて10機のオスプレイが製作されたことになる。

 つづいて第1ロット5機の量産機が製造され、1999年5月1号機が海兵隊に納入された。その後1年以内に5機の納入が終わり、2000年7月からは第2ロット7機の納入が始まった。計画では2003年から第3ロット7機の納入も始まることになっていたが、ここで連続事故が起こったのである。

 それより先、量産機の引渡しを受けた海兵隊では1999年11月から実用評価試験を開始した。2000年6月までに350回、700時間の飛行が予定されていた。

 ところが2000年4月8日、量産先行型の製造番号14号機が墜落し、乗っていた海兵隊員19名が全員死亡した。後に述べるイランの人質救出を想定して小さな飛行場へ進入中、高度75mで機体の姿勢が急変して横転に入り、真っ逆さまに地面へ突っ込んだのである。原因は後に、主ローターがボルテックス・リング状態(VRS)におちいって揚力を失ったためと判明した。

 VRSはヘリコプターやティルトローターなどのロータークラフトが高い降下率で降下しながら、前進速度が少ないときに発生する。自分自身のダウンウォッシュの中に入って、叩き落とされるような格好になるからである。そこでオスプレイの飛行規定には高度150m以下では、前進速度74q/h以下で毎分240m以上の降下をしてはならないと定められている。

 しかし、事故機のパイロットはこの限界を超えて降下したらしい。というのも、2機編隊で前を飛んでいた先行機が急降下したため、後続の事故機は間隔を維持するのに気を取られていたからだった。実は、先行機も規定を超えて毎分540mで降下し、事故にはならなかったものの、激しいハードランディングをしている。

 さらに事故機は、先行機の後流の中に入った可能性もあると見られた。そこでオスプレイは、上記VRS回避の規定を厳格に守ると共に、先行機の後方60m、下方15m以内を飛んではならないという新しい規定を定めて、2000年5月19日に飛行再開となった。

再び死亡事故で飛行停止

 この再開にあたって、オスプレイへの風当たりは文字通り強かった。ティルトローターは余りに複雑で、余りに急進的で、余りに操縦がむずかしく、余りに高価で、したがって、これを実用化するのは間違いという非難である。

 そこで改めてVRSの危険性について飛行試験がおこなわれ、回復操作や編隊飛行の際の後流の影響などが検証された。その結果、ことさらオスプレイがVRSに弱い航空機ではなく、飛行限界も速度55q/h以上であれば、毎分420mの降下をしても安全ということが確認された。

 そればかりか、オスプレイは速度も航続距離も操縦特性もペイロード/航続性能も、軍の要求仕様を超えていることが明確になった。たとえば最大巡航速度は軍の要求445q/hを超えて478q/hに達する。もっとも、軍の求める243項目のうち17項目が達成できなかったために、やはりオスプレイは不合格とする意見も出てきた。

 しかし17項目は、どれも大した問題ではなく、いずれ達成可能という考えの下に飛行試験が進められた。ところが12月11日、再び死亡事故が発生する。製造番号18号機という新しい機体で、まだ157時間しか飛んでいなかった。

 事故はオスプレイが基地へ戻る際、滑走路の手前9km付近で起こった。原因は、エンジン・ナセルの中に詰めこまれた配管、配線、ホースなどが相互に接触しながら走っているため、振動によってこすれ合い、左舷ナセルの中の油圧管が破裂したのである。

 油圧系統は三重になっていて、次のバックアップ系統が代わって作動したが、反応速度が遅かったらしい。左舷のローターブレードのピッチ角が落ちて、左右のローター推力がちぐはぐになり、機体は大きく揺れ動き、最後は操縦不能に陥って墜落した。

 これでオスプレイの信頼性に対する疑問が噴出、全機が飛行停止となった。というのも、原型機の基礎試験中の事故を合わせると、都合4回になり、死亡者は総計30人に上ったからである。

基礎試験からやり直し

 米政府はそこで、改めてティルトローターの将来を検討することとし、中立の「ブルーリボン」委員会(BRP)を設置した。審議の結果は2001年4月19日に議会へ報告されたが、今ここでV-22オスプレイの開発を中止する必要はないとするものであった。理由はティルトローター自体に何か根本的、原理的な欠陥があるわけではない。また、それに代る手段もなく、改めて別の航空機を開発すれば再び莫大な資金と時間がかかる。そのうえ出来上がったものが、V-22以上に良くなるかどうか分からない。

 ただし、このまま従来の計画を進めるのではなく、もう一度基礎的な試験段階に立ち戻り、安全性と信頼性について充分確認する必要がある。したがって量産と実用化はその後まで延期すべしというものだった。

 他方、オスプレイよりも前のXV-15などの実験研究をしてきたNASAもティルトローター検討委員会を設け、ブルーリボン委員会の結論を踏まえながら、さらに技術的な検討を加えた。その結果は2001年11月に公表されたが、V-22の開発を中止すべき空力的な現象は見られない。けれどもVRS、編隊飛行、着艦要領などについて、もっと試験飛行をおこない、詳細な分析をする必要があるとした。

 最後は、発足半年余りを経たブッシュ政権の決断であった。さまざまな意見が出て、論議が交わされる中で、どのような結論になるのか。関係者の内心はおそらく穏やかではなかったと思われるが、そこへあの911同時多発テロが起こったのである。

 事態は急展開した。山岳国アフガニスタンへ向かって、米海兵隊はCH-46、空軍はMH-53といったヘリコプターを派遣、アラビア海に浮かぶ空母や艦船からパキスタンの上空を越えてカンダハルやカブールまで、きわめて長距離の飛行作戦を強いられることになった。こんなときオスプレイがあればどれほど楽な展開ができたことか、誰もが強く感じたのである。

人質救出の失敗に学ぶ

 ここで想起されるのはイラン人質救出作戦である。これはオスプレイの必要性を説くときに必ず引用される話で、ご記憶の方も多いだろうが、簡単に整理しておきたい。

 作戦名は「オペレーション・イーグル・クロウ」――「鷲の爪作戦」とでもいうべきもので、1980年4月24日米空軍によって敢行され、みごとに失敗した屈辱の事件である。

 その半年ほど前の1949年11月4日、イランのアメリカ大使館に革命軍と称する暴徒が侵入し、職員52名を拘束した。外交交渉では埒があかないと見たアメリカは、全4軍を動員し、海兵隊のRH-53Dを8機、空軍のC-130を8機とC-141を2機使うという大がかりな救出計画を立てた。

 目的地はテヘランだが、その手前2ヵ所の砂漠の中に臨時拠点を設置。前の晩に、そこへ3機のC-130が飛んで特殊部隊デルタフォースとヘリコプター用の燃料を降ろす。翌日、空母ニミッツから出発したヘリコプターが飛来、燃料を補給し、デルタフォース隊員を載せてテヘラン郊外へ降ろす。

 2日目の晩、3機のC-130がレンジャー部隊100人をのせてテヘランに近い飛行場へ着陸、救出した人質を載せるための2機のC-141の到着を待つ。その夜、デルタフォースが大使館に侵入して人質を救出、近くのサッカー場で待つRH-53Dに乗って郊外の飛行場へ飛ぶ。そこでC-141に乗り換えてイランから脱出する。そのときヘリコプターは乗り捨て爆破するという作戦である。

 実際は、しかし、ごく単純なことで失敗に終わった。ひとつは敵レーダーに見つからぬよう、ヘリコプターは高度60m以下で飛ぶことになった。折から砂嵐がひどく、2機が視界を失って不時着、臨時拠点にたどり着いたヘリコプターは6機であった。しかし1機は油圧系統が故障して飛べなくなり、残り5機だけの特殊部隊では人質の救出は不可能と判断された。

 作戦は中止された。しかし事態はこれだけでは収まらない。RH-53Dヘリコプターの1機が駐機位置を変えるためにホバリング移動をしたとき、強風にあおられ、そばにいたC-130にぶつかったのである。暗闇の中で2機の航空機が燃え上がった。そのため死者8人と多数のけが人が出ることとなる。

 この騒ぎでアメリカ側の救出作戦が露見し、イラン側は人質を各地に分散して拘留するようになった。そのため、もはや救出は無理ということになり、長い外交交渉が始まった。結局1981年1月20日、人質は解放されたが、同日カーター大統領もホワイトハウスを去ったのである。

 もしこのときV-22があれば、C-130やC-141といった固定翼機を使うことなく、深夜から明け方にかけて8時間ですますことができるというのがオスプレイ・チームの主張である。カーター大統領も辞めなくてすんだかもしれない。

 果たしてそんなにうまくゆくのか。いささか疑問なしとしないが、今ならば第1次と第2次のイラク戦争で、アメリカ軍も砂漠の中の飛行に経験を積んでいる。またGPSによる簡便かつ確実な航法が可能になった。そして使用機がオスプレイだけですむならば、米4軍の全てが絡み合うような複雑な計画を立てる必要がなくなる。成功の確率はぐんと上がるに違いない。


ボーイング社訪問時のレクチャーに使われたスライドの1枚。
「鷲の爪」作戦を図化し、現実の結果とオスプレイを使った場合とが比較してある。

2年半のテスト飛行の繰り返し

 911多発テロとその後の軍事行動によって、オスプレイの機械的な改修とソフトウェアの改善に拍車がかかった。事故原因となったボルテックス・リング(VRS)を避けるために、コクピットにはVRS状態に近づいたことを知らせる赤ランプ、警報音、振動という3種類の警報装置が取りつけられた。ナセルも再設計され、油圧系統の配管のこすれが生じないようになった。

 こうして2002年5月29日、飛行停止から1年半を経て試験飛行が再開され、2004年末までに1,800時間の飛行が計画された。

 いったんは完成とみなされ、量産が始まったはずの航空機が、改めて2年半をかけて試験をやり直すという徹底ぶりである。試験に使われた機材は、海兵隊の5機と空軍の2機であった。

 2003年末までの基礎試験では殆ど不具合もなく、順調に作業が進んだ。問題のVRSについても、高い降下率で試験を繰り返し、どのような場合にVRSに陥るのか、どこまでならば大丈夫かという膨大なデータが蓄積された。その結果、毎分240mまでの降下率ならば、VRSは生じないという確信が得られた。

 2004年からは実戦的な試験項目も加わった。寒冷地テスト、着艦テスト、落下傘降下なども繰り返し行われた。

 空軍向けのCV-22は、海兵隊の基本型に燃料タンクを翼内に増設して航続距離を伸ばし、航法および通信システムを強化すると共に、遭難者の吊り上げホイストを装着している。また機体重量と有害抵抗を減らして、搭載量を増やすという要件も加えながら飛行を続けた。

 こうしてV-22オスプレイは、2002年なかばから2年半をかけて営々と飛行実績を重ねた。いま総飛行時間は5,000時間に近い。その結果、今年に入って去る2月24日のことだが、ベル・ボーイング開発チームは海軍から公式に実用評価試験に入る許可を受けた。開始の日取りは未定だが、3月なかばにも始まる予定とされた。

 開始期日が未定となったのは、この許可の直前、今年初めにギアボックスの一部に不具合が生じて不時着する事態が起こり、設計変更が必要になったためである。そのため本稿執筆の時点ではまだ始まっていない。

実用評価から量産体制へ

 いずれにせよ、この評価試験の開始によって、オスプレイは5年前の状態を取り戻すことになる。2000年の事故は、評価試験の最終段階でつまづいたものだった。

 実用評価は8機のオスプレイを使っておこなわれる。今年秋までに500時間余りを飛んで、V-22が「安全かつ実用的な航空機」であることを実証することになっている。

 われわれがボーイング社のフィラデルフィア工場を訪ねたのは、今から考えると、この運用試験の許可が出る直前だった。あのときは、そんな話はなかったが、おそらくスタッフの間では分かっていたのであろう。ということは、ティルトローターの技術に関する基本的な疑問は払拭されたことになる。彼らの自信にあふれた態度もそれだったにちがいない。

 今後は評価試験が進む一方で、本格的な量産体制をととのえなければならない。実は、われわれの案内された工場は、そのために設けられたもので、2003年6月に完成した。明るくて、清潔で、冷暖房完備の大きな建物で、広さは約15,000u。といってピンとこなければ、100m×150mの敷地を想像すればよいだろう。

 その中で、組立作業の指示は昔の青焼き図面ではなく、コンピューターディスプレイの画面に映しだされる。作業員は、画面の上で、単なる図面ばかりでなく、組立て手順まで動画で見ることができる。こうして出来上がった胴体は、降着装置を取りつけ、アビオニクスを組み込んだ状態で、工場の外のフィラデルフィア国際空港からC-5輸送機ならば2機、C-17ならば1機ずつ搭載され、テキサス州アマリロのベル社の工場へ送り出される。

 ベル社とボーイング社の作業は半々の分担になっており、ベル社は翼、ローター、ナセル、トランスミッションなどを製造する。エンジンはロールスロイス・アリソン社のインディアナ工場でつくり、他の小さい部品類も合わせて、全てがアマリロ工場へ集まる。最終組立と完成飛行試験もベル社がおこなう。

 当面の製造計画は、年間11機。将来は年間48機の大量生産が予定されているが、今後の予算配分によって変わるかもしれない。また、生産率の増大につれて1機当たりの単価を下げることになっており、現状では1機7,400万ドル(約75億円)の価格が、いずれ5,800万ドル(約60億円)になる目標である。

 製造機数は海兵隊向けのMV-22が360機、空軍向けCV-22が50機、海軍向けHV-22が48機で、合計458機。

 私はティルトローターの復活を念じながら、それが実戦で火を噴く前に抑止力として働くことを期待しつつ、再びオスプレイ通りをたどってボーイング社をあとにした。


治具の上に安置されたコクピット部分。
電気系統の配線も一通り終わったかに見える。


胴体への取りつけを待つ尾部


コクピット部分と尾部が対をなすように置かれている。
この中間に左手に見える胴体中央部が入る。


胴体中央部と尾部が結合された。


機首およびコクピット部分も胴体に結合


塗装が終わって完成した胴体。この姿でベル社へ向かって送り出され、
翼、エンジン、ローターなどが取りつけられる。


同じ工場の中で、オスプレイの横では
CH-47チヌーク大型ヘリコプターの改良組立も続々と流れていた。

(西川 渉、『航空ファン』2005年6月号掲載)

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