戦争を始めたのは誰か

 

 旧臘12月8日は昭和16年に戦争がはじまった日である。私はまだ5歳半で、別府の幼稚園に通っていたが、その朝早く父が新聞を広げながら、母に「戦争がはじまった」と語りかけているのを寝床の中で聞いた憶えがある。

 それから間もなく、父は軍医として久留米の陸軍病院に赴任し、あとから家族も久留米に移転した。そばには陸軍の大刀洗飛行場があって、昭和19年にはだんだん空襲がひどくなり、B29の不気味な唸るような爆音はまだしも、敵戦闘機のカンカンカンという機銃掃射の音を押入れの布団の下にもぐりこんで聞くようになった。そして20年5月、国民学校の3年生になったばかりの頃、星野村の山の中に疎開した。戦争が終わったのは、それから3か月後のことだが、生活が苦しく、ひどくなったのはその後であった。

 昭和16年といえば、今から60年近く前のことで、日米開戦を話題にする人も少なくなった。この1か月ほど新聞やテレビがどんな扱いをするのかと注意していたが、私の見たり聞いたりした狭い範囲では全くそんな話は出てこなかった。もっぱら世紀末だのY2Kだのミレニアムといった話ばかりで、真珠湾はすっかり忘れ去られたかのようである。

 しかし忘れっぽい日本人とは異なり、アメリカ人は憶えていたらしい。彼らの「リメンバー・パールハーバー」(真珠湾を忘れるな――というよりも、日本よ覚えてろ)という相言葉は今も生きているにちがいない。というのは12月15日付けの「ニューヨーク・タイムズ」が『欺瞞の日(Day of Deceit)』という本の紹介をしていたからである。

 この本は12月に出たばかりで、著者はロバート・B・スティネットという元海軍軍人のジャーナリスト。「FDRとパールハーバーの真実」という副題がついているが、FDRとは当時のフランクリン・D・ルーズベルト大統領である。

 本の内容はルーズベルトが日本のハワイ奇襲作戦を事前に知っていたというもので、これまでも似たような話はあったが、本書は著者が情報公開法を利用して、17年間にわたって調査した証拠をもとに書いたものという。

 それによると、ルーズベルトは日本海軍による真珠湾攻撃を知っていた。にもかかわらず、戦争に巻き込まれるのを嫌がる米国民を起ち上がらせるために、奇襲を防ぐ手だてとしては故意に何もしなかった。したがって真珠湾の奇襲は、ルーズベルトにとって奇襲でも何でもない。むしろ、日本の方から戦争を仕掛けさせようという過去1年間のアメリカ政府の陰謀もしくは基本政策の実現だったのである。

 そのためルーズベルトは、わざわざハワイを無防備な状態に放置した。たとえば日本側のスパイが何か月も前にハワイに潜入して、軍艦の数や位置を東京に打電するのも、知っていて知らぬふりをした。

 ハワイの情報機関は日本の暗号を解読し、ワシントンに送っていた。しかし太平洋艦隊のキンメル提督には知らせなかった。それは「日本側の戦端行為を明確にするため」である。この日、真珠湾で死亡したアメリカ軍の兵員は2,273人だが、それだけの犠牲を払っても、ルーズベルトは米国を戦争に引きずりこみ、日本と戦いたかったのである。

 真珠湾の奇襲に至る3週間のあいだ、日本の機動部隊は無線封鎖をしながら、密かに太平洋上をハワイへ接近しつつあった――というのがこれまでの説明だが、実は日本の機動部隊はしばしば無線交信をしており、その行動は筒抜けにアメリカ側に分かっていた、と本書はいう。 

 この無線交信の中には山本五十六連合艦隊司令長官と機動部隊を率いる南雲忠一中将との交信も含まれ、その内容も解読されてワシントンに送られていた。もっとも、大量の情報が情報機関によって容易に仕分けられ、迅速に解読され翻訳されて、的確にホワイトハウスに届けられるといったことが、実際に可能だったろうかという疑問を呈する学者もいる。  

 ニューヨーク・タイムズの短い本の紹介を読んで、私は前に読んだ『沈黙する歴史』(西尾幹二著、徳間書店、1998年2月刊)を思い出した。

 アメリカは「愛弱憎強」の性格をもつと著者はいう。「弱いものを愛し、強いものを憎み、相手が弱いとみれば、これを愛し、強いと見れば憎んで、とことん叩く」。十年ほど前の日本経済高揚期、アメリカが盛んにジャパン・バッシングをやってくれたのもそれで「日本の経済が少し弱くなった現在は、安心していじめたりはしなくなる」

 第1次大戦後、日本が世界の大国にのし上がり、東アジアに権益を広げていったときも同様であった。ここは一番、日本を叩いておかねばならぬというので、イギリス、チャイナ、オランダを抱き込んでABCD包囲網をつくった。これで経済封鎖をし、窮鼠猫を噛むように仕向けて太平洋戦争に引きずりこむ。そのうえで徐々に追い詰め、東京を初めとする本土空襲に及び、それでもなかなか降参しないと見るや二度にわたって原爆を使った。

 こうして日本は敗れるが、「敗北と同時にアメリカの正義、アメリカの歴史観、アメリカの世界秩序の内部にほぼ全面的に包みこまれてしまった」。何故かくも簡単に敵の術中にはまりこんだのか。

「終戦を迎えての日本人の平穏さ、あるいは従順さと、アメリカへの敵意喪失の原因は、数えきれないほど多種多様である」として、著者は主な理由4点をあげている。その一つは「日本人はもともとアメリカ及びアメリカ人を憎んでいなかった。つくられた敵意で立ち向かう抽象的な闘いをしたにすぎない」

 その「つくられた敵意」をつくったのがルーズベルト政権とまで著者は言っていないが、日本政府も開戦の少し前までは、アメリカと戦争をしようなどとは考えていなかった。

 だから戦争が終わった途端にすっかり安心し、身も心も開いてアメリカの言うなりになった。ところがアメリカはまだ戦争をやめていなかった、と著者はいう。

「戦闘」が終わっても「戦争」は継続していた。先勝国はそのことの持つ意味を深く、徹底的に知っていた。日本は迂闊だった。(中略)

「戦後における戦争」に敗れたことが日本の「敗戦」の本当の意味である。戦闘に勝った他の国々は戦後もずっと自分の戦争を戦いつづけていたのに、日本はそれを忘れ(てしまった)。

 戦後の戦争とは、刊行物の米軍による検閲にはじまり、東京裁判(昭和21年5月)、民主教育の導入(昭和22年4月)、新憲法の施行(22年5月)など。これら一連の作戦、すなわち「戦争罪悪感を日本人の心に植えつけるためのプログラム」によって、われわれは徹底的に洗脳され、弱体化されて今日に及んだのである。

 その結果、日本はいまだにアメリカに頭が上がらず、一時は経済的に追い越すかと見えたが、ちょっと叩かれるとたちまち腰を抜かして起ち上がれないでいる。そのくせ赤字国債を出してまでも、アメリカの言うなりに景気浮揚策という米国朝貢策を取りつづけ、膨大な借金を子孫に残そうとしている。

 アメリカの「愛弱憎強」に対し、日本には逆に「愛強憎弱」がありはせぬか。両者相まって丁度いいように見えるが、国家間の関係ばかりでなく、われわれの周りの業界や企業の中にも強いものに阿(おもね)り、弱いものに石をぶつけるといった風土がある。それがアメリカの洗脳によるものか、日本民族固有の性格かは知らぬが。 

 日本はこれでいいのかという課題を、太平洋戦争のはじまった時期に、ルーズベルトの秘密を暴いたアメリカ側から逆に問われ、教えられたような気がする。

(西川渉、2000.1.13)

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