身勝手なお願い

 

 この数日間のニュースで腑に落ちないのは、ペルー人質事件に関連して、日本の政務次官がキューバやドミニカを訪問したことである。

 日本政府がフジモリ大統領を支援するのは当然だが、なぜ大統領の跡を追って、もう一度わざわざ日本の政務次官がうろつき回るのか。フジモリ氏の立場からすれば、自分が行って道を開き、よく頼んできたのだから、改めて日本が行く必要はないと言いたいのではないのか。

 それとも、自分だけでは不充分だから、もう一度、日本からも頼んでくれといった依頼が外務省にあったのだろうか。あるいはカストロ首相やフェルナンデス大統領が、日本も頭を下げに来いとでも言ったのだろうか。外交上の機密は、もとより知るよしもないが、常識で考えれば理解に苦しむところである。

 もっとおかしいのは、いくら政府間の話し合いが合意に達しても、犯人たちにとっては何の関係もないことである。彼らがキューバやドミニカに行きたいと言っているのならば意味があるけれども、今のところ犯人たちはそんなところへ行きたいとは言っていない。求めているのは捕らわれている仲間の釈放であり、その仲間たちとペルーで暮らしたいと言っているのである。とすれば、政務次官の大げさな外交交渉にどんな意味があるのか。全くのナンセンスである。

 さらに、それ以上におかしいのは、犯人の受け入れを外国にばかり要求していることである。先ずは日本みずから犯人を受け入れると言わなくていいのだろうか。もし犯人たちが日本に行きたいとか、日本が受け入れるならば妥協してもいいと言ったら、どうする積もりか。

 彼らが日本に行きたいと言い出さぬ保証はない。現に中国を初めとする東南アジアからは密航者がどんどん増えている。日本だって天国ではないから、そんな簡単に職場はありませんよといっても、刑務所に捕まってもいいから居させてくれという人がいるらしい。なぜなら日本の刑務所は人を殺さないし、待遇も良いので、2〜3年は入っていたいとか、所内の掃除でもさせてくれなどという。

 これを報じたテレビ・ニュースはふざけた証言と評していたが、彼らにとっては真面目な本音かもしれない。とすれば、同じような考え方をペルー人がしないとは限らない。もっともペルーと中国を一緒にすれば、ペルーに怒られるかもしれないし、中国に怒られるかもしれない。

 それはともかく、キューバやドミニカにばかり悪人どもの受け入れを押しつけておいて、日本はぬくぬくとしていられるのだろうか。 考えてみれば、こういう身勝手な発想は、今にはじまったことではない。湾岸戦争のときは観覧料だけ払って、あとはテレビ桟敷で高見の見物をしていた。

 もっと身近かなところでは、ゴミ焼却場や火葬場などの施設が近所にできるのは反対というのと同じ了見である。誰でも、こういう施設のお世話にならないわけにはいかないのにである。

 あるいは瀕死の重傷者を搬送する救急車のサイレンがうるさいといって消防署にねじこんでくる人も多いそうだから、救急病院の屋上にもヘリポートはなかなかできないし、できても救急ヘリコプターが飛べないといった有様である。いつかは自分も怪我をしたり、急病で倒れたりして、救急車の世話にならないとは限らない。

 にもかかわらず、他人(ひと)の痛みを感じることができない。現にペルーでは、われわれ日本人自身に激しい痛みが突きつけられているのである。にもかかわらず、それを他人事(ひとごと)にしてしまう日本政府のとりすました偽善は、きっとあとで外国からも非難の的になるであろう。

 日本の偽善首相も、臆面もなく政務次官にアンパンならぬ、ご大層な親書とやらを持たせ、外国に痛みを押しつけに行かせた。そんなことをするくらいなら、昔のハイジャック事件のときと同様、政務次官みずから人質の身代わりになるという申し出をすべきである。

 ドミニカの大統領は、「悪人の受け入れは、わが国の治安上問題があるが、人道的見地から止むを得ない」と語っているが、わが国も同じように身を賭して事態の解決に当たらなくていいのかね。

 どこか釈然としないものを感じてならない。

(西川渉、97.3.23)

 (「本頁篇」へ表紙へ戻る)