ヘリコプター事業半世紀

   ――PHIの創立五十周年を寿ぐ――

 米ペトロリアム・ヘリコプター社(PHI)のキャロル・サッグス夫人から、同社の創立50周年記念式典の招待状が送られてきた。昨秋、米ビジネス航空協会(NBAA)の年次大会で出会ったときにも「あなたもわが社の歴史の一部ですからね」などと、巧みなお世辞と共に「是非きてくださいよ」と言われていたのだが、残念ながら都合がつかず、出席は見合わせることにした。

 夫人は世界最大のヘリコプター会社、PHIを創設した故ロバート(ボブ)・サッグス氏の未亡人で、いまや同社の会長兼社長兼CEO(経営最高責任者)の重職にある。

 夫君のロバート・サッグス氏がPHIを創立したのは1949年。メキシコ湾の石油開発をヘリコプターで支援するのが目的で、むろん当時はヘリコプターそのものが珍しく、危なっかしく、果たして商売になるのかどうかも分からない時代であった。創業時の資本金は十万ドル、社員数8人、機材はベル47が3機だった。

 本社はニューオルリンズだが、ラファイエット空港の一角に大きな整備工場を持ち、メキシコ湾に臨むモーガンシティには50機ほどのヘリコプターが並ぶ巨大ヘリポートを擁する。

 

常に先をゆく経営意欲

 私は、かつて、これらの整備基地と運航基地を何度も訪ね、ヘリコプターの運航や営業や経営について故サッグス社長の教えを受けた。初めて訪ねたのは1962年秋だったか、朝日ヘリコプターがシコルスキーS-58による山岳地の建設資材輸送を始めた頃で、アメリカの航空雑誌を読んでいてPHIもS-58で物輸をしていることを知ったからである。

 当時の小林末二郎部長(のち常務)のお供をして、S-58がどんな風に作業をしているのか見たいと思ったが、その物輸は南米の作業で、すでに終わっていた。その代りメキシコ湾の海上何十キロかの掘削リグまで救命胴衣をつけてベル47で飛ぶなど、当時としては思いがけず石油開発(オフショア)の実地を見学することができた。

 この作業には季節変動がなく、原則として一定地域を定期的に飛ぶ人員輸送だから、経営的には安定した収入が得られる。われわれもぜひ同じようなことを手がけたいと思ったものである。

 もうひとつ小林部長は、PHIがベル47のフランクリンやライカミングといったピストン・エンジンを自分の手でオーバホールし、コストダウンをはかっているのを見て、わが社でも自社整備が必要であることを感得した。それが何年かたって自社オーバホールの実現につながったのである。

 1966年初め2度目の訪問をしたときは、すでに65機のヘリコプターがPHIで飛んでいた。そのときは尾崎稲穂専務(のち社長)のお供だったが、ベル47ばかりでなくシコルスキーS-62やベル204Bといったタービン機を擁し、われわれも同じ機材を持っていたので大いに話が合った。

 けれども再び差をつけられたのは、彼らがIBMの大型コンピューターを導入し、機体の飛行時間管理、重要装備品のタイム・コントロール、予備部品のストック・コントロールなどをしていたことである。日本ではまだ電子計算機と呼んでいた頃で、ごく一部の大企業だけがもてる贅沢なビジネス・マシンであった。

 私は、細長いテープや色ちがいのカードが大きな機械から吐き出されてくるのを見て非常にうらやましく、サッグス社長に「うちも、これを使いたい」と言ったところ「きみのところは何機飛ばしているのか」と訊かれた。「30機」と答えると、「まだ早い。50機を超えたら使えばいい」。

 そのうえ当時からPHIは一機当たり年間900時間という大変な飛行実績を上げていた。それにくらべて、こちらの平均は3分の1程度だったし、電子計算機はヘリコプターよりも高い買い物だった。

 

ワンマン社長亡きあと  

 サッグス社長が亡くなったのは1989年。そのとき私は本紙に追悼文を書いて、そのコピーを未亡人に送った。「うちには日本人のパイロットもいるので、その人に訳して貰います」というような返事がキャロル夫人からきたが、その行間にはヘリコプター界の大ボスでもあった社長を亡くして、先行き心細い感じがないでもなかった。

 けれども10年が経過して、PHIは現在ヘリコプター300機以上、パイロット700人、整備士850人、医療関係者228人、それに営業、運航管理、経理、人事などに400人が働いている。売上高は1998年4月末までの年度で2億3,880万ドル。前年比12.4%の増収という隆盛ぶりである。

 しかし、この10年間、PHIの歩んだ道は決して平坦ではなかった。最大の問題は事業の基盤となる石油開発が下火になったこと。最近の『ローター・アンド・ウィング』誌によると10年前のPHIは収入源の84%が石油開発の支援作業であった。それが現在は76%に減ったという。けれども、かつては皆無だった救急飛行が残りの大半を占めるようになった。これがサッグス夫人の切り開いたPHIの新しい事業分野である。医師、看護婦、パラメディックを含む医療関係者が200人以上いるのも、そのためであった。

 同じ雑誌の中で夫人は次のように語っている。

「ヘリコプター事業というのは男の仕事です。ボブが急逝したとき、経営陣はもちろん、管理職の中にも女性はひとりもいませんでした。しかも彼はワンマン経営をしていましたから、女の私は正直言って会社のこともヘリコプターのことも何にも知りませんでした。

 最初の2年間は当時の重役の方々に経営を見て貰いました。ところが、そのうちに亡くなったり、引退したり、病気になったりして、主立った人は誰もいなくなってしまったのです。その一方でオフショア作業は下火になり、PHIの経営も危機的な様相を呈してきました。

 多くの人が、さしものPHIもこれで終わりだと思ったでしょう。けれども私は何とかなることを信じて1990年、責任ある地位につき、若い人たちとチームを組んでやりはじめました。ときにはボブが生きていればと思ったこともありましたが、私たちのチーム力は業界最強であり、今では一応の成功だと思っています」

 救急患者搬送も、石油開発を支援してきたPHIにとって決して目新しい仕事ではない。「だって私たちは海上プラットフォームから急病人や怪我人を50年間も運んできたんですもの」とキャロル夫人はいう。「今やヘリコプターはアメリカの健康医療システムの中で欠くべからざる要素になってきました」

 ここでもまたPHIは、われわれの先を進んでいることを知らされるのである。それでいて、無論オフショア需要をあきらめているわけではない。作業量が減ったといっても、米国内の石油開発市場におけるシェアは今なお49%を占めているし、キャロル夫人はその先をきちんと読んでいる。

「もう一年半も待てば、メキシコ湾の原油価格も持ち直すでしょう。そのときは再びオフショア作業も活発になるでしょう」と。

 紙上を借りて創立五十周年のお祝いを申し上げたい。

(『日本航空新聞』、99年2月25日付掲載)

【後記】

 PHIの50周年記念の祝賀は2月19日、ラファイエット空港にある同社の格納庫でおこなわれたとのこと。世界中のメーカーや運航会社など、1,000人のヘリコプター関係者が集まって、多数の祝辞と共に式典が進められた。前の晩にはラファイエット最大のホテルで盛大なパーティも開かれたよしである。

 私は上の文章を書いて、その掲載紙をPHIに送ったところ、数日後にサッグス夫人から婦人用の小さい便箋にしたためた礼状が届いた。その要旨は次のようなものである。

「私どもの50周年記念の行事にお出でいただけなくて残念でした。当日は非常に天気が良く、きっと楽しんでいただけたものと存じます。私自身もこの会社の一員であることを誇りに感じました。

 ところで、新聞にお書きいただいた記事は、当社の日本人パイロット、サトル・テシロギさんに翻訳をお願いしました。何が書いてあるのか楽しみでもあり、怖くもあります。翻訳ができましたら額縁に入れて、新らしくつくった当社の『50周年記念ショーケース』に飾っておこうと思います。そうすれば会社の誰でも見ることができますから」

 なんだか、こちらの方が怖くなってきた。

(西川渉、99.4.3)

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