本頁の宣伝とトラトラトラ

 

 このあいだ本頁を見たという人から「こんなに大量の文書を書くのは大変でしょう。ほかのことは何にもできませんね」といわれた。

 私はあわてて手を振り、もちろんホームページの制作には相当な時間を取られるけれども、「だからといって本職を忘れているわけではありませんよ」と答えた。事実、この2か月ほどは気が狂いそうに忙しく、本頁に手を加える暇はほとんどなかった。今日の更改も4月29日以来、半月余りのことである。

 ちなみにNASAはホームページ作成のために200人のスタッフをかかえていると聞いた。最新の情報を連日発信しつづけるには、そのくらいのマンパワーが要るらしい。こちらは、それに1人で対抗しようというわけである。

 最近の私は、勤務先の仕事はもとより、依頼原稿も講演もインターネットも、いろいろと忙しいことではあるが、会社の帰りにお酒を飲んで遅くなるようなことが少なくなった。昔は週のうちに真っ直ぐ帰るのが1日くらいだったけれども、今は逆で遅くなるのが1日程度。それに年を取れば睡眠時間も少なくてすむ。またゴルフなんぞはやったことがないから、休日は一歩も家から出ない。早朝から深夜まで石のようにパソコンの前に坐りこんでいれば、質的にはともかく量的には相当なことができるのである。その結果が本頁になったわけで、まずは誤解なきように願っておきたい。

 ところで、自分のことを自分で自慢したり宣伝するのは、本当はどうかと思うし、「人格を疑われますよ」というのが家人の忠告だが、これはまあ趣味の宣伝である。何も仕事の上の手柄話をしようというのではない。それにホームページの作成マニュアルを読むと、どの本にも必ず宣伝をするようにと書いてある。そこでしばらくご寛恕を願って、ここに本頁の宣伝をさせていただくことにしたい。

 それは、もはや3か月も前のこと。元朝日新聞編集委員をしておられた岡並木氏が『CAR AND DRIVER』誌(2月26日号)の「岡並木のFORUM」というコラム頁に次のような文章を書いてくださった。

 今年の正月、本頁に掲載した私の電子賀状を見ていただいたらしく、そのときのご感想である。この賀状は松の内の半月くらいしか掲載しなかったので、今では見ていただくわけにはいかないが、岡さんは次のように書いておられる。ただし一部は省略させていただき、省略部分は点々(……)で表示した。

 ……インターネットに「航空の現代」というホームページを開いている西川渉さんの電子賀状が面白かった。……松飾りの絵のつぎに虎の顔の見事な写真……さらにその先で、日本軍の真珠湾攻撃に使われた電報「トラトラトラ」に触れている。これは当時、真珠湾上空から祖国に「われ奇襲に成功せり」を伝えた有名な暗号電報だ。「なぜトラという言葉をもってきたのか」と西川さんはいう。開戦の1941年は寅年ではなかった。

 西川さんによると「全軍攻撃せよ」の暗号が「ト、ト、ト」だった。それに「ラ」をつけて「トラ」?。「識者の方に教えていただきたい」と西川さんは頼んでいる。

 西川さんのページには、航空界の情報がきちんと整理され、日本では珍しい読み応えのあるホームページの一つになっている。この宝庫には、98年1月上旬現在112項目が入っており、そのうち18項目が救急ヘリの重要さについての情報だ。

 日本で97年に交通事故で亡くなった人は9,640人だった。最も死者が多かった1970年の16,765人に比べれば、かなり減ったとも考えられる。しかし一番減った79年は、去年より千人以上少ない8,466人だった。だが、79年以降また事故死は増え初め、1万人前後に戻ってしまった。

 ……日本のこの傾向とは、まったく逆の軌跡を描いてきたのがドイツ(西)だ。ドイツの死者も最高の年は、日本と同じ1970年。しかも人口は日本の半分以下なのに、死者は19,193人で、日本のそれをはるかに上回っていた。そして日本は9年で半減したのだが、ドイツはなかなか減る気配を見せなかった。

 ところが、ドイツの死者は15年経った1985年、突如11,500人になった。40%減である。87年には60%原、95年には70%減の5,800人、と着実に減りだした。対症療法でとりあえず減らした日本と、原因療法に時間をかけたドイツとの姿勢の違いだ、と僕は書いた。そしてドイツの原因療法の一つとして、医師の乗り込んだ救急ヘリコプターを、事故発生から6分以内で現場に降ろせるようになった救急体制を挙げた。つまり日本では亡くなってしまう人が、ドイツでは生き残れるようになったということなのだ。

 西川さんのホームページを読むと、ドイツだけではなく、アメリカでもフランスでもイギリスでも、かなり前から救急ヘリ体制は、自動車と暮らす社会の必需システムになっていることがよく分かる。……

 以上が岡並木さんの「交通死者減少のための救急ヘリの重要性を再度考えたい」というコラムの一部である。救急ヘリコプターの問題は本頁のほかのところを見ていただくとして、前半の「トラトラトラ」の部分である。

 さすがに『CAR AND DRIVER』誌と岡並木氏の影響力は大きく、この雑誌が発売されて間もなく、見知らぬ人からEメールを受け取った。「トラトラトラ」の意味を教えて上げましょうというもので、私はすぐ、そのコピーを岡さんに転送した。すると1か月ほどして再び「岡並木のFORUM」に「トラトラトラの暗号は“突入せよ雷撃機”の意味だった」という次のような一文があらわれたのである。

 

  ……西川さんのもとにさっそく「ラ」の字の納得のいく説明が届いた。福岡県大野城市の繁田哲哉さんという方からの電子メールだった。西川さんは、その便りを僕にも回してくれた。「胸のつかえが下りたような気がしました」と添え書きがあった。繁田さんのメールを読んで、僕も目からウロコの落ちる思いだった。繁田さんのメールはこうだ。

『トラのトは「突撃せよ」、ラは「雷撃機」を意味します。トラとは「突入せよ、雷撃機」の意味符号です。(重い魚雷を抱える)雷撃機は戦闘能力が劣るため、敵の迎撃準備が完了している状態では十分な力を発揮できません』

「突入せよ、雷撃機」と発信できたのは、戦闘能力に優れた攻撃機による第一次の奇襲攻撃で敵の迎撃能力を封じ込めることに成功したからだった、と繁田さんはいう。

 太平洋戦史では「トラトラトラ」は第1次攻撃指揮官だった淵田美津雄中佐がハワイ上空から空母「赤城」に打電したことになっている。しかし、その「トラトラトラ」を、私たちは……単に「奇襲成功せり」の暗号だと思い込まされてきた。

 繁田さんんは、最後にこう書いている。『この話は高校時代に担任の先生から聞きました。先生は若いころ海軍で情報機器を担当していたとのことで、授業時間の半分は海軍の飛行機の構造やレーダーの仕組みなど、当時の話を聞かされました。すでに退職されて連絡先も不明なため確認は取れませんが、熱心に説明してくれたので、覚えています』

 ……


(近江神宮)

 岡さんのコラムはまだまだ続くが、あとは省略させていただくことにして、実はまだ後日談がある。というのは、このコラム頁を私の友人の1人が読んでいて、連絡をしてきたところによると大阪の実家の隣に淵田美津雄中佐の甥御さんが住んでいるという。自分はいま広島にいるが、お盆にでも戻ったときはこの頁を甥御さんに見せようと思っているとのことだった。

 そうすると、暗号の真相がもっとはっきり裏付けられるかもしれない。というのは、この暗号にはどうやら別の解釈もあるらしいからで、その一つは最近見つけたものである。

 それは、滋賀県の「志賀」という雑誌の平成2年号に御創建50周年を迎えた近江神宮の歴史が書いてあったので、それを読んでいたときのことである。近江神宮は天智天皇を御祭神とする官幣大社として昭和15年に創建された。私の母方の祖父、平田貫一はその当初から昭和40年まで宮司を勤めたので、そのあたりのことを読んでいたのである。

 その中で、「歌は世につれ」の筆者、村瀬仁市氏が次のように書いておられた。

『昭和16年12月8日「ニイタカヤマノボレ1208(ヒトフタマルハチ)」の電文が山本五十六連合艦隊司令長官から打電され、真珠湾奇襲に成功した。そして「トラトラトラ」の暗号が打電された。(トラトラトラは千里征って帰る虎になぞらえた“われ奇襲に成功せり”の意味であった)。こうして日本は太平洋戦争に突入した。近江神宮はこのような激動の中で「必勝を祈願して」御創建されたのである』

 もちろん、ここで村瀬氏が書いておられるのは、暗号の成り立ちではない。けれどもトラという2文字をひとつの単語として見ている点が、先の繁田氏のトとラに分ける成り立ちとは全く異なる。そこに注目しておく必要がありはせぬかと思うのである。

(西川渉、98.5.16)

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