ユーロコプター

ピューマ/スーパーピューマ

 

 おととい(1月23日)、ヘリコプター技術協会(アメリカ・ヘリコプター協会日本支部)の主催で、陸上自衛隊木更津基地を見学し、東京湾上空をCH-47チヌークで飛ぶ機会が与えられた。このとき基地内で、われわれのために展示された機体の中に政府専用機スーパーピューマ「かもめ」号があった。

 VIP専用機の実機を見るのは、私にとって初めてのことで、キャビンは前方の4席が大きくてゆったりしたVIP席、後方の前向き8席が随員席になっている。VIP用4席は向かい合っていて、その中の右舷窓側前向きの席が「ナンバーワン・シート」と呼ばれる位置で、昭和天皇もここにお乗りになった由。

 しかも、昭和天皇は3回VIP専用機にお乗りになったが、3機のVIP機の中から1回ごとに機体を変えたために、全機にお乗りになったことになる。つまり3機の全てがお召し機の栄誉を受けたわけで、各機の整備責任者(機付長)の喜びは平等に分かち合えたことになる。説明に当たった隊員も、まことに誇らしげであった。

昭和天皇の「お召し機」

 10年ほど前だったか、まだ昭和天皇ご在位の当時、NHKテレビでヘリコプターの話をすることになった。そのとき、ヘリコプターは安全かつ安定した乗り物であることの例証として、天皇陛下だってお乗りになると言えば視聴者の印象に残るかと思った。そこで番組前のリハーサルでそう言ったところ、プロデューサーから耳打ちがあって、本番では言わないで欲しいという注文がついた。陛下をヘリコプターの宣伝に使うのはよくないというのである。

 もちろん私にそんな畏れおおい気持はなかったし、内心いささか不満であった。けれども本番の時間が迫っている中で、NHKを相手に天皇論を展開するような自信はなかったので、本番では天皇という言葉はいっさい口にしなかった。なんだか残念なような気もするが、あの当時、昭和天皇はヘリコプターで大島までの海を渡られ、那須の御用邸から東京までの往復にヘリコプターをお使いになったのは事実である。そのお召し列車ならぬ「お召し機」となったのが、ここにご紹介するスーパーピューマであった。

 この大型ヘリコプターを日本政府が政府専用機としてフランスから購入したのは1986年のことである。当時、どういう問題が懸念されたかは知らないが、機体は総理府の所属とし、パイロットや整備士は陸上自衛隊から総理府に出向して、自衛隊機ではなくて民間機として飛行することになった。

 初代航空隊長は現ソニー・トレーディングの星野亮氏。昭和62年(1987年)6月22日、星野機長が初めて、伊豆大島行幸に向かわれる昭和天皇をおのせして下田の臨時ヘリポートから飛び立つところをテレビ・ニュースで見て、私は感慨を覚えた。これでヘリコプターも、日本人にとって普通の乗り物になったと思ったからである。このとき陛下は三原山噴火の跡を上空からご覧になり、大島空港に降り立たれたのであった。

 もとより外国では、アメリカの大統領やイギリスの女王など、多くの元首が昔からヘリコプターで飛んでいた。しかし日本では長くそういうことがなく、かねて残念に思っていたのである。

 昭和天皇が初めてヘリコプターをご体験になったご感想はどうだったか。飛行中わざわざコクピットまでお出ましになり、機長の背後から計器パネルをご興味深げにご覧になったということを聞いたことがある。また『昭和天皇ちょっといいお話』(松崎敏弥著、ごま書房)には次のように記されている。

「初めて乗ってみたが、どちらも思ったより乗り心地がよかった。ヘリコプターは高度が低いので、災害の状況がよくわかり、大変よかった」

 ここに「どちらも」とあるのは、伊豆大島のご視察には往路がヘリコプター、帰路が高速船と、両方が使われたからである。そして大島をヘリコプターからご覧になったときのご感想は、次の通りであった。

「島の上空から、また山頂近くで災害の状況を目のあたりに見て、当時島民が大変な目にあったことがよくわかった。ただ思ったより緑が残っていたので安心した」

 もっとも、この本の注釈に「政府専用ヘリコプター、スーパービュアー」と書いてあるのはどうした間違いか。再版のときは訂正していただきたい。

 いま3機の政府専用機は民間機から自衛隊機に戻され、木更津基地にあって日本の閣僚や外国からの賓客の送迎に使われている。この10年間のVIP乗用機としての実績は、導入当時の中曽根首相を初めとする歴代総理大臣と閣僚、ならびにフランス、イギリス、イタリア、オランダなど各国の大統領や首相など、おびただしい要人輸送に当たっている。

タービン・エンジンの効用

 スーパーピューマの前身、SA330ピューマの開発がはじまったのは1960年代初期のことであった。当時のシュド・アビアシオン社がフランス陸軍の要求に応じて開発に着手したものである。

 これより先の1957年、いくつかの航空機メーカーが合併してシュド社が発足した。同社は1969年にはノール社と一緒になってアエロスパシアル社と名乗るようになり、1992年にはヘリコプター部門が分離してドイツのMBB社と合併し、今のユーロコプター社が誕生した。

 この間、同社でつくられたヘリコプターと、その初飛行の日は表1の通りである。筆頭のジンは最大2人乗りの小型機で、圧縮ガスをブレード先端から噴射してローターを駆動する方式であったが、空気圧縮のための動力はタービン・エンジンであった。したがって、この表に掲げたフランス製の実用ヘリコプターはすべてタービン機ばかりであるところが大きな特徴といえよう。

 

表1 ユーロコプター機の初飛行年月日

機     種

初飛行年月日

ジン 

1953年1月2日

アルウェットU

1955年3月12日

アルウェットV

1959年2月28日

スーパーフルロン

1962年12月7日

ピューマ

1965年4月15日

ガゼル

1968年4月12日

ラマ

1969年3月17日

ドーファン

1972年6月2日

エキュレイユ

1974年6月27日

ドーファン

1975年1月24日

スーパーピューマ

1978年9月13日

AS355ツインスター

1979年9月27日

 タービン・エンジンがヘリコプターにとって画期的な性能向上をもたらしたことはいうまでもない。タービン・エンジンを採用したジンは軽快な飛行性能をもち、1959年までに150機が生産された。また本格的な小型タービン機となったアルウェットUは1975年まで1,305機が生産された。いずれも予想外の売れゆきで、ヘリコプター史上大きな足跡を残した。

 この両機が実証したことは、小型、軽量、強力なタービン・エンジンの導入によって、ヘリコプターの飛行性能が大きく向上するということである。そのうえエンジンの整備作業は簡便になり、アルウェットUに使われたアルツーストUやアスタズーUといったチュルボメカ社のエンジンは飛行中の故障率が低く、後者は燃費も少なかった。

 フランスのヘリコプターは、このように当初からタービン・エンジンを採用してきたが、小型機だけに集中したわけではない。1962年に飛んだスーパーフルロンは兵員30人乗りの大型3発機である。同機は、エンジン3基のうち2発または3発が同時に停まってオートローテイションに入る確率がきわめて低いということから、ローター直径を小さくしてブレード数を6枚に増やした結果、エンジン3基の高出力とも相まって高速飛行性能を有するに至った。事実、初飛行から半年余りで350km/hという速度記録をつくっている。

SA330ピューマの開発

 これらの実績を踏まえ、技術的な成果を採り入れて開発されたのがSA330ピューマである。フランス陸軍の要求は侵攻と兵たん輸送を目的とする新しい戦術輸送用ヘリコプターだ。設計仕様はすぐれた飛行性能を持ち、全天候飛行が可能で、武装兵員12人を搭載できることというもの。また熱帯性気候で標高1,500mという高温・高地で地面効果外のホバリングができること。巡航速度は250km/hという条件もついた。

 原型機の初飛行は1965年4月15日。のちに原型2号機も製作され、さらに6機の前量産型がつくられた。

 機体形状は、当時量産中のスーパーフルロン大型3発ヘリコプターに近く、エンジン2基が胴体上部に取りつけられ、5枚ブレードの尾部ローターがついていた。全関節型の主ローターは押し出し成形のアルミ・ブレードである。

 主キャビンは長さ6m、高さ1.5m、幅1.8mと大きく、搭載量は兵員16〜20人または貨物2.5トンで、機外吊り下げ容量は3トン。3つの車輪は油圧によって引っ込み、その分だけ有害抵抗が減少して高速飛行性能が実現した。

 フランス陸軍は、このヘリコプターにSA330Hと名付け、最終的に140機を調達した。量産が始まったのは1968年9月、実用化されたのは1970年6月であった。のちにフランス空軍も9機を発注している。

 1967年にはイギリス空軍も戦術輸送機としてSA330を選定、40機を発注した。その結果、翌年には英仏間で共同生産することになり、ウェストランド社が機体部品の3割をつくり、英空軍向けの機体については最終組立をおこなうことになった。

 また同機のチュルモ・エンジンもチュルボメカと半々でロールスロイス社がつくることになった。当初はチュルモVC4(1,328shp)だったが、のちにチュルモWC(1,575shp)に発展した。

 イギリス製のピューマはSA330EピューマHC Mk.1と名付けられ、1970年11月25日に初飛行、翌年から第33飛行中隊で実戦配備についた。72年には第230飛行中隊も編成されている。

 英仏以外でも、ピューマ軍用機を採用した国は少なくない。アルジェリア、チリ、ポルトガル、南アフリカ、ベルギー、アブダビ、象牙海岸、ザイールなどで、これらの輸出型はSA330CおよびHと呼ばれ、エンジンはそれぞれチュルモWB(1,400shp)またはチュルモWC(1,575shp)が2基であった。輸出数はおよそ300機になる。

 なお軍用機としてのSA330は、兵員輸送を基本任務としながら、火器の装備も可能であった。その種類は20mmキャノン砲、7.62mmマシンガン2挺、胴体左右のワイヤ誘導の空対地ミサイル、またはロケット弾などがある。

民間型ピューマの誕生

 民間型ピューマは、まずSA330Fがつくられた。1969年9月26日にチュルボメカ・チュルモWA(1,435shp)を装備した量産型が初飛行、その翌年に型式証明を取得した。このとき同機は、総重量が6,400kgだったが、やがて6,700kgに増加、さらに7,000kgまで増え、最終的にはファイバーグラスのブレードを取りつけて7,500kgまで増加した。

 こうした重量増加によって搭載量が増え、飛行性能も向上すると共に、オーバホール間隔が伸びて、ピューマは民間市場でも魅力ある航空機となった。のちにチュルモWCを装備した330Gも実現した。これらの民間型は主に海洋石油開発(オフショア)支援機として、北海などの長距離飛行が必要な海域で、多くのヘリコプター会社が使用した。

 やがてピューマは、量産機の改良がすすみ、速度性能や航続性能も向上した。当初は重量の増加によって、速度はむしろ落ち気味であったが、グラスファイバー・ブレードに改められると見違えるような飛行性能を取り戻した。

 というのは、グラスファイバーはブレードの翼型やひねりの成形を連続的に変化させるという複雑な加工が可能であり、最良の形状を実現することができるからである。そのため巡航速度は当初の214km/hから260km/hへ大きく向上した。また同じ500km区間を飛ぶのに、ペイロードは1,500kgから2,450kgまで増加した。

 さらに重要装備品の耐用時間が伸びて、運航コストも削減されることになった。これが1976年から量産に入った民間型SA330Jと軍用型SA330Lである。エンジンは両機ともチュルモWCエンジン(1,580shp)で、主ローター・ブレードは複合材製に変わった。

 のちに330Jは全天候飛行を認められた。ローターブレードと空気取り入れ口に氷結防止装置を取りつけ、氷結気象状態でも飛行可能となった。

 SA330ピューマの生産は、フランスでは10年以上にわたって続き、1980年に総数686機をもって終了した。ほかにルーマニアとインドネシアでも合わせて100機以上のライセンス生産がおこなわれた。

次世代機AS332へ発展

 こうしたSA330ピューマの経験と実績にもとづいて、アエロスパシアル社が次世代の発展型を構想するようになったのは1970年代なかばである。

 まず尾部ローターをフェネストロンに改めることとし、それを取りつけた330Zの試験飛行がおこなわれたが、のちにフェネストロンは廃案となった。

 つづいて1977年9月、既存のピューマを改造したSA331が初飛行した。チュルボメカ・マキラ・エンジン(1,800shp)2基を装備、キャビンが大きくなって、改良型のグラスファイバー・ブレードを取りつけ、トランスミッションも新しく強化されていた。

 この試験飛行にもとづいて、SA332と名づけられた新しい1号機が初飛行したのは1978年9月13日。前身の330や331にくらべて大幅に改造の手が加えられ、ペイロードが増加し、飛行性能が向上し、生存性が高まり、整備費がかからないようになっていた。

 こうした変化の中には降着装置の改良も含まれ、主車輪の左右間隔や、前輪との間の間隔も広くなり、設置のときの衝撃がやわらげられた。また機首が長く延びて、主ローターや尾部ローターの効率も良くなった。燃料搭載量も増加、垂直尾翼や水平尾翼も改善されて、操縦特性が改善された。

 332の原型機は6機製作されたが、1980年に完成した4号機はキャビンが0.76m長くなり、窓が2つ加えられ、客席数が3席増加した。このSA332スーパーピューマが型式証明を取得したのは1981年3月のことである。

 以来15年ほどの間に、SA332大型ヘリコプターの呼称は民間型のAS332スーパーピューマと軍用型AS532クーガーに変わり、多数の派生型を輩出させるに至った。

 当初のAS332Bは標準型の軍用機で、完全武装兵員21人乗り。アブダビ、アルジェンチン、チリ、スペインなどへへ輸出された。AS332Fは海軍向けの機体である。対艦用のAM39エグゾセ・ミサイル2基またはAS15TTミサイル6基胴体両側に装着、索敵レーダー、ソナー、ソノブイ、機雷掃海MADなどを装備、ローターと尾部の自動折りたたみも可能であった。

 それに対して、胴体を0.76m延ばしたストレッチ型が軍用輸送用の332Mである。同機は兵員25人乗り、機外吊り下げ容量は最大4.5トンに達する。なお軍用型332は1990年からクーガーと呼ばれるようになった。

 一方、これらの軍用型に対する民間型332は、332Bに相当する332C、胴体延長型の332Mに相当する332Lが生まれた。332Lは特に長距離の海洋石油開発の人員輸送に使われるものが多く、1983年7月7日には計器飛行の承認を受け、既知の氷結気象状態の中でも飛べるようになった。

 1984年現在、北海では主要ヘリコプター会社の6社が使っていた。うちブリストウ・ヘリコプター社は34機を保有、通常の332Lとはやや異なる装備をしてタイガーという呼称で運航している。

さまざまな派生型

 AS332は、その後さらに多くの派生型に発展した。民間型ではAS332L1が生まれた。これは標準型Mk1の民間型で、ストレッチ型の胴体を有し、旅客機同様の座席配置で乗客20人をのせることができる。

 次のAS332L2スーパーピューマMkUはL1にくらべて、さらに胴体が延び、ローター・ブレードも長くなって、スフェリフレックス・ローターヘッドをもつ。エンジン出力も大きくなった。またコクピットにはEFIS(Electronic Flight Instrument System:電子飛行計器表示装置)がつき、HUMS(Helth and Usage Monitoring System:振動解析診断装置)や4軸の自動操縦装置などが装備されている。

 軍用型のAS532UCクーガーは短胴の多用途機。火器の装備はなく、乗員2人のほか兵員21人をのせることができる。キャビン床面は強化されていて、重量物の運搬も可能。

 AS532ULクーガーはストレッチ型の軍用輸送機。UCにくらべて、キャビンは0.76m長く、燃料搭載量が増加した。乗員2人のほか兵員25人の搭載が可能。フランス陸軍は、これをAS532Mと呼んでいる。これらの軍用2機種に火器装備を取りつけたのがAS532ACクーガーとAS532ALクーガーである。

 またAS532SCは海軍の短胴型Mk1で、ASW/ASVを搭載。尾部ローター・パイロンと主ローターの折りたたみができる。せまい船の甲板に着艦するときの固定用ハープーン(もり)を装備している。

 AS532ULホライゾンは戦場監視レーダーを装備する機体である。このコンセプトは1986年、330Bにレーダーをつけて実験飛行がはじまった。ヘリコプターにレーダーを装備して戦場を監視するという試みはこれが初めてで、敵の第一線よりも後方100km奥まで見通すことができた。その時点でフランス陸軍は20機を調達する予定で原型機を製造、1990年6月に初飛行した。しかし予算の関係で90年8月に計画は断念された。

 ところが、この原型機は1991年2月、湾岸戦争に派遣されてホーラス作戦に参加、24回の飛行でみごとな成果をあげた。その結果、1992年10月2機のAS532ULホライゾンが発注された。1号機は同年12月に初飛行し、94年4月2機がフランス陸軍へ引渡された。陸軍としては最終的に6機の調達を予定している。

 AS532U2およびA2クーガーMkUは、民間型の332L2に相当するもので、胴体が延び、ローター直径が大きくなって、エンジン出力が強化されている。532U2は火器武装のない輸送用で、乗員2人のほかに兵員29人の搭載が可能。また532A2は陸軍および空軍向けの火器装備機である。

 以上のようなSA330とAS332の25年にわたる発展の跡をもう一度整理すると表2のようになる。これは民間型を中心とするデータだが、各型の型式証明取得の時期を見ると5〜6年ごとに新たな発展を遂げてきたことが分かる。

 エンジン出力は、SA330Fの1,435shpからAS332L-2の1,841shpまで3割近く増加し、ローター直径も大きくなった。これに伴い最大離陸重量が3トン近く増加、カーゴスリングの容量も2トン増となって、機外吊り下げ時の総重量は330Fの7トンから332L-2の10トンまで増加した。機内の客席数も、胴体が延びて最大24席まで7席増となっている。

 さらに、数量的なことばかりではなく、質的な進歩改善もなされた。たとえば主ローター・ヘッドにはスフェリフレックス構造が採用され、ブレードの材質は金属製から複合材に変わった。これで飛行性能が伸びたばかりでなく、電子機器の進歩によって計器飛行が可能になり、氷結気象状態でも飛べるようになった。

 また重要装備品や部品類の耐用時間が延びて整備費が下がり、経済性が高まっている。

 

表2 330/332の25年間の発展

   

330F

330J

332L

332L-1

332L-2

型式証明取得

1970年10月

1976年

1981年12月

1986年

1992年4月

エンジン出力

1,435shp×2

1,575shp×2

1,700shp×2

1,819shp×2

1,841shp×2

ローター直径

15.00m

15.00m

15.58m

15.60m

16.20m

最大離陸重量

6,400kg

7,400kg

8,350kg

8,600kg

9,300kg

機外吊下総重量

7,000kg

7,500kg

9,350kg

9,350kg

10,000kg

機外吊下容量

2,500kg

3,200kg

4,500kg

4,500kg

4,500kg

客席数

17席

17席

20席

24席

24席

 

最新型MkUの主な特徴

 では、最新のユーロコプターAS332L2スーパーピューマMkUおよびAS532クーガーMkUについて、主要な特徴を見てゆくことにしよう。

 原型機は1987年2月6日に初飛行した。民間型L2は1992年4月2日に型式証明を取得、1993年夏から引渡しがはじまった。引渡し先は、民間型が英ブリストウ・ヘリコプター社、ノルウェーのヘリコプター・サービス社など。軍用型532U2がオランダ空軍やトルコ政府軍などである。

 胴体はセミモノコック構造。全体の構造は、最前方にコクピットがあり、後方へ向かって中央胴体、テールブーム、パイロンと続き、胴体中央部の上にエンジン、トランスミッション、主ローターがつき、胴体床下には燃料タンクがある。また左右に張り出したフェアリングに包まれるようにして主脚がつき、飛行中はこの中へ半分引き込まれる。前輪はコクピットの下にあって、完全に引込められる。

 また主胴体とテールブームの間には中間構造部分があり、その下面は大きなハッチになっていて、ここから荷物の積み卸しができる。さらにテールブーム付け根の部分には手荷物室がある。なお主ローターおよび尾部ローターの各ブレード、中間構造部、キャビンドア、カウリングなど、本機には複合材が多用されている。

 胴体は、MkTにくらべてキャビンを0.55cm引き延ばし、最後部には大きな窓が取りつけられた。主ローターはスフェリフレックス・ヘッドを採用、ブレードが長くなって、先端は放物線状に削られている。胴体左右の複合材製スポンソンは大きくなって、燃料、ライフラフト、エアコン装置、緊急用フロートを内蔵する。

 最大離陸重量は民間型AS332L2が9,300kgで、L1の8,600kgから大きく増加、軍用型AS532U2も9,750kgまで増加した。機外吊り下げ時の総重量は民間機も軍用機も10,000kgに達する。これで本機は10トン級のヘリコプターと呼ばれるようになった。またカーゴスリングの吊り上げ容量はいずれも最大4.5トンである。

 エンジンはコクピット上の空気取入れ口の背後に2基のチュルボメカ・マキラ1A2が左右並行に取りつけられている。片発停止時(OEI)の緊急出力は30秒間で2,109shp、2分間で1,967shpと、MkTのマキラ1A1にくらべて12%増となった。離陸出力は1,845shp、最大連続出力は1,657shpである。

 エンジンからの出力は機体中央部に位置するトランスミッションに入り、そこからローターマストへ伝達され、主ローターを駆動する。トランスミッションの出力吸収能力は最大3,229shp、連続2,084shpだが、緊急時には20秒間だけ3,552shpの吸収能力を発揮する。

 なおトランスミッションは整備作業が簡便にできるよう、モジュール構造になっている。またトランスミッションの一部を初め、多くの重要装備品に耐用時間の制限がなく、ほとんどがオンコン整備でおこなわれう。

 燃料搭載量はキャビン床下の標準タンク容量が2,020リッター。補助タンクはカーゴフック室に324リッター、左右のスポンソンに325リッターずつ、キャビン・タンクに600リッターのほか、長距離空輸用のタンク475リッターを最大5個までキャビンに搭載することができる。

 機内は操縦席が2席で、操縦系統には4軸のディジタル自動操縦装置が組みこまれている。民間機としてカテゴリーBの飛行をするときはパイロット1人でも操縦可能。またカテゴリーAの飛行には副操縦士が必要になり、計器飛行には有資格者2人が必要。また防氷装備があれば、氷結気象状態の中でも飛ぶことができる。

 客席は最大24席で、ほかに客室乗務員1人分の座席がある。救急機としてはドクター1人分の席のほかにストレッチャー6人分と看護員、座席利用のできる患者、付添い、看護婦などの座席10人分がつく。

 軍用機としては有視界飛行でパイロット1人、計器飛行でパイロット2人が乗組む。兵員搭載量は最大28人。ほかにVIP乗用機として8〜15席としたり、患者輸送のためのストレッチャー12人分の搭載が可能。またレスキュー・ウィンチも装着できる。

 降着装置は前輪式の3車輪。主脚はタイヤが一つでスポンソンの中に半分引き込まれ、ブレーキがついている。前輪はタイヤが2つで、前方胴体の中に完全に引き込まれる。

北海を飛ぶブリストウ・タイガー

 こうしたスーパーピューマは、どのような用途に使われているのだろうか。民間用途としては、機内搭載輸送、機外吊り下げ輸送、捜索救難および救急、そしてVIP輸送などが多い。たとえば北海などの沖合い遠くでおこなわれている海洋石油開発の支援では、長距離の人員輸送に使われている。またジャングルの中の油田開発では巨大な石油掘削装置の吊り下げ輸送に当たっている。 その中から北海の石油開発のもようを見ると、この広大な海域で最も多くのピューマ機を運航しているのは英ブリストウ・ヘリコプター社である。

 北海の石油開発が本格化したのは1960年代のなかばであった。当時、海上の石油掘削リグにヘリコプターを飛ばしていたのは英国の2社、ブリティッシュ・ヨーロッパ航空(BEA)とブリストウ・ヘリコプター社だけであった。BEAはのちに、英国航空ヘリコプター事業部となり、現在はブリティッシュ・インターナショナル・ヘリコプター社として独立している。

 そこへ、スコティッシュ・ヘリコプター社(今のボンド・ヘリコプター社)、ブリティッシュ・カレドニアン(BCAL)、その他のヘリコプター会社が進出してきた。BCALその他は、のちにブリストウに吸収された。現在、これら英国のヘリコプター運航市場は、ブリストウが65%を占めている。

 ブリストウは1953年に発足、現在およそ200機のヘリコプターと40機の飛行機を世界各地で運航している。本社はレッドヒルにあり、約2,000人の従業員を擁し、その3割がバングラデシュやオーストリアなど、英国外で仕事をしている。

 ブリストウ・ヘリコプター社が北海の石油開発のためにアバディーンから第1便を飛ばしたのは1967年7月であった。当時の使用機種は英ウェストランド社のワールウィンドだが、そのときから北海はブリストウ社にとって最大の仕事場となり、アバディーン空港もブリストウ最大の運航基地となった。

 そればかりでなく、アバディーン自体が世界で最も多くの民間ヘリコプター発着回数を数えるようになった。ピーク時にはブリストウ社だけで1か月に3万人の乗降客を扱ったことがある。いずれも海の上の石油プラットフォームへヘリコプターで飛ぶ石油関係者であった。

 このような運航をするために、ブリストウ社のアバディーン基地には800人を越える従業員が働いている。うち250人がパイロットで、保有機はAS332LMkUが23機、シコルスキーS-61Nが14機、S-76が2機、ベル212が2機、ベル214STが2機。このうちAS332L Mk2は、ほかのスーパーピューマと異なるブリストウ特有の装備をしたもので、タイガーと呼ばれる。

 これらのヘリコプターは人員輸送のためのものであって、石油の掘削に必要な資機材は、緊急用の小さい部品類を除いては、船で運ぶのが原則である。人員だけがヘリコプターで飛ぶといっても、決して贅沢をしているわけではない。海の上の石油掘削現場は工事現場のようなもので、よく怪我人が出る。そんなとき陸地の病院まで船で患者を運んでいたのでは間に合わない。ヘリコプターがなければ命にかかわるようなことにもなりかねない。というので、常にヘリコプターが待機している必要がある。どうせ待機しているならばというので、緊急時だけでなく普段の交替輸送にもヘリコプターを使うようになったのである。実際、船で2〜3時間もかかるところ、ヘリコプターは30分で飛んでしまう。

年間1,000時間の洋上飛行

 そうなると今度は、石油会社からヘリコプター会社への注文もだんだんと厳しくなる。特に安全性、定時性、快適性などの要求が高くなり、パイロットには計器飛行の資格が必要になり、機体には計器飛行装備が求められたり、長航続の飛行性能が必要になってきた。実質的には通常の定期旅客輸送と変わらず、定期エアラインと同じ考え方、同じシステムで運航体制をつくり上げなければならなかった。

 さらに北海の20年余におよぶ事故分析の結果から分かったことは、その原因が世界の一般的なヘリコプター事故とは違うということだった。世界的にはパイロット・エラーが事故原因の7〜8割を占めるといわれる。しかし北海では機材上の原因で事故になることが多かったのである。そのため、海上に不時着しても人間は助かるように機材を改造することになり、たとえば窓はすべて非常脱出口としていつでも開けて跳び出せるような構造にした。またヘリコプターに緊急用フロートを取りつけるのは当然だが、救命ボートも積みこむようになり、緊急時に自分の位置を知らせる自動発信器も取りつけた。

 さらに英航空局は1993年初めからフライト・レコーダーの搭載を義務づけた。加えて装備品の健康状態を総合的にモニターするHUMSの搭載も必要になった。これで重要装備品の摩耗、振動、応力その他の異常を、たとえば240項目にわたって常に監視していて、何か異常な兆候が見つかったときは早めに措置することができるという仕組みである。

 ブリストウのAS332LMkUタイガーは、これらの要件を満たしたヘリコプターである。なお、アバディーンにはAS332Lのパイロット訓練のために、4軸のフライト・シミュレーターをもち、社外のパイロット訓練にも当っている。この中には軍人パイロットも含まれ、英陸軍だけで2,000人のパイロットがブリストウ社で訓練を受けた。

 北海へはノルウェー側からもヘリコプターが飛んでいる。その運航会社、ヘリコプター・サービス社は1993年秋からスーパーピューマMk2の運航を開始した。長距離の洋上飛行に、このヘリコプターは最適の機材であるというのが、同社の判断である。

 ヘリコプター・サービス社はこれまで、主としてアメリカ製の機材を使ってきた。超大型のチヌークが2機、S-61が17機、ベル212が5機、ベル214STが1機というフリートである。これに対して、欧州製の機体は数機のドーファンがあるだけだったが、そこに強力なスーパーピューマが加わったのである。同社はまず4機を確定発注し、ほかに8機を仮発注した。

 その1番機が北海の現地で飛びはじめたのは93年9月15日で、10月には2番機が投入された。北海は毎年6か月間は気象条件が悪い。けれども2機のMk2は連日2時間半から6時間の飛行をして、95年5月20日までの20か月間に、合わせて3,500時間以上の飛行をした。1機あたり年間丁度1,000時間の飛行に相当する。こうしてMkUは94年末までに4機になり、今も乗客19人で650kmの長航続性能を発揮しながら、洋上を飛びつづけている。

 

ホライゾン早期警戒システム

 本機は軍用分野でも兵員または資材の輸送任務が多い。その中でヘリコプターAWACSと呼ばれる早期空中警戒任務はごく特殊な任務といえよう。

 これはAS532クーガーに「ホライゾン」と呼ぶ戦場監視システムを搭載して半径200km以上の範囲を監視しながら、目標を探知し、敵味方かを自動的に識別し、接近してくる速度を測る能力を持つ。実戦の場では湾岸戦争で使われ、有効性が実証されて世界各国から注目されてるに至った。

 その発想は冷戦の時代、フランス陸軍のためのAWACSシステムとして、東欧ワルシャワ同盟軍が西側に攻め込んでくるのをいち早く探知しなければならないという目的にはじまった。ヘリコプターに敵の動静を察知できるようなレーダーを搭載、探知した内容に応じて地上部隊への指令、指揮、通信および情報を伝達するのが目的であった。

 その基本任務は戦場の監視だが、それに加えて国境警備、停戦監視、武装解除の監視が可能であり、さらに危機管理の手段にもなるし、平時には道路の交通管制も可能である。冷戦時には逆に、核ミサイルの飛来監視も想定されていた。

 ホライゾンの基本概念はレーダーの広範な探知能力とヘリコプターの柔軟な機動性を組み合わせることにあった。というのもクーガー・ヘリコプターはどこからでも飛び立ち、300km/hの高速移動ができるからである。燃料満タンで上がれば、滞空4時間で1,000kmの範囲を移動しながら監視任務にあたり、敵の情報を刻々と地上に送ることができるのである。

 さらに長距離の進出移動が必要なときは、ヘリコプターそのものをトランザールC160やハーキュリーズC130といった輸送機にのせて輸送することもできる。その移動空輸のための準備は10時間、現地に到着して輸送機から降ろし、飛行準備がととのうまでの時間は18時間である。

 ホライゾン・ヘリコプターが上空3,000m付近で収集した情報データは、5分足らずの処理時間を経て地上部隊へ送られる。それを、作戦本部ではリアルタイムで見ながら作戦命令を出すことができる。データの伝送が終わると、ヘリコプターはオートローテイションで降下し、基地へ戻る。

 レーダー探知能力の範囲は、地形や敵の妨害電波の有無によって異なるが、最大200kmにも達する。また90km以内であれば、きわめて正確、確実な状況把握が可能になる。したがってヘリコプターは敵陣に近寄る必要はなく、敵の攻撃を受けるようなことも少ない。レーダーは20秒間で360°の全方位をスキャンする。

 これで敵の最前線を越えて、その奥にまで監視の目を光らせることができる。湾岸戦争では、こうした広範囲の戦場監視能力が実証され、ヘリコプターに搭載したレーダーで探知したイラク地上軍の動きを読みながら、その情報を受けた米海軍機が現地を攻撃したのである。

 ホライゾン・システムは2機のヘリコプターと地上ステーション1か所が一と組みになって働く。フランス陸軍は最初の2機のホライゾン・ヘリコプターを1994年7月に受領、ホライゾン・システムの構築に着手した。その完成時期は1996年末だったが、2組目の2機のヘリコプターと地上ステーションは1997年中に引渡される予定である。

 こうしたヘリコプターAWACSシステムは、今NATOの統合地上監視システムとしても提案されている。

捜索救難と対潜作戦

 フランス空軍はAS532A2クーガーMk2をコンバットSAR(捜索救難)に使っている。戦闘中に敵の領地で撃墜された味方航空機の乗員を救出するのが目的で、敵の目につかないような迅速な行動ができなければならない。

 このためヘリコプターには自動操縦装置(AFCS)に組み合わせて、味方乗員の位置を探知するパーソネル・ロケイター・システム(PLS)が装備され、救出地点へ真っ直ぐに飛ぶことができる。また夜間の救出作戦のためには第3世代の暗視ゴーグルを持っている。

 さらに海上の救出のためには、いっそう強力な自動装置を搭載、遭難者を発見すると、自動的に降下、接近し、その頭上でホバリングするようなシステムを持つ。

 クーガーMk2の最大離陸重量は通常9,750kgだが、遠距離の遭難者救出のためには11,340kgまでの増加が可能。その分だけ燃料搭載量を増やせば、片道900km以上の距離で2人の航空機乗員を救出し、途中の燃料補給なしで帰投することができる。

 なお、このような乗員救出の任務は敵の陣営を飛ばなければならない。その場合、敵がヘリコプターの存在を探知するには、通常3種類の方法がある。音、レーダー、および熱である。これに対してユーロコプター社は、フランス国営研究センター(ONERA)の協力を得て、エンジン排気ガスの拡散希釈装置、赤外線吸収ペイント、その他の装置を開発し、クーガーに装備するようになった。

 さらに捜索救難用のクーガーにはレーダー警報装置、ミサイル発射探知機、赤外線および電磁ジャミング装置がついている。加えて20ミリ・キャノン砲、ロケット弾、12.7mmマシンガンといった火器を装備する。

 もともとクーガーは開発の当初から生存性に重点を置いて開発された。特にローター、燃料タンク、降着装置、座席などの耐衝撃性は非常に高い。そのうえ捜索救難任務のためには機体構造部分が強化され、総重量の増加にも堪えられるようになった。

 また、ほかの10トン級のヘリコプターにくらべて、キャビン容積が大きく、ストレッチャー、医療器具、医師、パラメディック、救急隊員などが余裕をもって搭載できるようになっている。

 他方、海軍にとっても今やヘリコプターは不可欠の存在となった。いかに海軍といえども軍艦だけでことがすむわけではないことは周知の通りだが、とりわけヘリコプターは海軍の攻撃力を拡大させ、作戦効果を高めるのに役立つ。

 そこでフランス海軍向けのAS532SCクーガーは艦隊攻撃のためのAM39エグゾセ・ミサイル2基、対潜水艦作戦のためのソナーや魚雷をそなえ、捜索救難にも使われる。また波の荒いときにも艦上のせまい甲板に着陸するため、ハーポン固定システムをもって活動している。

 

 

ピューマ日本にも登場

 SA330/AS332シリーズが日本に登場したのは1972年秋、東京消防庁がSA330Fを導入したときであった。

 この1番機の後、しばらく本機の輸入はなかったが、1979年になって当時の朝日ヘリコプター(現朝日航洋)が2機の330Jを購入した。その頃、筆者自身もこの購入のためにアメリカやフランスで価格の交渉や装備品の取り決めなどに当たったことがあるが、機体価格は7億円前後ではなかったかと記憶している。

 購入の目的は、日本でも2度の石油危機に見舞われて、海底油田の開発が盛んになってきたときで、特に日韓大陸棚の石油開発に使うためであった。この作業は韓国の済州島に基地を設け、そこから東シナ海へ向かって片道350kmという長距離飛行をしなければならない。

 しかも目的地点の掘削リグの上で燃料補給をすることはできない。仮に燃料補給ができるとしても、すぐそばまで行って気象条件が悪ければ、そのまま引っ返さなければならないから、ヘリコプターは往復700kmを飛んで、なおかつ40分相当の燃料を搭載しなければならない。それだけの大量の燃料を積みながら、相当数の石油技術者をのせて飛ぶには、かなりの大型機が必要になる。

 もうひとつの問題は航法であった。途中は前後左右、海と空と雲以外は何にも見えないので、当然計器飛行でなければならない。そのため、このピューマには当時最新のオメガ航法装置を搭載して自動操縦系統につなぎ、黙っていても大海原の中のポツンとしたリグの付近まで飛んでいけるようした。

 しかしオメガ航法には、長距離を飛んでいるうちにかなりの誤差が出る。天気の悪いときなどは、ひょっとしてリグを見つけられない恐れもあるというので、リグの方にトランスポンダーの発信器を取りつけ、それをヘリコプター側の気象レーダーで受けるようにした。パイロットの前のレーダー画面に輝点が映れば、それが掘削リグの位置である。

前にも書いたように、石油開発のための人員輸送は、普段は定期的な交替要員をのせて飛ぶ。そこに要求される条件は普通の定期運航と変わらない。そのうえリグの上で怪我人や急病人が出ると、昼間はもちろん、深夜でも多少の悪天候でも飛ばなければならない。ということはエアライン以上のきびしい条件が不便な外国の地で課せられるわけだが、1年以上つづいた日韓大陸棚の作業には乗員も機体もよく耐えたものであった。

 実は、長期間にわたって洋上を飛びつづけたピューマは、日本に戻ってきたとき、潮風に当ってすっかり弱っていた。機体の一部には腐食も出はじめていたのである。しかし充分な手当を受けた同機は、あれから15年以上を経過した今も山岳地の建設資材など、重量物の輸送に当たっている。ピューマ・シリーズの頑健ぶりを示す一例といえよう。

輸入機は34機が飛行中

 ピューマとスーパーピューマは、やがて日本でも続々と輸入されるようになった。筆者の数えたところでは、最近までの25年に総計36機に上る。しかも、そのうち事故で失われた機体は332L-1の1機しかない。最初に輸入されたSA330Fは東京消防庁で15年ほど使われ、4,430時間を飛んだのちに引退、現在は成田航空博物館に展示されているが、残りの34機はすべて現役として飛んでいるのである。このもようは表3に示す通りである。

 

 表3 日本のピューマ・シリーズ

   

現用機

抹消機

合 計

330F

――

1機

1機

330J

11機

――

11機

332L

8機

――

8機

332L-1

15機

1機

16機

合 計

34機

2機

36機

 この現役の34機を誰が使用しているか。表4に示すようにほぼ3分の1の12機は政府機関、残りの22機がヘリコプター事業会社に所属する。政府機関のうち政府専用機として自衛隊が運航しているのは332Lが3機。あとは332L-1が9機で、海上保安庁、警察、消防の所属になっている。

 

表4 日本の現用ピューマ・シリーズ

   

330J

332L

332L-1

合  計

政府専用機

――

3機

――

3機

海上保安庁

――

――

4機

4機

警察

――

――

3機

3機

消防

――

――

2機

2機

事業会社

11機

5機

6機

22機

合  計

11機

8機

15機

34機

 海上保安庁の332L-1は洋上長距離の飛行を目的として配備された。最初の2機は1991年に入り、次の2機が97年春導入された。このうちの1機は最近、千葉県野島崎灯台沖およそ160kmの海上で、長さ45m、幅27mという巨大な浮きドックを引っ張っていた曳航船のエンジン故障に際して、人命救助に当たった。

 同機は無線連絡を受けると、直ちに巡視船3隻およびYS-11と共に出動、海面捜索の結果、救命ボートで漂流している乗組員10人を発見し、全員を吊り上げ救助して巡視船に移送した。平成9年10月27日朝のことである。

 東京消防庁は先にも述べたように、最も早い時期から330Fを使用した実績を踏まえて、現在は332J-1スーパーピューマ2機を保有する。そのうち1機には独自の開発になる消火装置を取りつけており、高層ビルの林立する市街地の消火に威力を発揮するものと期待されている。

 他方、事業会社の22機の内訳は表5の通りである。朝日航洋が3分の2を越える8機を使用している。うち5機は330Jだが、これは物資輸送が目的だからであろう。山岳地の資材吊り下げ輸送には、胴体の大きな332Lよりも自重が小さくて出力の大きな330Jの方が有利なのである。同じ考え方から、総数22機の事業機は半数が330Jになっている。

 いま世界中では、ピューマとスーパーピューマに軍用型クーガーを含めて、総数およそ1,100機が飛んでいる。

 

 表5 事業会社のピューマ・シリーズ

事業会社

330J

332L

332L-1

合  計

朝日航洋

5機

3機

――

8機

中日本航空

――

1機

3機

4機

東邦航空

2機

1機

――

3機

エース・ヘリコプタ

2機

――

――

2機

新日本ヘリコプター

――

――

2機

2機

四国航空

1機

――

――

1機

カワサキ・ヘリコプタ

――

――

1機

1機

東北航空

1機

――

――

1機

合   計

11機

5機

6機

22機

(西川渉、月刊『エアワールド』誌、1998年2月号掲載)

 

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