牛と無線と剰余金

 

 

 6月の欧州は1年中で最も気候のよい季節といわれる。チューリッヒの町を歩いていても、さわやかな初夏の日差しであった。

 中央駅から銀座通りにあたるバーンホフ・シュトラーセを、世界中の高級ブランドが並ぶウィンドウを見ながらしばらくゆくと、チューリッヒ湖に出る。岸壁には多数のヨットが係留され、その向こうに間欠泉のような噴水がときおり青い湖面から陽光に映える白い水しぶきを高く上げ、水平線のかなたには雪をかぶったアルプスの峰々がつらなる。これぞ典型的なスイスの景色である。

 この国は今から200年近く前、1815年のウィーン会議で永世中立国となった。中立といっても、しばしば誤解されるような消極的非武装中立ではない。義務兵役制による軍隊をもつ武装中立である。また永世中立だからこそ国際連合にも加盟せず、しかもさまざまな国際機関の本部を誘致しているのも一つの見識といえよう。

 国際的な赤十字活動がはじまったのもスイスである。戦場に残された数万の死傷者の惨状を目撃したスイス人、アンリ・デュナン(1828〜1910)は,ボランティア・グループを率いて救護に当たった。この体験から彼は救護組織の必要性を提唱、1864年欧州12か国がジュネーブ条約に調印して国際赤十字社が発足した。このことでデュナンは1901年、最初のノーベル平和賞を受けている。

 赤十字の活動理念は博愛と人道の精神をもって人種、国境の別なく、平等を原則とし、政治、思想、宗教、経済に関しては厳正中立を旨とし、戦場ばかりでなく平時の災害でも病人や怪我人の救護に当たることである。

 同じ理念のもと、パートナーとして活動しているのがスイス・エアレスキューREGAにほかならない。ヘリコプターとビジネス・ジェットをもって、アルプス山岳地の遭難救助はもとより、市街地での交通事故の救急や国外の急病人を連れ戻すための国際帰還搬送などを任務としている。

 今回の旅行はREGAの本部をチューリッヒ・クローテン空港に訪ね、活動の実態を見学するのが目的だった。その見聞の中から印象に残った3点をご紹介したい。REGA3題噺である。

 一つは牛や羊など、家畜の搬送が意外に多い。家畜は山の中に放牧されている間に病気になったり怪我をしたりする。それをヘリコプターで救出するわけだが、昨年の救出数は450頭を超えた。ちなみに人間の救急救助は総数8,842人。そのうち山岳遭難者は526人というから、家畜も人間も余り大きな違いはない。ヘリコプター救急という観点からすれば、わが国の人間の扱いはスイスの家畜以下かもしれない。

 次に感服したのはREGAの無線通信網である。スイスには全国13か所に救急ヘリコプターの拠点がある。一見少ないようだが、国土面積は41,000ku。日本の面積に換算すれば120機が配備されていることになり、全国どこでも、アルプスの山中ですら15分以内にヘリコプターに乗った医師が飛んでくる体制ができている。

 そのためのヘリコプターが24時間の出動体制を取り、3機のアンビュランス・ジェットが世界中を飛び回る。その全ての運航を集中管理するのがチューリッヒ本部である。そこで重要なのが連絡通信手段だが、山岳国スイスは4,000m級の高峰がつらなり、無線電波には条件が良くない。

 そのため国内38か所の山頂に無線局を置き、ヘリコプターや飛行機がどこにいても交信可能とし、そこから電話回線でREGA本部につなぐというネットワークをつくった。これにより本部では飛行中の航空機と直接通話ができるし、さらにコンピューター・マップ上にはヘリコプターの現在位置や飛行経路が表示されるシステムが出来ている。

 しかも、ここに詰めているミッション・コントローラーは5人だけ。救急要請の電話受付けに始まって、出動指令や飛行監視、国際飛行のためには外国政府の許可取得といった複雑な業務を少人数で遂行している。如何にも多言語国家のスイスらしいマルチ人間が高機能のシステムを使いこなしているという感じであった。

 3題目はREGAの銭儲けのうまいこと。といえば語弊があるが、意外に剰余金が多い。2000年次の収入は1.1億スイス・フラン(約80億円)。そのうち6割が一般市民からの寄付、4割が医療保険その他の受取りだった。そこからパイロット、整備士、ドクター、ナース、パラメディックなど274人分の人件費や航空機の運航費を差し引いても、3,240万フラン(約25億円)が余った。

 日本でよく聞くのは、救急業務は犠牲のうえに成り立っているという話である。医療スタッフは24時間待機を強いられ、大きな病院の中でも救急部は手間と経費がかかるばかりで赤字しか管制がないというのだ。したがって拝金政策に傾いた政府や官庁、特に財務省は救急業務に予算をつけたがらない。

 いきおい、国家として倫理観はないのか。人道的な人助けに理屈は不要などという議論になるわけだが、そんなことを言わなくてもREGAを見ればエアレスキュー事業そのものが利益をあげられることが分かる。もとよりREGAは金儲けのために救急事業をしているわけではない。にもかかわらず差益が出る。しかも非営利団体だから、企業のように税金を納める必要がなく、配当もしなくてよい。まるごと残るのである。

 ひと様の懐勘定を覗きこむのは品のいいことではないが、余った金をどうするのか訊ねると、将来の航空機の買い換えや施設の拡充に当てるという至極当然の答えが返ってきた。

 人間ばかりか牛や羊まで助けるためにすぐれたシステムを構築し、しかも経済的に成立させている希有のヒューマニズムに、私はチューリッヒ湖の陽光のような明るい気持ちになった。

(西川渉、『航空情報』 2001年11月号掲載) 

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