<西川修著作集>

旅 順

 久しぶりに霊玉会を開きますから是非御出席下さい、という案内状が来た。違い福岡からわざわざ東京までこの会のために出かけるわけにも行かないが、なつかしい会である。本当の事を言えば、私は霊玉会にまだ一度も出たことがないし、会員諸賢にもお目にかかったことがない。それなのにこの会がなつかしく、人にも話してみたくなるのは、この会が旅順の会だからである。

 先ず、名前の説明をしておこう。霊玉というと何か宗教団体のようにも見えるが、そうではない。霊とは爾霊(にれい)山の霊であり、玉とは白玉山の玉である。

 今から算えるともう六十五年の昔になるが、日本が国運を賭して戦った日露戦争で、最も凄惨な戦いが行なわれた旅順要塞の北西にあって、旅順の軍港を一目に見渡す二〇三高地、この標高二百三米の小山を日本軍が手に入れたために、戦局はようやく展開し、旅順港内のロシヤ極東艦隊の艦船は、この高地からの観測によって次々と我が重砲によって撃沈せられ、遂に明治三十八年一月一日のステッセル降伏となったのだが、戦後、旅順攻城軍の軍司令官乃木大将は、ここで戦没した四万余の将兵の霊を慰めて、たまこもるこの山に『なんじのみたま』の意をもって爾霊山と名をつけた。二〇三にひっかけた命名であるが良い名である。

 白玉山は叙勲の港に近くそびえる山であるが、ここに旅順攻城の戦死者の納骨堂を作り、また砲弾型の美しい塔を建てて表忠塔と名付けた。この落成の式典は、乃木、東郷両将軍が参列して盛大に行なわれ、旅順在住邦人にとっては永く旅順の標徴となった。


二〇三高地

 この二つの山の名を併せ取って霊玉会と名付けたのは、旅順の新市街の町はずれにあった小さな小学校の同窓生の会である。それは極めて小さな学校であった。一学年につき一クラスだけで、それに高等科が一、二年合併して併設してあったが、生徒は全部で二百名位であったろうか、先生は校長以下合わせて八名しかいなかった。私は小学校の一年の時と二年の二学期のはじめまで、一年半足らずしかこの学校に在籍Lなかったが、それでもやはり霊玉会の会員なのである。何しろ生徒の多くは新附の土地に赴任する官吏や軍人の子弟だから、二年か三年位の期間でまた他の土地に転じ去るのが通例で、誰もが卒業するまで学校にいるわけではない。したがってこの霊玉会は、多くの学校の同窓会と違って卒業は条件ではない。第二小学校にしばらくでも関係した者はすべて会員である。

 会員の人達はたいてい短い在住にもかかわらず、旅順を忘れることかできず、幼い日の共通の思い出を語り合い、確かめ合うために会を開いては顔を合わせたくなるのだ。この小学校の名は大正初年の当時、関東都督府旅順第二小学校といった。その校歌の一番を私は今でも記憶している。それは次のように歌っている。

  見渡す海の彼力には
   昇る朝日の国ありて
  皇統連綿万国に
   無比なる至尊おわします
  これぞ我等が祖先の地
  これぞ我等が父母の国

 幼い私達は言葉の意味も分からないながらに、事のあるごとにこれを高唱した。そして五十余年後の今日まで歌詞を心に刻みつけている。霊玉会に集まる人びとは多分皆そうであろう。

 かって、東の方に向かって私達は見渡す海の彼方を懐い、強い憧憬を抱いたのだが、動乱の幾十年を経て、今は西の方に向かい、彼方に閉されてしまった追憶の土地、今ではその名も変わってしまった旅大を思い恋うのである。

(西川 修、勝山新聞、1969年11月)

 

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