<ライト兄弟>

「航空人の聖地」

 まもなく12月17日が来る。この日は、ライト兄弟の初飛行から110年目にあたる。そのことを考えたわけではないが、先日キティホークのキル・デビル・ヒルに行く機会があった。

 この地に、なぜ「悪魔殺しの丘」などという名前がついたのか。昔は殆ど人の住んでいないところで、大西洋に面した荒涼たる砂丘の上を強風が吹きつのるからであろう。悪魔ですら堪えられないように見えたのではないか。

 それだけにまた、ライト兄弟には都合が好かった。飛行機を支えるだけの強い風が吹いていて、試験飛行の邪魔になるような住民も少なく、着陸に失敗しても砂がクッションの役をしてくれる。

 ただし今はきれいに植栽され、国立公園となって、われわれの訪ねた日は10月下旬のおだやかな天候であった。かつて、もはや50年ほど前のことだが、木村秀政先生の講演の中で「航空人の聖地」という言葉を聞いて以来、いつかは、その場に立ちたいと思っていたところである。

 その希望が思いがけず実現するにあたっては、友人・松尾晋一さんにお誘いを受け、ヴァージニアビーチから南へ150キロ、往復3時間の車の運転など、大変なお世話をいただいた。先ずもってお礼を申し上げます。

 ……余談ながら、キル・デビル・ヒルの由来については、もっと面白い話がある。ここは昔、海賊のすみかだったというのだ。皓々(こうこう)たる月明かりの中で、砂丘に腰をおろした海賊たちが眼前を行き交う民間船から奪ってきた宝物を車座に囲んで、酒盛りをしている。その酒の強さたるや、悪魔も酔いつぶしてしまうほどだったという言い伝えがあるらしい。


鳥の羽根を刻んだライト兄弟記念碑

 さて、キル・デビル・ヒルは大きな丘と、それを取り巻く3つの丘から成る。ここで、ライト兄弟――兄のウィルバーと弟のオービルは試作したグライダーに乗り、1900年から1903年にかけて何千回もの飛行実験を繰り返した。

 何度も何度も飛んでいるうちに、2人は少しずつ操縦のコツを会得してゆく。そして、ついに3軸(ピッチ、ロール、ヨウ)の操縦法を身につけ、人類の空飛ぶ夢を実現させたのであった。

 その偉業をたたえる記念碑は高さ18メートル。側面に翼(つばさ)の文様が刻まれ、正面左右には兄弟の胸像が並ぶ。台座は巨大な星形。塔の根本には、やや高い位置に「ウィルバーとオービルのライト兄弟によって果敢なる信念がもたらした天才的な初飛行を記念して」という讃辞が帯状に刻まれている。


正面から見た記念碑。左右に兄弟の胸像。

 この巨大な記念碑が総計80トンの花崗岩と、285,000ドルの建設費によって、完成したのは1932年のことであった。それに先だっては、砂丘の位置と形状を固定させなくてはならなかった。というのは強い風のために砂丘が絶えず形を変え、位置を変えるからである。

 事実、この記念碑の建設計画が始まったのは初飛行から25年ほど経った頃だったが、その間にキル・デビル・ヒルは135メートルも南西方向へ動いていた。これは、北東からの強い恒風があったためであろう。ライト兄弟は、それを利用したのだ。

 この砂丘の移動と変形を防ぐために、アメリカ陸軍工兵隊の工事により、木材を組み合わせた枠組が地中に埋められ、植栽がおこなわれた。以来80年余の今も、砂上の楼閣と違って崩れることなく、立派な記念碑が同じ場所に美しい姿を残しているのは、工事がうまく成功したからにほかならない。

 ライト兄弟はグライダーによる飛行試験の結果を踏まえて、いよいよエンジンを取りつけることになった。

 しかし当時、ガソリン・エンジンの技術が進歩しつつあったとはいえ、既製のエンジンは重く、飛行機に適した軽いものはなかなか見つからなかった。そのため、兄弟は自らエンジンをつくることにする。出来上がったものはいささかあらけずりで、出力も少なかったが、兄弟は機体が軽く、プロペラや翼の効率が良ければ、出力が不足気味でも、飛行機が飛べることを理解していた。

 そのプロペラについて、兄弟は効率を上げるために、船のスクリュー理論をさておき、手製の風洞で実験を繰り返し、その結果にもとづいて設計した。これこそは飛行機のための、初めての有効なプロペラであった。それも科学的な根拠にもとづくオリジナルのプロペラである。

 これらのエンジンやプロペラをたずさえて、キル・デビル・ヒルに戻ると、兄弟は長さ40フィート(12メートル)、重さ605ポンド(274キロ)の新しいフライヤー号に取りつけた。この飛行機は垂直尾翼が2枚、前方の昇降舵も2枚、尾部の推進用プロペラも左右2つであった。プロペラは左右反対向きに回転し、飛行中に機体の偏向を防ぐようになっていた。

 試運転ではエンジンの動きが円滑ではなく、プロペラ軸が折れたりしたが、12月14日には飛行の準備がととのった。

 そこでライト兄弟のどちらが先に飛ぶか、コインを投げて順番を決めることにした。その結果、先ずは兄のウィルバーが飛ぶことになった。しかし、フライヤーが地面を離れた途端、ウィルバーは昇降舵を過大に操作して機首を上げ過ぎ、失速して砂の上に墜ちてしまった。そのため機体の一部が破損し、修理をしなければならなくなった。

 これでウィルバーは自ら、人類初の動力飛行という絶好のチャンスを逃したのである。


ライト兄弟記念公園の一角に置かれた実物大のフライヤー模型

 3日後、フライヤーの修理が終わって、2度目の挑戦がはじまった。12月17日である。風は時速27マイル(毎秒12メートル)で、かなり強かった。その風に向かって飛ばなければならないとすれば、フライヤーの飛行速度が30〜35マイル(時速48〜56キロ)だから、対地速度は時速5〜12キロときわめて遅いことになる。

 しかし、それでも彼らは決行することにして、近くの海岸にいた水難救護所の人びとに合図の旗を振って手伝いを依頼した。それに応じて5人の人びとがやってきた。

 今度はオービルの飛ぶ番である。彼はウィルバーの失敗を思い出しながら、地上で何度も操縦桿を動かすと共に、腰を振って翼端のたわみを試し、垂直尾翼を左右に動かすなど、入念に飛行前の点検をおこなった。またエンジンへの燃料供給を調節するレバーや速度計も確かめた。

 以上が操縦装置の全てだから、決して複雑なものではない。しかし空気よりも重い動力機が史上初めて人の操縦によって飛ぶかどうか、オービルは全てが一身にかかっていることを自覚していた。

 10時35分、彼は機体を引き留めていたワイヤを切り離した。フライヤーはレールの上を滑り始めた。ウィルバーが翼の先端を支える。そして、機が地面を離れた直後、水難救護所から応援に来ていたジョン・ダニエルスが、あらかじめセットしてあったカメラのシャッターを押した。ダニエルスは近所に住むサーファーで、人命救助にあたっていたが、カメラを扱うのは初めてだった。しかし、その乾板上には、背後からではあったが、確かに浮上している機体と、その横を走っているウィルバーの姿が残った。

 ところが、またしてもフライヤーは操縦者の云うことを聞かず、機首を上下に振り始めた。それを抑えようとするオービルの操作はつい過大になったものの、レールから120フィート(36メートル)の地点で砂に触れるまで飛びつづけた。時速27マイルの風に向かって、対地速度6.8マイル(時速11キロ)で飛んだわけで、対気速度は34マイル(時速55キロ)になる。

 これが「世界を変えた12秒間」といわれる大いなる歴史的時間である。


初飛行の瞬間 

 1回目の飛行に続いて、3回の飛行がおこなわれた。兄弟それぞれに1回目より2回目の方が操縦操作もうまくなったのか、記録は飛ぶごとに伸びていった。とりわけ4回目の飛行は、ウィルバーの操縦によって59秒間飛びつづけ、距離852フィート(260メートル)に達した。

 かくして、この日のライト兄弟の4回の飛行は、それまでの飛行家たちが主張するのとは異なり、勢いをつけて跳び上がったり、斜面から滑り降りたりしたのではなく、平地から自らの動力で離昇した真の飛行というべきものであった。

 しかし残念ながら、5回目の飛行には至らなかった。というのは、4回目の飛行の後、突風が吹いてひと休みしていたフライヤーを横転させ、機体を破損してしまったからである。

 破損の状況を調べてみると、そう簡単に修理できるとは思えず、1903年のライト兄弟の飛行はこれで終ることになった。

 その日の4回の飛行を一表にすると、次のとおりとなる。

飛行

操縦者

飛行時間

飛行距離

1回目

オービル

12秒間

120フィート(36,5m)

2回目

ウィルバー

12秒間

175フィート(53.3m)

3回目

オービル

15秒間

200フィート(61m)

4回目

ウィルバー

59秒間

852フィート(260m)

 ライト兄弟の初飛行から25年後、1928年には「25年記念祭」が開催された。このとき初飛行の離陸地点に記念碑が置かれた。その向こうに4回の飛行の接地点を示す石碑が置かれ、1,2,3,4の数字が記された。

 これらの場所は柔らかい砂地で、普通の車輪では滑走できないため、長さ18メートルの1本のレールを敷き、その上をスキッドで滑り、離陸したことは、前述の通りである。

 この25年記念祭には3,000人以上の人びとが集まった。その中にはオービル・ライト、アメリア・イアハートも参列した。しかし、ここに集まった人びとは、誰ひとり飛行機できた人はいなかった。


ライト・フライヤーの離陸地点に置かれた記念碑


離陸地点から前方に伸びる着陸地点。
手前の数字1は1回目の着陸地点を示し、
その向こうに2回目、3回目の石碑が見える。 

 さらに25年を経て、初飛行50年目の記念式典では、ライト兄弟が実験飛行中に寝泊まりしていた小屋が再現された。下の写真は左側が機体の格納庫、右側が居住小屋である。


飛行地点から60m付近に復元された格納庫(左)と居住小屋(右)

 60年目には隣接地に飛行場が完成し、100年目の記念式典には世界中から12万人以上の人びとが詰めかけ、初飛行の場面を再現する実物大のレプリカが設置された。


人類史上初の動力飛行の瞬間を示す実物大のレプリカ
翼の上に腹ばいになって操縦するのは弟のオービル
右後方に翼を支える手を離した兄のウィルバー
 

 


フライヤーの前で――初飛行の邪魔だァ、と叱られそうだ

(西川 渉、2013.12.3)

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