<読 書>

戦争の見せ方

 

 『戦争の見せ方』(三野正洋、ワールドフォトプレス、2007年10月5日刊)は、まことに面白い本だった。全頁に写真があって、著者の詳しい解説文が分かりやすい。ここで細かくご紹介する暇はないが、ひとつだけ戦争よりも自分を見せるのに熱心だった「自己の宣伝に取組んだ男」としてチャーチルとヒトラーとマッカーサーが挙げてある。

 この中でマッカーサーが戦争中も如何に懸命に自分の宣伝をしたかが暴かれている。たとえば1942年日本軍のフィリピン攻略が開始されると、家族、幕僚と共にフィリピンから脱出。実質的な敵前逃亡だが "I shall return" の言葉を残し、44年アメリカ軍の反撃と共にフィリピンに帰還。これを広く宣伝した。

 その宣伝のやり方が敵ながら見事で、レイテ湾の水ぎわをズボンのすそを濡らしながら、幕僚たちと共に「戻ってきたぞ」といわんばかりに上陸してくる写真は、これまでもしばしば目にしたものである。しかし実は、あの写真は2日がかりで3度までやり直し撮影したものらしい。

 さらに終戦直後、コーン・パイプをくわえて厚木飛行場に降り立ったときの写真も、少なくとも5人の専属カメラマンにさまざまな角度から撮影させたものだった。また朝鮮戦争の仁川上陸のときも多数のカメラマンを連れて行ったとか。


いわれてみれば、たしかに背景の船舶上にいる水兵たちは
すこしも緊張感がなく、写真撮影のもようを見物しているだけのように見える。

 私は、マッカーサーがここまで自分の演出を考えた男だったとは知らなかった。戦後の日本人は、これらの宣伝にまんまと乗せられたのではないかと思うが、乗せられたというよりも、半分は日本人本来の穏和な性格が乗っていったのだろう。これをマッカーサーは「日本人は12歳の少年のようだ」と捉えたらしいが、実は彼以上に大人だったのである。両者相まって、戦後の復興がうまくいったに違いない。

 もっとも、うまくいったかどうかは、人によって評価が異なるかもしれぬ。けれども、少なくとも今のイラクやアフガニスタンのようにならなかったのは事実であり、幸いであった。日本人の中にもあのような革命騒動やテロ暴動を起こしたかった連中もいたようだが、そうならなかったのは日本人とアラブ人の性格の違いであろう。

 だからといって、ここでマッカーサーを賞揚するつもりはない。結果は良かったけれども、その背後に仕組まれた演出を思うと、複雑な感情がわいてくる。

 著者は、そこで「ダグラス・マッカーサーの軍事的功罪」を次のように列挙している。

 もうひとつマッカーサーの功を挙げるとすれば、罷免されてアメリカに戻ったとき、上院の軍事外交合同委員会で、「日本人が戦争に入った目的は、主として自衛のために余儀なくされたものである」と語ったことであろう。渡部昇一は『「東京裁判」を裁判する』(致知出版社、2207年2月13日刊)の中で、この言葉を英語で次のように紹介している。

"Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security."

 この一言で、日本の戦争「犯罪」などなかったことが証明されたのである。

(西川 渉、2007.12.26)

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