<西川修著作集>

スキヤキ

 すき焼きというのは関西の言葉だそうだ。今では全国どこでも普通にそう言うが、以前東京ではギュウナベという言葉を使った。ギュウは牛肉の牛で、ナベは鍋である。

 私が中学生の年代の東京では牛肉屋というのが諸所にあった。牛肉屋というと肉の小売りをするように聞こえるが、当時の牛肉屋は肉を売るのではなくて、牛鍋を食わせる家であった。本郷の江知勝などというのは、あの界隈の学生にもっとも愛用されて有名であったが、私等はよく四谷の三河屋というのに行った。

 広い階段があって、二階に上ると部屋にいくつもつい立がならんでいて、客はそのつい立の間に坐って、七厘を中に入れた円い茶ぶ台を囲む。当時でもガスがないわけではなかったが、こういう所では七厘にカッカとおこった火を十能に盛り上げてくるのが例で、火が弱くなると炭をつぎ足す。炭をつぐのは女中、すなわちぎゅう屋のねえさんの仕事である。

 ところで、気取った客は炭のことをナベシタというのだそうで(鍋の下におくからナベシタ)、鏡花の小説の中に、零落して鳥屋をはじめた親娘がなにしろ新米なので、客の言うナベシタが何のことか分らずにマゴマゴするという話が出てくる。

 中学生の頃、食い盛りの年頃だけに牛肉は二人前平げ、あとはその汁を飯にかけて五杯も六杯も食うというのが三河屋での楽しみであった。勿論その頃は洒など飲まない、食い気一方であった。

 すき焼きというと何となく上品に聞こえて、ぎゅう鍋のようにむやみにガッガツ食うという連想が起こらない。

 ところで、この頃牛肉大和煮に関連して、缶詰にした肉は実は馬肉を使っているから、そのことを表示しなければならないという問題で、当局と業者の間で悶着があったと新聞が報じている。業者の方では馬肉と明記することだけはどうか勘弁してもらいたいということで、結局ただの「肉」と書くことになったという。肉とはすなわち馬肉のことなり、ということになったわけである。

 私が昭和十年、宮崎に赴った頃、あの辺では馬肉が多かったらしい。店に行って牛肉というと馬肉を売る。それで正真正銘の牛肉が欲しい時は必ず「ホンギュウ」といわなければならないと教えられた。その当時の宮崎では牛肉とは馬肉のことだったわけだが、これは少々俗説めいている。

 牛鍋時代、いわゆる書生は馬肉を好んで食ったらしい。この場合にはぎゅうではないからさくら鍋というのだそうだ。何故、馬肉がさくらになるのかよく知らないが「咲いた桜に何故駒つなぐ云々」という歌からでも出たのであろうか。

 先輩の一人が牛肉と馬肉はどうして見分けるか知っているかと聞いた。寡聞にして私はそういう事を知らない。「肉をつかんで壁に向かって投げつける。壁にペタリとくっつくのが牛肉で、下に落ちるのが馬肉さ」と彼が教えてくれた。「なるほど、すると壁にくっ付く方の肉を食うわけですね」と私が言うと、彼曰く「馬鹿なことを言うな。馬肉のほうが牛肉よりもよっぽどうまいんだぞ、脂が少なくてあっさりしている。その上安いときているからな」

 昭和二十年、戦争がいよいよ最後の段階になった頃、私は陸軍病院で診療のかたわら、看護婦の養成にも関係していたが、戦況いよいよ苛烈になった頃、師団の軍医部が何を思ったか、今後看護婦養成には専任教官を定め、その教官は全科目の教育をやれ、その方が徹底した教育ができ、短期間に成果をあげることができる、と命令してきた。そしてその専任教官に私が任命されたのである。これは全くたいへんな仕事である。下士官と婦長が助教で一人ずつ、これに助手の看護婦が三人ほどいるが、教育計画を作ったり教材を整備したり、それに教科書もない時代なので、それを謄写版に切ったり、皆で手分けしてやるのだが、なかなか翌日の準備が間に合わない。それで私はしばしば遊戯の時間を作った。つまりレクリエーションである。

 その時、皆が好んだ遊戯の中にスキヤキというのがあった。全員を三組に分けて、牛肉、ネギ、トウフと名をつける。そして円陣を作って坐らせる。坐る所には円がかいてあるのだがその円の数は全員の数に一つだけ少ない。はじめの一人だけ中央に立たせておき、私が「ねぎ」なら「ねぎ」と叫ぶ。するとネギ組の者は立ち上がって円陣の外側を駈け足でまわらなければならない。中央の一人は何でもよいから好きな歌をうたっている。そして勝手なところで突然歌をやめるのを合図に、走っている者が円の上に坐るのである。

 中央の歌うたいはいち早く好きな所に坐るから、当然ネギの中の誰か一人が席がなくなる。それが今度は中央に来て歌うたいになる。次に牛肉といえば牛肉組が走る。トーフといえばトーフ組が走る。もし「スキヤキ」と言ったら、今度は全員席を離れて走らなけれぱならないというわけである。もはや、牛肉はもとより豆腐さえもなかなか口に入らない時代だっただけに、この遊戯は若い女生徒の間になかなか人気があった。

 私のこの教育はしかし長くは統かなかった。西部軍が新設することになった精神病専門の陸軍病院に急に転属を命ぜられたからである。

 私が朝の一時間目に陸軍懲罰令かなにかの講義をしている所に、伝令が来てすぐに病院長室に来いという。病院長は「転属命令が出たから午後から休暇を取りたまえ」と言われた。私は教室に引き返して、生徒に自分が突然転属になったこと、教育を途中でやめるのは残念だが後任の教官の教えを聴いて、一日も早く立派な陸軍看護婦になってもらいたいなどと訓示した。そして最後に「海行かば、水漬く屍……」を斉唱して皆と別れた。

 その日の午後軍装を整え、銑帽を背中につけて私は三日間の休暇のために陸軍病院の門を出ようとした。門衛の「捧げ銃」に答礼して二、三歩門を出た時、突然衛兵所の所が騒がしくなった。何事かと思って後を見ると、看護婦生徒の群れが衛兵所の前まで来て、口々に「教官殿」「中尉殿」などと、叫び声をあげて泣いているのである。衛兵司令の下士官も手のつけようがない格好で、ウロウロしている。全く思いもかけない情景であり、また軍隊にあるまじき姿であったが、私はやはり感動を押さえかねた。とは言っても、軍服の手前何とするわけにもいかない。

 唯、幾度も挙手の礼を繰り返すだけであった。

(西川 修、勝山新聞、1967年)


海ゆかば

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