<西川修著作集>

北の旅人


あけぼの像

 「道の尽きる所、岬あり」と人が言う。長い日本列島を北に向って、北海道に越え、更に北へ北へと進んで、遂に道の尽きた所が宗谷岬である。日本の北の端のこの土地を訪ねて見たいと思った。

 札幌で乗換えて北行する『利尻』という急行はひどい混雑であった。この線に唯一本の夜行列車なので寝台をとったのだが、なにしろ夏の休暇のことで、暑い本土から溢れ出た人の群が一斉に北を目指して集って来ているのだ。寝台車も若い人が一杯で、夜の間中しゃべったり歌ったり音楽をかけたり大変な賑やかさである。眠り足りぬ気持で稚内駅についたのは朝の六時二十分、ここは国鉄で日本最北の駅である。

 北国の夏は既に四時前から明るいので、六時二十五分はもう早朝ではない。街はすっかり明け離れているが雲が厚くて、朝の雨の名残がまだ残っている。汽車を降りると駅の中がまた大変な混雑である。今降りて来た列車が折り返して上りの急行になるので、それに乗る人が押しかけて来て待っているのに、満員列車から降りた人が、無秩序に外に出ようとするので、揉みあいで、まるで喧嘩である。中には本当の喧嘩をしている人達もいた。

 いわゆるカニ族が背にした巨大なリュックの下を潜り抜けるようにして、ようやく駅の外に出る。満員列車で運ばれて来た人々の大部分は、ブームになっている利尻礼文島を目指しての離島観光なので、稚内港の乗船場の方に引きもきらず歩いて行く。私達は日本最北端の宗谷岬が目的だから、道を聞いてバスの停留所に行って見た。大岬観光(宗谷岬のことを大岬ともいうらしい)の遊覧バスというのがあって、出発時刻までまだ一時間半ある。先ずは朝食をと思って、駅の近くに某のホテルと銘打った家があるので、朝食は出来るかと間くと、食卓の上にズラリと食事が用意してあって、「どうぞ」と言う。これで朝食にはありついたのだが、終って支払った勘定の高いのには驚いた。なにしろ夏の三ケ月足らずの間に一年分稼ぐわけだから事情は察しがつくがとにかく驚いた。

 大抵の人が島の観光に行くらしいので、バスの方は大したことはあるまいと思ったが、どうして、遊覧バスの方も相当の人数である。五十人位乗るバスに、はじめ渡してある整理番号の順にのせて行くのだが、次々とバスは一杯になって、結局五、六台が列を作って行くことになった。

 北海道の北の方に嘴のように長く突き出た留萌・宗谷地方が愈々宗谷海峡に臨む部分は、宗谷湾を抱いて西にノサップ岬。東に宗谷岬と二つの岬がちょっと蟹の鋏に似たような形に突き出ている。稚内港は宗谷湾内の西の一隅、ノサップ(野寒布)岬の附根の所にあって、列車の駅のあるのもこの港の近くである。稚内港から宗谷湾沿いに、宗谷国道を約三十キロ北東に進むと宗谷岬である。途中、何となく名もなつかしい「こえとい」(声問)という部落や、又三百五十年の歴史を持つ宗谷町などを通過するが、道の大部分は、左は宗谷湾の海の眺め、右は何もない草原と低い丘陵である。草原には紫色や紅色の花が咲いているが、バスの窓からでは何か見分けがつかない。

 海岸に間宮林蔵出発の地を示す小さな碑があった。間宮林蔵が樺太探険のため蝦夷地を出発した所である。林蔵は常陸国筑波郡の人だというから今の茨城県である。江戸に出て、後に近藤重蔵の東蝦夷調査隊員として最上徳内等と共に蝦夷地に渡って測量や絵図の作製に従事した村上島之允に師事し、村上の従者として寛政十一年(一七九九年)北海道に来た。その聞、有名な伊能忠敬と親密な師弟関係を結び、幕府の樺太探険計画に起用されて、文化五年(一ハ○七年)松田伝十郎と共に彼地に渡り、更に再調査を命じられて翌文化六年カラフトから対岸の大陸にまで渡って、カラフトが大陸と地続きではなく一個の島であることを確認し、間宮海峡の発見者となった。間宮林蔵のこの功績を世界に紹介したのは有名なシーボルトである。この渡航の地から遙かに宗谷海峡を越えて樺太(現在はサハリン)の島影が見える筈だが、この時は雲が厚くて、バスの窓からは見えなかった。

 日本最北端の地はここから程遠くない所にあった。宗谷岬が小高い丘陵になって海に迫る所、丘の下の渚に『日本最北端之地』の標識が立っている。北緯四五度三〇分○三秒の地である。宗谷湾は、湾の外縁のあたりに岩礁地帯が連なっているとかで、海岸から見ると汀に打寄せる波は殆んどなく、油を流したように静かに湛えているばかり、遠い眼路の向う、湾のはずれと思うあたりが、俄に白浪が立ち騒いでいるのが遠望される。そのあたりから向うは、もう宗谷海峡らしく、海峡を隔てた彼方の雲が少し切れて、淡くサハリンの島影が見えた。過ぐる日、日露の戦で日本の版図となったが、今度の大戦で再びソ連に奪い返された嘗ての我が領土である。

 本当のことをいうと、日本最北端の地はあまり北の端という感慨を与えない。そこは長い海岸線の一部であり、標識が立っていなければどこという焦点もないのである。九州の南の端佐田岬を訪れた時、断崖が海の中に突き出し、その先に岩礁が一つ二つと海中に続き、その一番先にある岩が九州島の最南端であったが、ここには「ここぞ」と思う岩も砂洲もない。それだけにこの人工の碑は存在の意味が大きいというものだろう。

 碑は北極星の五稜の一片を象(かたど)ったという三角形の門の形の中に、北方を示す鉄製のN字型の標識があり、その足許に日本最北端の地と彫り込んだ黒御影石の碑銘が置かれている。この碑は稚内市政二十周年を記念して昭和四十三年に建てられたというから古いものではない。その以前には民間有志の人の手で作られた、四角いコンクリート柱に「日本最北端の地」と書いた素朴な標柱があったそうである。

 碑の三角の門の部分の表面には、この岬から程遠からぬ東浦・日梨辺の海岸で採取されるジャスパー石がちりばめられていてなかなか美しい。ジャスパー石というのは、いつでもあるというものではなくて、時化の後に、海中から海岸近く打ち寄せられるもので、砂利程度の大きさから、サッカーボールの大きさまで色々あり、中には砂金の混入しているものもあって、赤、青、黄など鮮やかな色彩を持っているという。柳田国男氏の言う、海から寄り来るもの、石神の一種とも呼ぶべきであろう。

 最北端の地の碑の立つ海浜のすぐ後ろは、かなり高い広々とした丘で、丘の上には灯台が立っている。灯台の周辺は草原で、放牧の牛の姿があちらこちらに見えた。この広い放牧地の一角に巨大な彫像があって見上げるものを驚かす。三年前に建てられたばかりの「あけぼの像」で、男女二人が立って腕を組み合い、頭上に昔の頒布(ひれ)の様なものをかざしながら遠くを見つめている。この像の設立趣意書を読んで見よう。

 戦後北海道開発が進むにつれ、宗谷は根釧(こんせん)とともに北海道酪農の一大拠点として、真に乳と蜜の流れる日本の食糧基地に躍進してまいりました。木もなく実りもなく、夏なお寒く風吹きすさぶ熊笹の荒蕪地が、開拓者の手によってその面目を改めたのであります。幾多無数の先人の限りない実験・犠牲によるとは云え、この希望に満ちた大地の誕生を開拓者の子孫の一人として、私どもはともどもに喜び合いたいと思います。

 そして人々は北海道牛乳生産百万トン、乳牛五十万頭突破の記念として二千万円を投じて、この「あけぼのの像」を建てたという。これは地道に北の国の開拓にいどんだ人々の凱歌のしるしであろう。しかし、この像下に立って見はるかす曇り空に流れる風は、八月というのにひどく寒く、暁方の霧雨に濡れた草の問には薄桃色のエゾノコギリソウの小さな花が揺れていて、レインコートを着ていても、その上になお襟巻でも欲しい位であった。


エゾノコギリソウ

 稚内の街の背後の丘の上にある稚内公園に登って見る。丘は樹木に覆われ、樹の間に所々白い花の咲いたのがコンモリ見えるが、近づいて見ると所謂サビタである。サビタは八月の花なのである。かなり急な山坂を喘ぎながら登ると、丘の斜面の木立の上に、この公園の象徴とも言える巨大な氷雪の門が見えて来た。丘の頂きにのぼり着くと、見晴らしの好い広場で、観光の人々が群れている。咲き残りのハマナスが二輪、三輪と見える広場の周辺の生籬(いけがき)の傍に立って見下すと、稚内港が目の下にある。右手に視線を移すと、稚内の街の鳥瞰、それを越えて宗谷湾を抱く海岸線が弧を描き、その突端の丘がつい今し方見て来た宗谷岬である。岬につづく雲の彼方がサハリン島――昔の樺太である。

 氷雪の門は、遠く樺太の島を望むこの場所に立っていた。突然侵入して来たソ連軍の為にいたましい最後を遂げた多数の島民、すべてを捨てて島を後に引揚げざるを得なかった人々、その犠牲と痛哭の思いを慰める為にこの氷雪の門が建てられた。大きな二本の角柱の間に、天を仰いで迄つ女人像がある。像の前に置かれた石に次のような碑文が刻み込まれている。

 人々は、この地から樺太に渡り、樺太からここに帰った。戦後は、その門もかたく鎖された。それから十八年、望郷の念やみがたく、樺太で亡くなった多くの同胞の霊を慰めるべく、肉眼で樺太の見ゆるゆかりの地、この丘に、全国樺太引揚者連盟の賛同と、全国からの心あたたまる協力によって、ここに記念碑を造る。氷と雪の中で、きびしく生きぬいた人々を象徴する女人像、望郷の門、霊石を三位一体とする、彫刻家本郷新先生の力作がここに出来上った。
 この記念碑を氷雪の門と命名した。 

 樺太の島影を重く閉ざした厚い雲と、灰青色に沈んだ波の色を遠望し、この巨大な彫刻を仰いで、これを建設した人々の遙かな思いに心を馳せたいと思ったが、この広場に群がっている観光の人々の喧騒、駈け廻るめまぐるしさ、華やかな服装などが、私の感傷を中断させてしまった。

 しかし、終戦時の悲劇を伝える『九人の乙女の像』は話が具体的であるだけに、聞くものの胸を痛くする。終戦時、侵入したソ進軍に蹂躙された真岡の町の郵便局で、最後まで通信を守り、遂に自決した九人の交換手の慰霊牌である。碑は三ツ折の屏風型に作り、右の面に女性の顔を嵌め込み、左の面に殉職した人達の名を刻み、真ん中には激闘の最中に日本に送った最後の通信文が刻まれている。

   皆さん、これが最後です
          さようなら さようなら

 碑のまわりは美しい花壇である。

(西川 修、1975年)

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