<ライト兄弟初飛行100年>

航空技術ベストテン

 

 ライト兄弟の初飛行以来、この100年間の航空技術について、英『フライト・インターナショナル』誌(2003年12月16日号)が、航空の発展に功績のあった技術、アイディアは良かったがうまく成功できなかった技術、将来の発展に寄与すると見られる技術について、それぞれ10項目ずつ挙げている。

 その中で、航空の発展に貢献した10項目は次の通りである。

1 The gas turbine
2 Pressurisation
3 Global positioning system
4 Stressed skin construction
5 Powered flying controls
6 The supercharger
7 Radio navigation
8 The disk brake
9 Automatic landing
10 Composite helicopter rotor blade

 以下。これら10項目の内容を見て行こう。

ガス・タービン

 ジェット・エンジンは第2次大戦中に実用化された。したがって戦前はピストン機ばかりだったわけだが、たとえば双発ピストン機で1発が止まった場合、片発で飛行高度を維持できるような飛行機はほとんどなかった。また最強のピストン・エンジンは重さが2トンに達したが、それにつけたプロペラから得られる推力は450kg程度で、ごく初期のジェット・エンジン程度であった。

 小さくて、軽くて、強力なタービン・エンジンは、文字通りの原動力として、航空の発展に最も大きな役割を果たした。


フランク・ホイットルの設計になるジェット・エンジン

 与  圧

 気象状態が変化するのは高度6,000m以下の大気圏である。それより上は気象の影響が少なく、スムーズな飛行が可能になる。といって旅客機の場合、高度を上げただけでは乗客の身がもたないし、戦闘機のように酸素マスクをつけて飛ぶわけにもゆかない。おそらく酸素マスクなしで長く飛べる高度は5,400mくらいが限度であろう。

 そこでボーイング307ストラトライナーあたりからキャビンの与圧がはじまった。同機はボーイングB-17爆撃機を基本とする旅客機で、1938年12月31日に初飛行した。乗員5人、乗客は33人。最大の特徴は、旅客機として初めて機内が与圧されたことで、そのために胴体断面は円形であった。これで気流の乱れが少ない高々度の飛行が可能となる。

 製造されたのは10機。うち1機は飛行試験用の原型機、あとの引渡し先は5機がTWA,3機がパンナム、1機がハワード・ヒューズの自家用である。なお乗員の1人はエンジンや燃料の調節のほかに、与圧の管理と調節が重要な仕事であった。

 ところで、与圧が一般化するまで、飛行機の胴体は必ずしも円形断面ではなかった。角形の方がつくりやすく、限られたスペースを有効に使うことができたためである。しかし円形断面でも与圧はむずかしく、費用がかかり、ストレスが繰り返されると、飛行機も人間と同様にくたびれて疲労破壊に至る。このことは史上初めてのジェット旅客機デハビランド・コメットの空中分解事故(1954年1月と4月)の実例に見るとおりである。


ボーイング307ストラトライナー

GPS

 車のカーナビで、多くの人に身近な技術となった。地球上どこでも正確な位置表示が可能で、アメリカの軍事用として開発され、アフガニスタンやイラク戦争で巡航ミサイルのピンポイント攻撃などが本来の用法というべきかもしれない。

 しかし小さくて、軽くて、便利で、安いことから、自動車もさることながら、航空機の航法装置としても使い勝手が良く、航空局はなかなか正規の航法装置として認めようとしないが、補助装置か参考装置という名目で、実質的には広く普及している。

 とりわけ軽飛行機やヘリコプターにとって、GPSはまことに有難い福音である。従来の航法装置が大きくて、重くて、高すぎることから、大型機でなければ使うことができなかったためだが、それゆえ小型機の方は危険にさらされ、事故に至ることも少なくない。

 GPSによる正規の航法システムは、もっと急いで開発すべきであろう。


米国防省の打ち上げた24個の人工衛星
これで全地球をカバーし、どこでも位置を知ることができる

応力外皮構造

 いわゆるモノコック構造で、コックとは卵のカラである。卵のように外板だけで形をととのえ、荷重に耐えられる構造だが、実際はフレーム(円框)や縦通材を加えたセミ・モノコック構造が用いられている。

 1930年代のDC-3で用いられ、一躍普及するきっかけとなった。


DC-3

油圧操縦装置

 操縦装置に油圧を組み込んだのは第2次大戦中である。爆撃機や輸送機が急に大きくなり、戦前の2倍ほどになったため、パイロットの腕力だけでは操縦桿が動かせなくなった。しかし真の効果を上げたのは戦後で、とりわけコメットの操縦系統は調和がとれており、バランスがよく、指先だけで正確な操作が可能だったという。

 油圧装置は、もうひとつ、本来安定性のない航空機でも安定した飛行を可能とするもので、自動操縦も可能となった。

 こうして油圧操縦は大きくて、重くて、複雑な航空機でも操縦可能とするものだが、万一のときは機械的な操縦も可能にしておかねばならない。いずれはフライ・バイ・ワイヤに取って代わられるであろう。


流麗な美しさを持つ史上初のジェット旅客機コメット

スーパーチャージャー

 スーパーチャージャーの歴史は第1次大戦中に開発されたジェネラル・エレクトリック社のターボチャージャーにさかのぼる。その役目はピストン・エンジンの本来の出力を高度の高いところまで保つことにある。

 もしスーパーチャージャーがなければ第2次大戦時の速度650km/hのピストン戦闘機、ダグラスDC-7やロッキード・コンステレーションのような大洋横断旅客機は存在しなかったであろう。


ロッキード・コンステレーション

無線航法

 1920年代、ロンドン〜パリ間を飛ぶ飛行機は空の灯台――目に見える光のビーコンを頼りに飛んでいた。しかし実際は雲があったり、洋上遠くなったりすると頼りにならない。そこへ無線方向探知機が出現して一変した。

 ところが、これも地上施設をつくらなばならず、広範囲にわたって無線網を張りめぐらすには莫大な費用がかかる。また到達範囲にも限界があるため、最後はやはりGPSを使わねばならないであろう。

ディスク・ブレーキ

 前輪式3車輪の降着装置は大型機の離陸性能をいちじるしく向上させた。しかし着陸に際しては逆噴射など大きな力でブレーキをかけなけなければならない。そこでディスクブレーキが、従来のドラム・ブレーキよりも遙かに大きな制動力を発揮するようになった。加えて、ディスク・ブレーキは反応が速いために、滑りのないアンチ・スキッド制動も可能になった。

自動着陸

 霧のかかりやすい空港では必須のシステムである。民間旅客機が初めて自動着陸をしたのは、英BEA航空のデハビランド・トライデント1Cだったが、今や欧州ではカテゴリーVbの自動着陸が日常的におこなわれている。


トライデント1C

ヘリコプターの複合材ブレード

 ローターシステムは高速で可動する部分が多く、機構が複雑で整備の手間がかかり、コストも高い。それを簡潔な構造にして、耐用時間も長く、もしくは無限にしたのが複合材である。そのうえ、従来の金属製ブレードや、その前の木と布製のブレードにくらべて、きわめて高い安全性を実現した。

 最近のヘリコプターは、ほとんど複合材ブレードを使っている。


複合材ブレードを初めて実用化したBO105

 さて、1930年代後半から40年代初めにかけて、世界の緊張が高まると共に軍事技術も大きく進歩した。その中で航空技術に関しては、上に見たように、高々度までエンジン出力を維持できるスーパーチャージャーが完成し、操縦系統に油圧が組みこまれ、与圧キャビンが実現した。

 これらの技術を取り込んだのがボーイングB-17やB-29といった大型爆撃機であった。迎え撃つ日本側は零戦が主力だったが、これらの装備は不充分であった。したがって高度6,000mも上昇すれば力が抜けてしまい、とても闘えるような状態ではなかった。

 日本の本土が、米軍機のために蹂躙され、焼き払われ、ついに戦争に負けたのは、このあたりの技術差が原因のひとつではなかったろうか。

(西川 渉、2004.1.3)

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