<スパイ偵察機>

U-2の記憶

 北朝鮮が日本近海に向けてミサイルを発射するというので、世界中が騒いでいる。何故あんなに騒ぐのか分からない。黙ってやらせておいて、こちらは「寄らば切るぞ」の構えだけをしておけばいいのに、下手に「やめてくれ」などと懇請するものだから、むこうは図に乗っていよいよ本気になるのである。

 日本政府も迎撃体制を準備しているようだが、その準備命令を出したなどという余計な記者発表をどうしてするのか。さらには陸上と海上のどこに何を配備したなどという作戦計画をいちいち公表していいのか。そんなあけっぴろげの軍事作戦など聞いたことがない。

 そこには「どうせこっちには飛んでこないだろう」という軽い気持ちが見える。つまり真剣味が足りないのであって、頼りない防衛相といい部隊配備の公表といい、戦争ごっこか、せいぜい訓練か、本気度が見えないのだ。場合によっては、ほんとにミサイルが撃ち込まれて戦争になるかもしれない。日本政府にその覚悟はできているのか。またもや津波をみくびった東電原発事故の二の舞になるのではないかと、そっちの方が心配である。

 問題のミサイルは、北朝鮮西端にある東倉里(トンチャンリ)から発射されるらしい。これまでは東方の舞水端里(ムスダンリ)というところから撃ったとかで、発射基地が変わったことになる。この東倉里のようすを高空から撮影した写真が何日か前に公開された。

 写真を撮ったのは米空軍のU-2偵察機。その写真から、発射台は高さ50メートルほどあるという判定だが、ミサイルそのものはまだ据え付けられていない。いつ据え付けられるのか。U-2は連日、監視をつづけているのであろう。

 U-2はもはや伝説上の航空機で、とっくに引退したものと思いこんでいた。しかし、それがまだ第一線で飛んでいるのを知ってちょっと驚いた。

 この飛行機は半世紀以上も前、CIAのスパイ偵察機として開発され、冷戦の象徴のような存在だった。しかし間もなく、1960年頃から空軍の所属に変わる。冷戦時代はアメリカ政府にとって、ソ連を初めとする共産圏諸国の動きを見るのぞき穴のような存在であった。それが偵察衛星やグローバルホークといった無人偵察機の出現した今も使われているのは、人の乗った有人機のため細かい情報収集が可能だからで、その偵察能力は衛星や無人機をはるかに凌駕する。したがって今後なお少なくとも2020年までは活用する計画だとか。

 報道によると、U-2偵察機は韓国の烏山(オサン)に拠点を置き、ここから毎日発進しているらしい。飛行高度は21,000m以上。普通のジェット旅客機の2倍ほどの高さだから、迎撃戦闘機で追跡したり攻撃することはほとんどむずかしい。しかも高度が高いので天候に左右されることなく、昼でも夜でも偵察行動ができる。

 しかしパイロットにとっては、余りに高い高度に合わせて、宇宙服にも似た与圧服を着なければならない。さらに離陸の1時間ほど前から血液の中の窒素を減らすために酸素を吸いつづける。どうかすると、最悪の場合には、血液が上空で沸騰することもあるという。

 したがって飛行中は自分自身にも注意しなければならず、飲食はチューブからおこなう。こうしてパイロット1人だけで長時間の飛行をして戻ってきたときの着陸が、これまた難しい。というのは、身体の疲労に加えて、車輪が胴体の下面前後2ヵ所にしかないからだ。

 もともとU-2には4つの車輪がある。うち2つは胴体の前方と後方の下面についており、あとの2つの補助輪は左右の主翼下面にある。この補助輪は離陸と同時に離脱するようになっており、着陸は胴体前後の車輪だけで、左右のバランスを取りながら接地し、翼端を地面にすりつけて停止しなければならない。

 こうした条件のもとで、U-2のパイロット達は4日に1回ずつ12時間の飛行任務にあたる。北朝鮮の陸軍は120万ほどだが、その半数以上が首都平壌の南に駐屯している。U-2は、そのもようを上空から見て、部隊の動きや陣地の増強などを探りつづけている。

 U-2は航続距離を伸ばすために、胴体も主翼もグライダーのように細長い。実際、高空で滑空しながら偵察飛行をすることもある。

 こうしたU-2はロッキード社の秘密工場、スカンクワークスで、かのケリー・ジョンソンの指揮の下、F-104戦闘機の胴体を基本として開発された。初飛行は1955年8月1日。57年から運用開始、89年までに総数86機が生産された

 米空軍は現在31機のU-2を保有し、ほかに2機をNASAが使っている。これらのU-2は無論、半世紀前からいちじるしく進歩した。胴体は3割ほど大きくなり、エンジンが換装され、電気系統が改善され、コクピットも新しいアビオニクスを装備している。

 U-2は、歴史上の話題も多い。1960年ソ連上空を偵察中に撃墜された事件は、東西の雪解けムードを一挙に凍らせ、いっそう冷たい冷戦が続く結果となった。また1962年、ソ連がキューバにミサイル基地を建設中であることを突きとめたのもU-2である。

 最近では、福島原発事故の破損状況を高空から撮影し、その写真が原子炉建屋内の解析に使われた。韓国の烏山から北朝鮮を監視するはずのU-2が、逆向きに飛んで福島上空へきたのは、3月15日の爆発事故の翌日か翌々日と思われる。ニューヨーク・タイムズによると、米政府が原発をめぐる東電の発表に不信感をもったためであり、さらに日本政府や東電が事故の危険性を過小評価し対応が遅れたために被害を拡大させたと見ていたかららしい。

 忘れられないのは、これらの事件より早く、1959年9月のこと、神奈川県藤沢飛行場にU-2が不時着したことがある。この事件は同年12月の国会で「黒いジェット機」として取り上げられ、社会党の飛鳥田一雄代議士が質問に立った。

 藤沢飛行場に降りてきたU-2は黒い胴体の垂直尾翼に449の数字があるだけで、国籍もマークも部隊記号も何も書いてない。しばらくすると海軍のヘリコプター2機が飛来し、おり立った米人がピストルをもって警戒線を張り、見物人を遠ざけ、写真撮影をきびしく禁止した。そのうえ見ていた人の住所、氏名を調べ、尋問を開始した。しかも現場にかけつけた藤沢警察の警官もピストルで追い払われ、現場に近づくことすらできない。被害を調査するためにやってきた調達庁の職員も、なすところなく傍観するのみであった。

「こうして、米人は、日本人をシャット・アウトしたまま飛行機を解体し、厚木の飛行場へと運び去ったのであります。また、U-2の写真を撮影した某君は、米人によって家宅捜索を受けました。……かくのごとく、日本の警察官の立ち入りさえ禁じ、日本国民をピストルの先で追いまくる、勝手に平服の米人が家宅捜索をする、そうした行為がこの日本の国内において許されてよいものか」と、飛鳥田先生カンカンである。

 答弁に立った岸信介総理、藤山愛一郎外務大臣、楢橋渡国務大臣は口をそろえて、あの飛行機はアメリカ航空宇宙局の気象観測機で、伊勢湾台風の観測にあたっていたものというだけであった。

 なお、飛鳥田代議士は質問の最後に、この事件について「権威のある航空雑誌が次のように論評いたしております」と、雑誌の記事まで長々と読み上げた。この「権威ある航空雑誌」こそ当時の『航空情報』にほかならない。

 記事を書いたのは「黒木雄二」さん――いうまでもなく「黒いU-2」を漢字にした戯名で、この国会質問のあと編集部一同みんなで万歳をして飲みに行ったという話を、私は当時の編集長、関川栄一郎さんから聞いたことがある。

(西川 渉、2012.3.29)

 

 

表紙へ戻る