9.11テロとヘリコプター(3)

ヘリコプター界にも深刻な影響

 

 9月11日、同時多発テロが起こったときのもようをもう一度振り返ってみたい。

 アメリカン航空11便、ボーイング767がワールド・トレード・センター1号館(北棟)に突っ込んだのが事の始まりだった。米国東部時間の午前8時48分である。次いで9時3分ユナイテッド航空175便、やはりボーイング767が2号館(南棟)に激突した。

 9時17分FAAがニューヨーク地区の空港を閉鎖、9時21分にはニューヨーク港湾局もマンハッタンに通じる橋やトンネルを通行止めにした。9時24分ブッシュ大統領が「これはアメリカ合衆国に対する攻撃だ」という談話を発表、9時40分FAAは米国土上空の民間航空機すべてに着陸命令を発した。

 9時43分アメリカン航空77便、ボーイング757が、こともあろうに国防の中枢ペンタゴンに体当たり。2分後の9時45分にはホワイトハウスも攻撃される恐れがあるというので職員の避難命令が出された。

 9時59分ワールド・トレード・センター南棟が、攻撃を受けてから1時間足らずで崩壊。10時28分には北棟も瓦解した。この間、10時10分にペンタゴンの一部も崩れ落ち、10時24分にはFAAが米国へ向かっている大西洋便の全機にカナダへ向かうよう指示を出した。そして午後2時30分民間機の飛行がすべて禁止された。

 以上のほかにも10時丁度ペンシルバニア州サマセット・カウンティにユナイテッド航空93便のボーイング757がテロリストに乗っ取られて墜落するなど、わずか3時間ほどの間に衝撃的な事件が次々と起こった。日本からテレビで見ているだけでもアメリカの驚愕と恐怖と緊迫のもようががひしひしと感じられたものである。

一難去ってまた一難

 マンハッタンにある3か所の公共用ヘリポートは、上に見たようにテロ発生から29分後に閉鎖された。それから1か月間、警察、救急あるいは軍用など特別の任務をもった機体以外は、離着陸ができなくなった。そのため西30丁目とウオール街の両ヘリポートで遊覧飛行をしていたリバティ・ヘリコプター社は100人の従業員を一時帰休させた。

 ニューヨーク周辺で活発に飛んでいた社用ビジネス機も飛べなくなった。自家用ヘリコプターなどはスキッドを持ち上げることも認められず、「災害の後のもうひとつの災害」という声も聞かれた。日本ならば「一難去ってまた一難」というところであろう。

 他方、ニューヨークのヘリコプター反対運動をつづけてきた人びとにとっては、彼らの掲げる目標――遊覧飛行反対、ビジネス飛行反対、取材飛行反対、ヘリポート反対という目標が期せずして達成できたといえるかもしれない。

 報道機関のヘリコプターも長期にわたって飛行禁止となった。いわゆる「グラウンドゼロ」――なぜか原爆の爆心地にたとえられるワールド・トレード・センターの崩壊跡が上空からテレビで放送されたのは、事件発生6日目のことである。その名状しがたい灰褐色の瓦礫の山には、多くの人が驚かされた。

 その間アメリカのラジオ・テレビ報道ディレクター協会は「国民の知る権利」を主張し、政府に抗議を申し入れたが、飛行禁止はなかなか解けなかった。結果として1週間後、ヘリコプター会社からチャーターした報道機だけが飛行を認められた。ただし、きびしい条件がつき、放送局は次のような保安報告を出すよう要求された。使用する航空機種と機数、搭乗者の人数と氏名、搭乗者の保安検査の結果、航空機の格納場所、格納中の航空機のロックの状態、警備員の有無といった事項である。

一時的飛行制限の法規定

 こうした飛行禁止は、もとより法規にもとづいて布告される。連邦航空規則FARパート14CFR91.137がその規定で、「災害/危険地域付近における一時的飛行制限」という表題の下に「FAA長官は以下のような目的で一時的な飛行制限が必要と認めた場合は、その空域を指定し、NOTAMを発する」と定めている。

 9月11日も、この規則にもとづいて緯度、経度、高度なの空域を定め、その範囲の飛行が禁止された。禁止の理由または目的は、規定の中に次のような3項目が挙げられている。

 第1に地上または空中の人命および財産を、異常事態の発生に伴う危険から保護するため。第2に災害救助をおこなう航空機が飛行するため安全な環境を設ける。第3に異常事態の発生現場または多数の人びとの関心を呼ぶ催事会場の上空に見物その他の目的で飛来する航空機の不安全な混雑を防止するためである。

 このうち第1の理由はまさしくテロの危険が想定される地域の飛行を禁止するものであろう。第2の理由は大震災や大火災に際して、救助、救急、消防などのヘリコプターが飛ぶために、それ以外の航空機の飛行を禁止するものである。第3は自家用機の多いアメリカらしい規定で、災害現場やイベントを空から見物にくる野次馬を排除するもの。これによってオリンピック上空なども飛行禁止にすることができる。

 同じような法規を、日本では見たことがない。結果として、阪神大震災では報道機ばかりが被災地上空を飛びまわり、肝心の救助や消火がおこなわれなかったというので、ヘリコプターが非難された。もっとも、こうした規則は両刃の剣で、いったん制定されると不必要に厳しく適用したがるのが官庁の習性というもの。アメリカでも従来からFAAに対しTFR(Temporary Flight Restrictions:一時的飛行制限)の乱用ではないかという非難が絶えなかった。

ヘリポートの存続は可能か

 こうしてニューヨークの飛行禁止状態はその後もつづき、ワールド・トレード・センターの周囲5kmの飛行が可能になったのは10月12日である。これでマンハッタンの3か所のヘリポートが使えるようになったけれども、実際に使えるのはFAAの目が届きやすいヘリコプター事業会社の機体だけで、自家用機や社用機の発着は依然禁止されたままであった。そのため多くの企業が抗議の声をあげ、米国東部ヘリコプター協会(ERHC)を通じてFAAに抗議を申し入れた。

 その理由は、マンハッタンのヘリポートが経済活動にとってきわめて重要だからというのである。たしかにニューヨークは便利な都心部に3か所も公共用ヘリポートがあるため、企業トップのヘリコプター利用が多く、金融証券関連の急ぎの文書もヘリコプターを使った宅配便で送られることが多い。

 もうひとつの問題は、この飛行禁止で勢いづいたヘリコプター反対グループが、さらに運動を強化する可能性が出てきたこと。その運動を少しでもやわらげるためには、ヘリコプターを飛ばす方も、いわゆる「フライ・ネイバリー」に注意して、騒音の影響をできるだけ小さくするような飛び方をしなければならない。

 逆に下手をするとマンハッタンの3か所の公共用ヘリポートが閉鎖になりかねない。このうちウォール街ヘリポートは港湾局が2005年まで借用権を持っているので、すぐに事態が変わることはない。ただし港湾局の借用契約が切れたときは、同じ契約が更新されるかどうか、予断は許されない。

 東34丁目ヘリポートについては、特別利用許可の更新手続き中である。このヘリポートは運用時間が昼間だけに制限され、遊覧飛行も禁止されているので、そうした条件が今後も守られるならば許可が出ると見られる。

 西30丁目ヘリポートは、ウェストサイド・ハイウェイをはさんで、道路の向かい側にコンベンション・センターの拡張が計画されている。そのためヘリポートの形状を変えるか、よそへ移動するかしなければならず、FAAとニューヨーク市が、どうすればいいか検討中である。結果によっては多額の改修費や新設費がかかることになるが、FAAや市はそんな費用は負担できないとしているので、ヘリポートの存続自体も怪しくなる。

 こうして9.11テロは、ヘリコプター界にも深刻な影響を与えつつある。

(西川 渉、『WING』紙、2002年2月20日付掲載)


(ニューヨーク西30丁目ヘリポート――2001年3月、進入中のヘリコプターから撮影)

【おまけ】同時多発テロの影響は、もとよりヘリコプターばかりではない。9月11日を境に世界は一変したという人もいるが、まさしく世界中のあらゆるところに影響が及んだ。首謀者からすれば、あのテロは大成功だったということになろう。

 北海道の凶悪代議士も、悪事露見の発端はアフガニスタン支援会議にNGOを出席させるかどうかということだったが、この会議自体テロの後始末としておこなわれたものである。その点で、ビンラディンの策謀は毒をもって毒を制し、虎の威にすり寄るだけのキツネのような代議士の生涯はもろくも挫折した。あの男はNGOや外務職員ではなくて、タリバンをどやしつけるべきだったのだ。 

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