ビジネス機は「タイム・マシン」

 

 ビジネス航空機は、時間節約の意味から「タイム・マシン」などと呼ばれる。それが如何にして今日の状態まで発達し、普及するに至ったか。折りから昨年九月、アメリカ・ビジネス航空協会は創立五十周年の『記念史』を刊行した。これを読むと、ビジネス航空創成期の面白いエピソードがいろいろと出てくる。

 航空機をビジネスに使おうと考えたのは、人類の大多数がまだ飛行機なぞ見たこともなかった時代、一九一〇年当時のマックス・モアハウスという人だそうである。オハイオ州コロンバスで乾物屋を営んでいたが、ライト兄弟の飛行機を雇って、デイトンからコロンバスの店先まで絹織物を飛行機で運んで貰うことにした。むろん宣伝のためで、新聞が事前にそのことを書いてくれたものだから多くの人が詰めかけ、一ドルを払って大きな複葉機が着陸するところを見物したという。

 かつて筆者の勤務先でも、まだヘリコプターが珍しかった一九六〇年代初め、正月早々デパートの屋上に初荷を空輸したことがある。あのときも沢山の買物客が屋上に集まって、振り袖姿の店員からパイロットが花束を貰ったりした。今でも農道空港からは「フライト野菜」などのネーミングで取りたての農産物を軽飛行機に積んで都市へ運んでいる。これには不経済とか無駄といった批判もあるが、すべては航空機に対する人びとの関心を利用した広告宣伝にほかならない。

 こうして乾物屋さんにチャーターされたライト兄弟の飛行機は航空貨物を史上初めて輸送したことでも歴史に記録された。その後も飛行機とビジネスの結びつきは宣伝飛行が多かった。一九一九年ミシガン州の釣具店は第一次大戦後カーチス・ジェニー軍用機を安く払い下げて貰い、機体に魚のような塗装をして宣伝に使った。最近日本でも旅客機の胴体を鯨に見立てて塗装するといった宣伝がおこなわれたことは記憶に新しい。

 多くのビジネスマンが安心して飛行機に乗るようになったのは、一九二七年リンドバーグが大西洋の横断に成功してかららしい。人びとは、あの長距離単独飛行によってようやく、飛行機への疑問を解きはじめたのである。その一人はシカゴの出版社の社長で、スティンソン単葉機を買い入れ、縦横に活用した。そして『マガジン・オブ・ビジネス』という雑誌に企業トップが社用機を使うことの効用について、次のような記事をのせている。

「企業の経営者にとって出張旅行は不可欠の任務だが、時間のかかるのが問題だ。特に最近はビジネスの動きがはやくなり、経営者の時間価値も増大してきた。これまでは利用可能な交通手段も限られていたが、飛行機を使えばシカゴからクリーブランドまで三時間で往くことができる。汽車ならば八時間だから、往くだけで一日が終わってしまう。ところが飛行機を使えば、同じ一日の間にクリーブランドばかりか、アクロン、カントン、バッファローなど、多くの都市を回ることができるのだ」

 まるで最近の解説文を読んでいるようだが、実は七十年前に書かれた文章なのである。

 アイオワ州ニュートンの自動洗濯器メーカーも社長専用の社用ビジネス機を持っていた。三〇〇馬力のライト星形エンジン一基をつけた同機は、一九二〇年代末期に登場した最新の機体で、電動式エンジン・スターター、夜間飛行装置、車輪ブレーキなどをを装備、キャビンはビロード張りのリクライニング・シートをそなえ、机の上にはディクテーション・マシンとタイプライターがあって、女性秘書が社長の口述筆記をするようになっていた。

 また、このビジネス機は電源が充分に用意されていて、キャビンの明かりは夜間飛行中も機内で仕事ができるし、ディクテーション・マシンの作動も可能。地上では機体から電源を取って、飛行機の周りに並べた4台の電気洗濯機を動かし、商品の実演販売ができるようになっていた。

 その後、ビジネス機は新聞社、ラジオ放送局、映画会社に普及し、事件を追う取材のためばかりでなく、ニューヨーク・タイムスなどは刷り上がった新聞をいち早く遠い地域へ送り届けるために飛行機を使ったという。確かにアメリカのような広い国土では、ファクシミリがなかった当時、飛行機による新聞輸送は大いに威力を発揮したにちがいない。

 さらにビジネス機は石油会社に普及するようになり、シェル、テキサコ、ガルフ、スタンダード、フィリップスなどが社用機を持っていた。この中でシェル機の操縦をしていたジミー・ドーリットルは、後に十六機のB-25爆撃隊の指揮官として一九四二年(昭和十七年)四月、初めて日本本土を空襲し国民的英雄となった人物である。

 一九三〇年代なかばになると、ビジネス機の経済効果は広く認められるようになり、パーカー万年筆、ワイルドルート・ヘヤトニック、レイノルズ・タバコ、コーラ、ケロッグなどが採用、航空関連のメーカーはもとより、鉄道会社や自動車メーカーも使うようになった。その経済効果とは、いうまでもなく時間価値であり、いわば「タイム・マシン」としてのビジネス機であった。

 とりわけフォード社は使う方と作る方の両方に熱心で、工場の間を結んで社内便を飛ばす一方、有名なフォード・トライモーター機を開発し、原型機が一九二六年に初飛行した。高翼、金属製の機体で、二〇〇馬力のエンジン三基をもち、二七年から量産に入った。ピーク時には週四機が生産されたほど人気があり、一九三三年までに一九六機が生産されたという。

 これはヘンリー・フォードが息子のエドセルと共に、アメリカにおける飛行機は自動車同様、きわめて重要な交通手段になると考えたからである。事実、フォード社の本拠となったディアボーン飛行場は一九二四年、米国初のコンクリート舗装の滑走路をもつようになり、三年後には米国で初めて無線航法装置が設置された。これもフォード社の開発になるもので、同社は航空機関連の特許も多数取得している。もっともヘンリー・フォードは航空に熱心ではあったが、飛行機に乗ったのは生涯に一度、リンドバーグの操縦するスピリット・オブ・セントルイスに乗せてもらったときだけと伝えられる。

 一九三〇年代には水上機も活躍した。飛行場の施設がない都市でも、近くに川や湖があれば、ビジネス機として便利に使うことができたからで、グラマンやシコルスキーなどの飛行艇が使われた。ニューヨークでもウォール街に近いイースト・リバーで、多くのビジネス機が発着したものである。今では多数のビジネス・ヘリコプターがイースト・リバーに面したヘリポートで発着しているが、その伝統は当時の水上機にはじまったといえよう。

 やがて三〇年代末期、ビーチ、セスナ、パイパーの三大軽飛行機メーカーが登場し、大量のビジネス機を実現した。十年後の第二次大戦終了後は復員してきた多数のパイロットと、軍の放出したDC-3もビジネス航空に活躍した。ベトナム戦の後ではヘリコプターのビジネス利用が伸びた。そして近年は高速・長航続のビジネス・ジェット時代を迎えるに至った。

 こうしてアメリカで発達したビジネス航空は今や世界的、国際的な交通手段となっている。日本も、国土がせまいうえに新幹線や道路が発達しているからビジネス機は不要などとはいっていられない。首相を初めとする閣僚たちが政府専用機で国外出張をするように、少なくとも外国への出張にはビジネス機を使う企業が増えつつある。

 それに伴って大空港のビジネス機受け入れや、受け入れのための施設の拡充など、これまで無視されてきた問題も解決の必要に迫られるようになった。七十年前のビジネス誌が書いたように、時間価値を重視するビジネス行動の有効な手段として「タイム・マシン」の効果を如何に高めるかは、今後わが国航空界の重要な課題なのである。

(西川渉、『日本航空新聞』98年2月5日付掲載)

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