<ストレートアップ>

冒険心と開拓魂と創造力

 

 日本航空新聞社が創立50周年を迎えた。以下は、その50周年記念特集号のために、わずかな字数でヘリコプターの半世紀をふり返るよう依頼されて書いたものである。

 なお同社は、この50周年を機にホームページを開設、「日刊航空通信」の毎日のトピックスを掲載すると共に、トップ記事をメールで毎日配信しはじめた。すべて無料である。関心のある方は同サイトへどうぞ。 

 航空事業の本来はベンチャービジネスである。第1に空を飛ぶこと自体が人類の冒険心に発したものであった。第2に航空には危険が伴う。ちょっとしたミスや油断が大きな惨事を招く。したがって、第3に空を舞台とする航空事業も安全確保のためのコストばかりかかって、利潤が少ない。そのため乱気流の中を飛ぶ飛行機のように、ちょっとした景気の変動にも大きく揺さぶられる。

 とりわけジェネラル・アビエーションの世界で苦闘する中小の航空会社は、ベンチャービジネスそのものにほかならない。どこまで行っても茨の中を行くようなもの。決して見通しのよい平坦な道が開けることはない。事業推進のためには茨の藪を切り開いてゆく開拓者魂も、冒険心と共に必要であろう。

 今から50年前、本紙創刊の頃に再開された戦後わが国の航空界にあって、ヘリコプター事業はまさに藪の中へもぐり込んでゆくような状態から始まった。というのも、戦後生まれのヘリコプターには手本になるような前例がないためで、冒険心と開拓魂に加えて、もうひとつ創造力も欠かせなかった。

 しかし広告宣伝飛行にはじまったヘリコプター事業は、最初の10年間に早くもテレビの報道取材と送電線のパトロールという今に続く2つの基本事業を生み出した。

 次の10年間、1960年代に軌道に乗ったのは農薬散布である。食糧増産、農業の近代化、人手不足の解消などをめざして、80年代までの30年間ヘリコプター事業を支える盤石の基盤であった。近年は水稲に対する空中散布が減ってきたが、環境問題、減反問題、さらには品種改良などが理由となっていて、やむを得ないのかもしれない。

 1970年代から大きく伸びたのは山岳地の建設資材輸送である。特に経済成長に伴う電力需要の増大に応じて、全国に送電線を張りめぐらす建設工事にはヘリコプターが不可欠の手段となった。山岳地帯の尾根に沿って数百メートルおきに鉄塔を建ててゆく工事である。ヘリコプターを使えば森林を伐採したり、道路をつくったりする必要がないばかりか、1時間10回を越えるピストン輸送によって工期は半分から3分の1に短縮される。ヘリコプターのチャーター料が高いといっても、費用効果はさらに高いものがあった。

 70年代にはもうひとつ、石油危機に伴って、わが国周辺の大陸棚で海底油田の開発が盛んにおこなわれた。そこで石油技師をのせたヘリコプターは、沖合の試掘リグに向かって頻繁に往復した。しかし油井の発見は2〜3本にとどまり、北米、北海、中東のような大油田に発展することはなかった。

 石油プラットフォームへの人員輸送は、乗客が特定の石油関係者に限られてはいるものの、一種の定期旅客輸送である。しかも目標物の少ない洋上で、夜間飛行はもとより、多少の悪天候でも飛ばなければならず、計器飛行に近い航法が必要となる。

 この技術と実績は、やがて不特定の旅客を対象とする一般向けの本格的旅客輸送にも生かすことができる。折から、1980年代は日本経済の絶頂期に向かう時期で、旅客輸送関連のさまざまな試みがなされた。象徴ともいうべき事業は羽田〜成田間のヘリコプター旅客輸送だったが、ほかにも全国各地でヘリコプターによるコミューター路線の開設が計画された。また自家用機、社用機も盛んに飛んだ。しかしバブル景気の終焉とともに、例外的な事例を残して消えていった。

 1990年代になると経済状態が下降しはじめ、社会情勢の不安が増すにつれて、危機管理が叫ばれるようになった。そこへ阪神大震災が襲うが、それに対処すべきヘリコプターはなす術を知らず、被災地の火災はいたずらに燃え広がり、その中で多くの人命が失われた。ここから改めて、消防や警察のヘリコプター運用体制が見直されることになる。

 先ずは1県1機の目標に向かって、ヘリコプターの配備が促進された。今では消防・防災機は平均して1県1.5機、警察機は1県2機にまで増加した。この機数が多いか少ないかという議論はともかく、重要なのは質的な運用システムである。もはや阪神大震災の二の舞は許されないであろう。

 2000年代に入るとドクターヘリの運航がはじまった。世界的に見れば、ヘリコプター救急は石油事業に次ぐ規模となっていて、毎年50万の人びとがヘリコプターに救われている。しかるに日本では先進諸国に遅れること20年以上。ようやく緒に着いたばかりではあるが、発足3年を経て7機しか飛んでいない。

 救急専用ヘリコプターは、アメリカの350機、ドイツの60機、フランスの30機、イタリアの20機、イギリスの18機、そして国土面積が日本の1割程度というスイスですら15機が配備されている。日本がいかに遅れているかが分かるはずだが、今年度は1機も増えそうにない。

 改めて、ヘリコプター事業はベンチャービジネスであることを思い起こす必要があろう。平坦な道を期待してはならないし、既存の体制が手をさしのべてくれるわけでもない。そこに求められるのは冒険心と開拓魂と創造力である。

 バブル時代の「成功体験」に酔うなという戒めがあるが、その後の失われた10年間の「失敗体験」に打ちひしがれるのも良くない。日本航空新聞社の50年にわたる冒険と開拓の努力、そこから得られた創造的な成功を目の当たりにして、ヘリコプター業界も負けてはいられないと思う。

(西川 渉、『日本航空新聞』2003年10月9日付掲載)

 

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