<西川修著作集>

私のこと

 とら年の新春を迫えて、まず昔のことから憶い出して見ましょう。

 生れてはじめての寅年
    大正三年西紀一九一四年

 数え年で六才、これより前の時代の記憶はボヤけていますが、この頃から大分ハッキリして来ます。五月でしたか、親父が京都の旅団長から関東都督府陸軍部の参謀長に転任になったので、伴われて旅順に行きました。「旅順開城、約なりて……」の旅順です。関東都督府というのは、後に関束庁となってその長官も文官になりましたが、当時は陸軍の大将か中将が長で名も都督(トトク)と云ったのです。その下に陸軍部とか民政部とかいうのがありました。

 私はここで第一次世界大戦のはじまりを経験した次第です。オーストリアの皇太子夫妻がバルカン半島での大演習を統裁して後、セルビアの小都市サラエボで銃撃されて死んだのがこの年の六月も終りの頃、これが事の起りで八月には戦争がはじまり、連鎖反応的に全欧洲が戦争に巻き込まれ、八月の終りに日本も連合国側に立って参戦しました。(当時イギリス、フランス、ロシア等の国々を連合国、オーストリア、ドイツ、イタリア等を同盟国と言っていました。ロシアは後に革命が起って単独講和して戦列から離れ、イタリアは連合国側に寝返りました)。

 日本が連合国側についたのは明治三十五年に出来た日英同盟のためだと言われていますが、当時日本の陸軍はドイツを範として制式も訓練もドイッを模倣しておりましたから親独的傾向が強く、従って軍の内部には独墺側につくべきだという意見が強かったらしいのです。ところが、「ドイツ軍隊が如何に精強であり、ドイツ国民の忠誠心また如何に強くとも、四面を敵に囲まれ、輸入の道なく、食糧に事欠くような場合に至って、なおかつ戦い続けることは不可能だ。ドイツはいずれ降服の己むなきに至るだろう」と頑強に主張する人があって遂に連合国側に立って参戦することになったのだそうです。

 この主張をした明識達眼の将軍は誰かと申せば、福岡市出身の明石元二郎大将で、この人は日露戦争中はスイスやポーランドにいてロシアの後方撹乱の謀略に従事し、朝鮮の合併の後には朝鮮の憲兵政治の根幹を作り上げ、この第一次大戦勃発当時は東京憲兵司令官だったのだと思います。後に台湾総督となりかの地で客死しました。


明石元二郎大将

 この当時私は幼稚園に通っていましたが、戦争となると途端に無闇にむつかしい歌を教えこまれました。

「臥薪嘗胆二十年………何とかで何とかで………撃て撃て取れ取れ膠州(こうしゅう)湾』というのです。とても意味など分る筈のない歌ですが、最后のレフレインの撃て撃て取れ取れというのは我々幼稚園児にとって大変好みに合う語句ですから、小さな拳をふりまわしたり、何かむしり取るような手付きをしたりしながら高唱したものです。

 そしてこの年の十一月七日は青島を占領しました。膠州湾というのは、青島が臨む小さな湾で所在は中国山東省ですが、明治三十三年の北清事変の結果ドイツがこの湾一帯の永代租借権を得て、いわばドイツ領となっていたわけです。この北清事変よりさかのぼることわずかに五年、日清戦争が終って下関条約によって、日本が清国から遼東半島の割譲を受けることが決まった時、ロシア、ドイツ、フランスの三国が東洋永遠の平和を乱すもととなると言ってその還付を迫ったのが三国干渉ですが、そのロシアは遼東半島の尖端にある旅順を、ドイツは膠州湾に臨む青島を、それぞれ租借して軍港として経営につとめたのですから、当時の日本人は恨み骨髄というわけで、臥薪嘗胆を相言葉として報復の日を望んでいたわけです。

 ロシアに対しては先に日露戦争で一矢を報い、問題の旅順は九十九ヶ年租借ということで手に入れましたが、今度はドイツの番でした。青島陥落の時は街中お祭り騒ぎで、提灯行列が出たり、イルミネーションが作られたりしました。当時まだ弁髪を垂らしていた満洲人たちも竜の作り物などをして街を練り歩きました。

 イルミネーションというのは電燈を沢山つけた飾りです。夏目漱石の虞美人草の中に、不忍池の畔で行われた博覧会のイルミネーションを見に行く話がありますが、建物のまわりに電燈をつけて、建物が浮上って見えるようにします。ネオンあたりと較べたらお話にたらんものですが、その頃は他に見るものがありませんから、ただただ感激して見たものです。旅順のイルミネーションは、山の上にある民政長官の官舎の周囲に作られました。植民地支配の象徴ですね。

 私のことを余り書かない中に紙数が尽きました。またいずれ機会を頂戴して書きましょう。

       (西川 修、九大神経精神医学教室通信、1961年12月)

 

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