世界のヘリコプター救急

  

空飛ぶ医者は昔から

 医者は昔から空を飛ぶのが好きだったらしい。

 1783年11月21日、人類が初めて空を飛んだときのことを憶えておられるだろうか。パリのラ・ミュエット離宮からモンゴルフィエ兄弟のつくった熱気球に乗って舞い上がったのは、ピラートル・ド・ロジエと歩兵少佐のダルランド侯爵であった。この25分の自由飛行をしたロジエが、航空史家によって冒険家と呼ばれ、物理学者と書かれ、化学者といわれるが、実は医者でもあった。

 それから1年余りたった1785年1月7日、イギリスのドーバーからフランスのカレー近郊まで、2人乗りの気球が初めて英仏海峡を飛び渡った。その1人がロンドンに在住していたアメリカ人医師、ジョン・ジェファリーズである。もう1人はフランス人のジャン・ピエール・ブランシャールで、彼は当代随一の飛行家として名声を博した。

 しかし、これら史上初の栄誉を獲得した医師たちは、残念ながら自分の本職と飛行経験を結びつけようとは考えなかったようである。それどころか人類初の飛行をしたロジエに至っては、英仏海峡の横断に先を越された悔しさから1785年6月10日、自分で考案した気球に乗ってフランス側からイギリスへ向かって飛び立ち、墜落死亡した。それというのも水素を詰めた気嚢の下に熱気球をつけて二重構造とし、下から火であぶったために空中で水素が爆発したのである。

 これらの出来事は、航空史の上ではみごとな金字塔だが、医療史の観点からは単なる医者の道楽といえるかもしれない。医療史のうえで初めて病人が空を飛んだのは1870年、普仏戦争のときとされる。

 プロシア軍に包囲されたパリから、まず郵便物を積んだ気球が飛び、のちに人をのせた気球が次々と飛んだ。総計66基が放たれ、58基が無事目的地に降りたが、それらの気球によって100人以上、一説では約155人が脱出したという。この人びとが救急医療史の上では160人の負傷兵ということになっているが、実はパリの103人の政治家や有力者たちが犬や鳩を抱いて乗っていたのであって、負傷兵ではなかったという説もある。鳩は、自分が無事目的地に着いたことをパリに知らせるための伝書鳩であった。 

 

600機を超える救急専用機

 航空機による患者搬送が試みられたのは第1次大戦中である。使用機は2人乗りのカーチスJN-4複葉機で、コクピット後方のスペースに患者1人分のリッターが搭載された。第2次大戦中はもっと大きな飛行機が使われるようになり、総数100万人以上の患者が機内で看護を受けながら空輸された。

 このとき実用になったばかりのヘリコプターも、わずかながらフィリピンや中国の戦場に送られ、最前線で負傷兵の救出にあたった。それが朝鮮戦争やベトナム戦争で本格化する。ヘリコプターで救出された負傷兵は、朝鮮では2万人、ベトナムでは80万人以上に達した。

 これで負傷から治療までの時間も短くなった。第2次大戦中は6〜12時間だったものが、朝鮮戦争では1〜6時間、ベトナムでは35分に短縮され、死亡率も第2次大戦中の4.5〜5.8%が朝鮮では2.4〜2.5%、ベトナムでは1.0〜1.7%に下がった。

 こうした実態を見て、欧米諸国では交通戦争にも同じようなヘリコプター救急を利用すれば、医療施設から遠い僻地の問題も含めて、きわめて有効であるという認識が広がった。車の普及しはじめた日本にも当時「交通戦争」という言葉はあったが、ベトナム戦争に参加しなかったせいか、ヘリコプターを使う考えは育たなかった。

 かくて現在では下表のように、世界中で600機を超える救急専用ヘリコプターが飛び、兼用機を合わせると約900機のヘリコプターが日常的な救急業務にたずさわるようになった。このイギリス製の表で、日本の救急機はゼロと勘定されている。

 これらの救急ヘリコプターが、専用機だけでも、1機平均で年間700人の救急に当たるとすれば、ヘリコプターで救助される人は42万人に達する。その1割が、ヘリコプターがなければ命を喪くしたかもしれないと考えると、年間4万人以上がヘリコプターで命拾いをしたことになる。それ以外にも、生涯寝たきりになるはずのところ、早期に退院して社会復帰ができたというような人が多いであろう。

 ちなみに下表の機数は今後なお増加の傾向にある。というよりも、ヘリコプターの新しい需要分野として積極的に機材を増やしている国が多い。

 

主要国の救急ヘリコプター数

国   名

機      数

専 用 機

兼 用 機

アメリカ

350

100

ドイツ

43

17

オーストリア

34

――

フランス

28

24

イギリス

22

46

イタリア

19

18

スイス

17

23

スペイン

17

8

南アフリカ

11

1

ニュージーランド

8

4

カナダ

7

37

オーストラリア

6

2

フィンランド

6

5

スウェーデン

5

1

その他

29

43

合   計

602

329

  [出所]英AIR AMBULANCE HANDBOOK, 1998年8月

 

 

イタリアのヘリコプター救急

 さて、ヘリコプター救急を日常的に実行している国――たとえばアメリカ、ドイツ、フランス、イギリス、スイスなどについては、これまでも本誌その他で紹介してきたので、ここではそれ以外の国のもようを見てゆくことにしよう。

 イタリアでは昨年夏の時点で、ヘリコプター会社7社が19機の救急専用ヘリコプターを運航していた。そのひとつ、エミーリア・ロマーニャ州のヘリコプター救急システムは州政府の予算でまかなわれているもので、州都ボローニアを中心基地とし、その西北方85kmのパルマと東方76kmのラベンナにある3か所の救急救命センターに1機ずつのヘリコプターを置いて緊急出動体制を敷いている。

 運航に当たるのはフィレンツェのヘリタリア社。ボローニアの機体はBK117B2。あとの2か所はA109K2を使い、それぞれにパイロットと整備士がついている。

 出動要請がかかると、パイロットが機体に飛び乗ってエンジン始動の操作をはじめる。その間、フライト・ナースが目的の現場や事故の詳細を聞く。そして出動要請から4分後、ヘリコプターは地面を離れる。

 同乗する医療スタッフはドクター1人とナース。医師は救急専門医で、ナースも救急について2年以上の経験を持つ。そのうえヘリコプター搭乗のための特別訓練を受け、飛行中も各方面への無線連絡に当たる。医療スタッフとパイロットは全員が携帯用の無線機と電話器を持ち、誰でもどこでも交信することができる。ヘリコプターには3台のVHF無線機が装備されている。

 患者搬送用のストレッチャーは通常1人分。ただし月に一度くらいは同時に2人の搬送が必要になる。事故現場への航法はGPSを使用する。ヘリコプターが現場に着陸すると、医師とナースが降りて救急治療に当たる。その間、ヘリコプターはエンジンを止め、パイロットはヘリコプターの周囲を警備、必要があれば医療スタッフを手伝う。そして応急手当の結果、患者の容態が安定したところでヘリコプターにのせ、離陸する。

 このような救急ヘリコプターの運航がはじまったのは1995年。待機の時間は午前7時半から冬は午後4時半まで。夏はもう少し長くなる。パイロットとナースは12時間勤務である。夜間飛行はしていない。かつて1か月ほど、24時間の出動体制をとったが、パイロットは2人乗務が必要だし、ほかにも費用がかかるので当分は昼間だけの待機にした。ただし海難および山岳遭難の場合は、夜間でも特別に出動する。

 1995〜97年の3年間にボローニア機は5,985回の出動をした。1年間に丁度2千回である。うち5,537回は主として交通事故の現場へ出動、残りの448回は病院間搬送である。現場までの所要時間は、離陸前の4分を入れても8〜12分。着陸現場は、73.1%が患者の位置から100m以内であった。現場での応急治療時間は平均22分。 

10分以内に遭難救助

 北欧でも救急ヘリコプターが飛んでいる。スウェーデンでは3社が5機を運航しているが、ストックホルムのシステムは1日24時間、1年365日、全くの休みなしで出動体制を敷いている。機材は、従来BK117であったが、99年2月から新しいEC135に変わった。搭乗するのはパイロット1人、医師1人、パラメディックまたはフライト・ナース1人で、パラメディックは無線と航法も担当する。ただし医師は午前7時から午後9時までの勤務である。

 年間の出動回数はおよそ2,000回。担当範囲は長さ200km余、幅110kmの地域で、大半は交通事故などの現場出動である。

 ある冬の日の朝、このヘリコプターはストックホルム近郊の病院から別の病院へ患者搬送のために離陸した。すると間もなく湖水の氷の割れ目にスキーヤーが落ちたという無線連絡が入った。

 運良くヘリコプターは、その湖の上空にあった。直ちに高度を下げ、スキーヤーの落ちた氷の穴を探し、現場に到着した。連絡を受けてから1分も立っていない。穴の上でホバリングをしながら、パラメディックが体にハーネスをつけ、右スキッドに足を降ろして機外に乗り出した。

 そして、湖水の中でおぼれかけているスキーヤーの腕をつかみ、前方のクロスチューブに巻きつけて氷の上をゆっくりと移動、岸の近くの氷の固いところまで引っ張ってゆき、着陸した。そして弱っていたスキーヤーを機内に引き揚げ、医師が応急手当をする。

 ヘリコプターはそれから大急ぎで病院へ向かった。病院に到着したときは遭難を知ってから10分もたっていなかった。遭難救助としては、おそらく最も迅速におこなわれた記録であろう。しかも、そのスキーヤーはがんの研究で有名な大学教授だった。彼は2時間くらいの後にはすっかり元気を取り戻した。のちに、この救助に当たったヘリコプター救急隊はスウェーデン政府から栄誉ある表彰を受けている。 

ノルウェーでもヘリコプター救急

 スウェーデンの隣り、ノルウェーもヘリコプターによる広範な救急活動を展開している。発端はスウェーデンよりも早く、1978年ノルウェー航空救急財団が国民からの寄付をつのってはじまった。現在では76万人の寄付によって、年間およそ400万ドルの資金が提供されている。

 ノルウェーには山岳地とフィヨルドが多い。そんな地域で急病人が出たり遭難があったりすると、ヘリコプターがなければ救助隊の到着までに何時間もかかる。そのためノルウェー政府は1988年、ヘリコプター救急サービスを国民の健康に関する重要な政策のひとつとして取り上げ、現在では総額4,000万ドル相当の費用を国の予算と社会保険から出して、日常的な救急車と同じように扱っている。

FACE="明朝"> これらの経費でまかなわれているのは、11か所の病院を拠点とするヘリコプター救急基地と、固定翼機の基地5か所。いずれも24時間の出動体制である。

 救急ヘリコプターのパイロットの資格は最低1,000時間以上の機長経験がなければならない。救急財団の子会社としてヘリコプターの運航に当たっているノルスク・ルフトアンビュランス社(NLA)の場合は2,000時間を最低限とし、1998年からは計器飛行資格も必要とした。なお夜間飛行は、パイロット2人で飛ぶ。

 救急隊員にも航空の知識が要求される。NLAの隊員は自家用パイロットの学科試験に合格できるくらいの知識を身につけなければならない。また社内では実践的な航法訓練をおこない、ヘリコプターの構造や技術についても実機について教えている。さらに山岳遭難の救助にそなえて、隊員には登山訓練を受けさせ、また救急車の運転ライセンスを取らせる。これら救急隊員の半数が正看護婦である。

それでも飛ぶ救急ヘリコプター

 世界のヘリコプター救急は、しかし、このようにうまく行っているところばかりではない。むしろ費用負担の問題を筆頭に、安全、騒音、ヘリポート、機材、人材などの課題をかかえて、苦難の道を歩んでいるプログラムの方が多いかもしれない。

 その一つ、南アフリカではヨハネスブルグを拠点とする「フライト・フォー・ライフ」システムが1998年10月、経費の高騰を理由に政府の経費負担が打ち切られてしまった。このヘリコプター救急は1986年にはじまったもので、1990年からは夜間飛行もするようになっていた。

 機種はBO105ヘリコプター。1999年4月現在、依然として飛んでいるが、資金不足のために1日12時間の昼間だけのサービスに短縮された。アフリカでは交通事故にはヘリコプターが不可欠。政府が手を引いたあとも、拠点のヨハネスブルグ病院は大企業などに要請して資金集めをしている。これまでメルセデス・ベンツなど4社が寄付を承諾したが、必要経費にはとても及ばない。一部の費用を患者負担にすることも考えられているが、患者の大半は貧困層の黒人で、医療保険にも入ってなく、ヘリコプター代金の回収はできないと見られている。 

ヘリコプターがあったなら

 もうひとつ、カナダ・ケベック州ではいまだに救急ヘリコプターがない。専門家の間では必要性が訴えられ、1997年6月パリで2日間にわたって開催された「エア・アンビュランス会議」では筆者も問題を指摘する講演を聴いた。今のままではモントリオールですら時間がかかり、仮りに命が助かっても生涯を寝たきりで過ごさねばならないという悲痛な内容であった。

 では、ヘリコプターがあるのとないのでは如何なる違いが起こるのか。実際にあった交通事故を例に取ると、午前11時30分モントリオールから100km離れた高速道路で事故が発生、30歳の男性が大怪我をした。20分後、救急車が到着して、押しつぶされた車の中から10分ほどかかって怪我人を引き出し、救急車に収容して走り出した。20分後、患者はその地域の小さい病院に収容された。医師は1人だけで、救急や外傷の専門医ではない。彼は4時間ほどかかってレントゲン検査や血液検査をしたのち、その結果を電話で外傷専門の医師に相談した。

 専門医は、患者を外傷センターに送るべきだと答えた。外傷救急センターに連絡すると、患者がいっぱいで引き受けられないという返事。次の救急センターに連絡して、やっと引き受けて貰うことになった。

 15分後、この地域に1台しかない救急車が迎えにきた。看護婦が付き添って送り出すことになった。患者の容態は一応安定しているが、看護婦は生命維持の訓練を受けたことはなかった。

 モントリオールまで55分。救急救命センターに到着したときは、患者の意識が薄れ、右目の瞳孔が開き、腹膜の開腹手術が必要になっていた。直ちに手術がはじまり、脳外科、泌尿器科、整形外科、その他の治療を含めて、全てが終わったのは事故から9時間45分後のことであった。

 この患者は、それから2か月後リハビリ・センターに送られ、4か月後、両親の付き添い看護が不要ということになり、半年後、重度の障害者として退院した。いつになったら社会復帰ができるか分からないままである。 

シミュレーションをしてみると

 そこで、もしもこのときヘリコプター・システムが動いていたらどうなったであろうか。シミュレーションの結果は次の通りである。

 午前11時30分、モントリオールの郊外100kmほどの高速道路で事故が発生、30歳の男性が大怪我をした。20分後、救急車が到着して、押しつぶされた車の中から10分ほどかかって怪我人を引き出し、救急車に収容して走り出した。

 このとき救急車から、ヘリコプター派遣の要請が発せられた。そして20分後、救急車が近くの病院に到着すると同時に、高度の訓練を受けた救急専門医が乗ったヘリコプターも到着、その病院の設備を使って容態安定のための初期治療をおこなった。それから直ちに患者をヘリコプターにのせ、救急救命センターへ飛び、15分後に着陸した。

 飛行中、患者の意識は薄れ、右目の瞳孔が開いてくるのが分かったので、同乗の医師は無線で病院に連絡、到着と同時に治療ができるような手はずをととのえた。こうした迅速な処置の結果、患者は15日後にリハビリ・センターに送られ、6か月後には完全に直って元の職場で仕事をしていた。

 ヘリコプターが飛んだ場合の物語は仮想のものだが、ヘリコプターが日常的な救急体制に組みこまれていないことによる悲劇が、ケベック州だけのものでないことはいうまでもないだろう。

(西川渉、『航空情報』、99年11月号掲載)

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