<野次馬之介>

皇居の桜

 皇居の桜を見に出かけた。10万人に及ぶ大群衆の中へ、わざわざ跳びこんでゆくなど、恥ずかしながら野次馬根性丸出しである。

 わが家を出て大手町まで1時間足らず。駅から皇居へ向かう大通りに出ると、早くも大変な人の流れで、警察官がピーピー、ピーピーと絶え間なく笛を吹きながら交通整理をしている。なにしろ大勢の人が広い通りを渡りきらぬうちに信号が赤に変わり、左右からやってくる車の群れも、これまた警笛を鳴らして大変な騒ぎである。

 その大通りを大手門と思われる方向へ渡ってゆくと、前方は柵で止められ、人の流れはそこで左折して皇居前広場へ向かっている。その流れに入って歩きながら、皇居の方を見ると遙か彼方まで延々たる長蛇の列――というよりも大蛇の波が続いていて、一体いつになったら向こうに見える石垣や門のそばへたどり着けるのか、絶望的な気持になる。

 一寸きざみで足を運びながら背中を押され、腰をこづかれ、尻を突つかれる難行苦行。同行の家人は「もう帰りたい」などと言い出すが、ここまできては意地でも帰れぬ、のではなくて濁流のような渦の中で、とても抜け出すことなどできない事態に巻きこまれている。


世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし

 昔、1954年(昭和29年)というから丁度60年前の正月2日、この辺りで「二重橋事件」が起こった。無論まだ昭和天皇ご在位の当時で、一般参賀に押し寄せた群衆が将棋倒しとなり、16人が死亡、65人が重軽傷を負った。家人はそれを思い出したらしく、歩いていて「なんだか怖い」という。

 あの事故は群衆の中にいたお婆さんが転倒し、その体の上に多数の参賀者が将棋倒しとなったもので、今日のわれわれの周囲も殆ど年配者ばかり。人出の多い休日を避けたつもりだったが、それが裏目に出て誰が倒れてもおかしくない状況である。現に、ここに並んでいる間に救急車が2〜3度、警笛を鳴らしながらやってきた。

 ただし、二重橋事件では大群衆をロープでせき止めておいて、それを不意に上げたものだから、人びとが一斉に駆けだし、その中の老人が転んだのである。今日も2つの列を交互に前進させるためにせき止めるような場所もあったが、周囲の警察官が声を枯らして「ゆっくり、ゆっくり」と叫んでいる。それに休日ではないから若い人は少ない。人を押しのけて駆け出しそうな者もいないわけではないが、馬之介としては恐怖心は感じなかった。

 余談ながら、あの事件は、その後の群衆整理のやり方を考え直すきっかけとなった。しかし2001年、明石の花火大会に押しかけた見物客が狭い歩道橋の上で将棋倒しとなり、死亡11人、重軽傷247人を出す大惨事が起こった。東京の群衆整理の手法も兵庫県までは伝わっていなかったとみえる。

 おまけに、二重橋の事故をマスコミが「将棋倒し」と報じたことから、日本将棋連盟がそんな表現を使われては迷惑といった要望を出した。この言葉がいつから使われてきたかは知らぬが、明石の事故で初めて使われたはずはない。ごく普通の日本語である。それをやめろというのだから将棋連盟も了見が狭い。それならば何といえばいいのか。「ドミノ倒し」という言葉もあるが、今度はドミノ連盟が怒るのではなかろうか。


春のさかり 城の石垣 紅添へて

 何年か前、ドイツADAC航空救助事業部の最高責任者スザンヌ・マツケアールさんとアメリカのヘリコプター救急専門医ケビン・ハットン先生を案内し、はとバスで東京見物をしたことがある。そのときは大手門から皇居に入ったため、今日も大手門から入るとばかり思いこんでいた。したがって地下鉄は大手町駅で降りたのだが、われわれの進んだ跡を、あとから地図でたどると、大手町から霞ヶ関の方向へ延々と皇居前広場を縦断し、馬場先口からきた道路とぶつかるところで右折、お堀の前で再び右折、二重橋を左に見ながら蛤濠へ向かい、濠にぶつかるところを左へ折れて坂下門へ向かったことになる。

 とすれば、地下鉄は二重橋前で降りた方がよかったかもしれない。ともかく大手町からの距離が最長で2キロほどか。通常ならば何でもない距離だが、坂下門の手前で保安検査を受けるところまでたどり着いたのは、1時間以上も経ってからであった。

 そこで手荷物検査と身体検査を受け、やっとのことで御門の中に入ると、やや広くなっていて、正面に宮内庁の庁舎がある。ここは昔、大学生の頃に来たことがある。母方の祖父が自著『神道の本義とその展開』(平田貫一、神道史学会刊、昭和34年10月19日)を天皇陛下に献上するから随いてくるようにといわれ、一緒に行ったのである。まさか陛下の御出ましはなかったが、宮内庁の偉い人が出てきて、本を受け取った。

 それまで応接室で待っている間、卓上の煙草盆に菊の御紋のついた楕円形のタバコが並んでいた。2〜3本をそっと失敬し、持って帰って宝物のように蔵いこんだが、余り長く置くと湿ったり、カビが生えたりすると思い、何日か経って火を点けて吸ってみた。日本のタバコにはないような味がする。あとで知ったのはドイツのゲルベゾルテの味で、品物もそうだったのではないだろうか。

 そういえば明治の御代に、阿波の蜂巣賀侯爵が宮中に上がり、待っている間に卓上のタバコをポケットに入れたことがあったらしい。あとから入ってこられた明治帝がどうして気づいたのか「やはり、血は争えぬのう、蜂巣賀」と言って、にやりと笑ったとか。なぜ露見したのだろうか。ひょっとして応接用のタバコは、常に一定の本数を置くような決まりがあったのかもしれない。

 不肖馬之介のときもそうだったとすれば、宮内庁の偉い人は気がついていたかもしれぬが、おとがめはなかった。それにしても、祖父がなぜ学生の孫を皇居に連れて行ったのか。恐らくあれは、馬之介が国家公務員試験上級職に合格した直後だったから、役所のひとつでも見せておこうと思ったのではないか。

 というのは祖父自身、東京帝大から明治期の農商務省に入り、典型的な役人の道を歩んできたので、孫が役人になるのを内心喜んでくれていたのかもしれない。当時そんなことは考えもしなかった馬之介は、若者にありがちな青臭い考えにとらわれて役所からの呼び出しにも応じることなく、祖父の心孫知らずというべきか、今にして不孝者だったと思う。


しづ心なく花の散るらむ

 さて、宮内庁の前を通って、乾通りを北上するのが今日のメインイベントである。道路の両側に何百メートルか桜並木が続くが、なにしろ大勢の人が押し合いへし合い、ただもうガヤガヤと騒がしいだけで、風情も何もあったものではない。坂下門から乾門まで、桜の並木というより人の波間を泳ぐようにして進むこと、およそ1キロ。出発点の大手町からすれば3キロほどの苦行だった。さらに乾門を出て地下鉄半蔵門までの距離を考えると合計4キロほどの散策――ではなくて、強行軍と言いたい。

 帰宅して夕刊を見ると「両陛下、お忍び散策」という見出しが目についた。皇后さまと共に15分ほど、乾門のあたりで枝垂れ桜や染井吉野をご覧になったらしい。また前々日の5日には宮内庁3階の窓に隠れて詰めかけた人びとの様子をご覧になったとか。「天皇の覗き見」とでも言おうか。いささかユーモラスな感じがする。

 ただし、怪しからんのは新聞の表現で、天皇陛下が「散策した」とか「戻った」とか「眺めた」とか、陛下に対する畏敬の念がどこにも見られない。最近の学校は敬語というものを教えないのだろうか。いや、教わったけれども、それを使わないのであれば、その記者と新聞社はもっと怪しからん。

 それはともかく、馬之介の出かけた4月7日までの4日間で皇居のお花見に訪れた人は31万を超えたという。この一般公開は、天皇陛下が昨年80歳(傘寿)の誕生日をお迎えになったことを記念して4日から8日までおこなわれたもの。予想を大幅に上回る人出になったらしい。

 そして今年は、紅葉が色づく頃にも秋の一般公開がおこなわれると聞く。ついては、陛下の傘寿や卒寿に限らず、春のお花見と秋の紅葉狩りを毎年恒例の行事にしていただきたいものである。ただし参加の人数は、希望者をあらかじめ抽選で絞るなど、もう少し制限するのがよろしかろうと思う。

(野次馬之介、2014.4.9)

 

 


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