<晴天乱流>

与圧と湿度

 近頃は歳のせいか、アメリカやヨーロッパへの旅行がいささかきつくなった。飛行機の中に10時間以上も閉じこめられるのは、単に狭い座席に縛りつけられているばかりでなく、気圧や湿度など、生理的な環境条件にも関係があるらしい。

 1万メートル前後の高空を飛ぶジェット旅客機の与圧は、通常2,400mの標高に相当する気圧に保たれている。高山病とはいわなくても、体内のガスは3割ほど膨張する。上昇や降下の際に耳が詰まったり痛くなったりすることで体験する通りである。

 このキャビン与圧を、ボーイング社は新しい7E7旅客機で標高1,800m相当まで高めると発表した。まことに有難いことで、少しでも楽にして貰いたいと思う。

 さらに7E7は機内の湿度も高めるらしい。どのくらいまで上げるのか数字は分からないが、通常1万メートルくらいの高度では湿度15%程度だそうである。旅客機の中もそのまま同じ湿度になるようで、これでは砂漠の乾燥度である。おまけに気圧が低いので身体の水分はどんどん蒸発する。脱水症に近い状態になるのではないだろうか。

 そのために喉が渇くから水を飲まなければならない。ところが、私のような飲兵衛はついビールだのワインだのと、アルコールを注文することになる。これでは酔いの回りも速くなって、ますます脱水状態になる。

 近頃はそんな暴飲はしなくなったが、若い頃は外国旅行となるとつい嬉しくなって、水割りを呑みつづけ、あるとき手洗いにゆこうとして歩き出した途端に倒れてしまった。アルコールのせいか、気圧と湿度のせいか、あるいはもっとほかの病的な原因があったのか分からないが、機内の通路に寝そべったまま、意識はもうろうとしているのに、妙に気持ちが良かったのを覚えている。

 そこへスチュワーデスがとんできて、酸素ボンベを持った人があらわれ、顔にマスクを当ててくれた。そして毛布をかけられて15分たったか30分たったか、酸素を吸った後は無事座席に戻ることができた。

 旅客機の中の健康問題は、いわゆる「エコノミークラス症候群」として、よく知られている。この病気は、長時間にわたって同じ姿勢を保持した場合に起こる。原因は血流が停滞して脚部の静脈に血栓ができるためで、その血栓が血流と共に心臓や肺などに届き、血管を詰らせて意識障害や呼吸困難を引き起こす。最悪の場合には死にいたるというものである。

 難しくいうと「深部静脈血栓症」(DVT)だそうだが、日本旅行医学会は「ロングフライト血栓症」という呼び名を提案している。日本での発症の頻度は、航空医学研究センターの調査によると、1993年から2000年までの8年間に航空旅客の中で44例が確認され、そのうち4人が死亡した。この人たちに共通する特徴は9割が女性で、平均年齢が60歳前後。平均搭乗時間は12時間、半数が飛行中一度も席を立っていないというのである。

 1,300km以上の飛行では、1割の人に血栓ができていたという外国の調査もある。無論ごく小さいもので、ほとんどは間もなく溶けてしまうが、これが溶けずに大きくなると異常をきたす。肥満の人やガンの経験者も血栓ができやすいそうである。

 またアルコールやカフェインもよくないというから、機内ではお酒はもとよりコーヒーや紅茶も避けて、もっぱら水を飲むのがいいのだろう。最近は国際線で水の入ったボトルをよく配るようになった。

 そのうえで手足と体を動かす。動かし方はつま先を上げたり、かかとを上げたり、キャビン前方のテレビで教えてくれる。体を動かすのもいいが、私のようなものぐさには病院の入院患者に使うフットポンプが有効ではないかという話を聞いた。これは靴のように足先に巻き付けた布製のベルトの中にゴムの袋が入っていて、電動でふくれたり縮んだりする。つまり、坐ったままで歩行と同じ条件を作り出すわけである。旅行用具としても売り出しているかもしれない。


窓を大きくして、与圧と湿度を上げるという7E7の機内想像図

 旅客機の開発にあたって、最近は速度性能の向上は余り問題にならなくなった。亜音速のジェット旅客機としては限界に近づいたからで、これ以上に上げようとすると、あの構想だけに終わったソニック・クルーザーのようにコストばかりかかって、経済的に成り立たない。それならばいっそ超音速にすべきだということになるからだろう。

 そこで競争相手に抜きんでようとする性能競争は、いきおい航続距離に向かう。航続1万キロはおろか、15,000kmを標榜する機材も登場し、地球上どこからどこへでも自在に飛べますという。しかし、そうなると乗客の苦行も長くなる。ということは、まさしく「ロングフライト血栓症」が増えるわけで、飛行機に乗る人はよほどの覚悟が必要ということになりかねない。

 その意味でボーイング7E7の与圧と湿度を上げるという設計方針は有難い。その開発のために20時間のシミュレーション実験に参加した人びとは、終わったあとも快適で疲労感がなかったという。さらにエアバスA380のような超巨人機も、その大きさを生かして体を動かしやすい座席配置にしてもらいたいと思う。

 もっともDVTの発症は飛行機のエコノミー客に限らない。手術後の絶対安静患者やタクシーの運転手にも見られる。パソコンに向かって長時間すわっているのもよくないというから、私もますますウォーキングに精を出さずばなるまい。


A380のファーストクラスに提案されているバー。余り飲みすぎないようにしよう。

(西川 渉、『航空情報』誌2004年11月号掲載)

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