怖がられる郵便局長

 先週公表された行政改革会議の中間報告で、「郵便事業は国営のまま」ということになったのは、まこと御同慶に堪えない。われわれ子どものときから慣れ親しんできた郵便局が、そんなに簡単になくなってしまったのでは、心の中に空洞ができたような感じになるであろう。

 だが、その空洞感や虚脱感をさておけば、郵便局の言い分にも随分おかしなところがある。郵便局のモットーは「あまねく公平なサービス」というのだそうだが、私は聞いていて吹き出しそうになった。おまけに「今のようなきめ細かいサービスは民間にはできないだろう」という言いぐさである。

 こういうことを言う郵政省の幹部が心底そう思っているとすれば、気が狂っているか、日本語の分からない似非(えせ)日本人というべきではないのか。最近は中央省庁の役人までが、かつてのオウム狂団の広報部長のように実態の伴わないことを平気で言うようになった。口先だけの冗舌で行政をやっていこうというのだから、これはますます行革の必要を感じさせるところである。

 たとえば同じ小荷物を送るにしても、民間の宅配会社は取りにきてくれるけれども、郵便局はこちらから窓口まで持って行かねばならない。窓口に坐って待っているような商売はきめ細かいサービスとはいわず、昔から殿様商売といいならわしてきた。そのうえ郵便局は独占的だから切手代も高い。特に非定形となると数字が一挙に2倍を超えて3倍になることもある。小包み料金も、宅配便との競争がなければ今よりはるかに高くなったであろうことは、かねてからしばしば指摘されてきたところである。

 配達のやり方も相当に怪しい。1戸建ての家は1軒ずつ郵便受けに入れてくれるが、マンションやアパートは建物の入り口にある郵便受けに入れて行くだけである。それに対して宅配便は、入り組んだアパートの中でも1戸ずつ届けてくれる。

 それはまだいいとしても、私の勤務先が入っている高層オフィスビルでは、地下の郵便局に私書箱と称する棚があって、ビルの中の企業はいちいち取りにゆかねばならない。大量の郵便物をこちらから手押し車を押して午前と午後の2回ずつ取りにゆくのである。最近の若い娘はそんな労働は嫌がるから、そのわがままに負けて専門のアルバイトを雇っている大会社も存在する。

 郵政省は、どんな山奥でも、どんな離島でも配達しますというが、東京という大都会の真ん中ですら配達してくれないのである。まず基本的なことをやらずして山間僻地の特殊な例ばかりを持ち出すのはおかしい。そこへ行くと宅配会社はオフィスの中にまで入ってきて集配してくれることはいうまでもない。もちろん離島でも僻地でも、たとえば村の雑貨屋さんに委託するなどして、ちゃんと配送している。

 雑誌や新聞のような定期刊行物だって、郵便局は「第3種郵便物認可」などという小むずかしい手続きを経なければ運んでくれない。余りに条件がむずかしいので、認可を諦めて「書籍小包」にすると、中に手紙を入れるなとか、まとめて500冊も送ろうとすると、ここへ持ってきて一つずつスタンプを押せとか、中味が見えるように封筒の一部を切れとか、きめ細かいサービスというよりも小うるさい役所そのものである。それでいて「爆弾小包」などはちゃんと届けてくれるから恐ろしい。

 それに対して、最近は宅配会社も定期刊行物を扱うようになった。聞けば郵便局よりも安く、しかもうるさい条件は何もなく、手押し車を押してオフィスまで取りにきてくれるのである。そして封筒の数を数え、金額を計算して伝票に記入して置いてゆく。支払いは1か月後である。郵便局に行って支払いは1か月後などといったら叱られてしまうだろう。

 今回の行革中間報告で、郵政3事業は簡易保険を民営化し、郵便貯金は将来の民営化に向かって準備を進めることになった。ところが、残った郵便配達だけでは郵便局の経営が成り立たないという。今のような殿様商売では当然のことである。それならばいっそのこと、郵便も民営化してはどうか。3事業まとめて運営すれば民間企業としても成り立つであろう。郵便事業だけを残しておくのは却って罪つくりだし、赤字が出ればまたしても税金で補填させられるおそれがある。

 こうした考え方に対して、自民党郵政賊は反対の動きを強め、郵便局長を怖がる同調者を巻きこんで「行革会議を解体しろ」などと言っているらしい。

 私はそこで、賊議員の誰が反対しているのか、1人ひとりの賛否をアンケート調査によって明らかにすると共に、調査の結果を紙面に掲載するよう新聞社に頼みたい。いっそのこと郵政問題ばかりでなく、行革の全般に関する各議員の考え方と行動を紙面の上で公表し、次の総選挙では公報と一緒に配ってもらうといいのではないか。面白い結果が出るにちがいない。

 とにかく議員諸公ですら怖がるような郵便局長である。「きめ細かいサービス」などは望むべくして無理というもの。冒頭の祝辞とは逆の結論になってしまったが、早いとこ民営化するにしくはない。公平とかきめ細かいなどというのは、その後の問題である。

(西川渉、97.9.7)

 

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