臓器移植の資格

 

 昨夜のテレビで高知赤十字病院のお医者さんが怒っていた。脳死判定の問題でマスコミが騒ぎすぎる。臨終の床にある患者さんも、悲嘆に暮れる家族の心情も何もかも無視して、ただどうなったどうなったという取材競争だけでは、もはや二度と臓器移植に同意しようという人はあらわれないだろうというのである。

 まことにその通りで、そういう場面を放送しておきながら、なおかつ同じテレビ局が同じ番組の中で長々と病院前から現場中継を続けていたのは、一体どういう神経か。おそらくは、他局がやるのだからうちも已むを得ないという報道合戦の言いわけと、放送内容のバランスを取ったつもりなのであろう。

 テレビの中で医師は、誰がマスコミに漏らしたのかと言っていたが、臓器移植ということになれば移植ネットワークに連絡するなど、外部機関との間で手続きを取る必要も出てくるだろうから、病院の中の少数の人だけで事を進めるわけにはいかなくなる。ネットワークというだけに話は広がりやすく、漏れない方がおかしいのかもしれない。

 その洩れを最初に聞きつけたのは誰だか知らぬが、2日ほど前のNHKテレビで夜7時のニュースは、7時20分過ぎくらいだったか、ただいま入りましたニュースといって、これから脳死判定がおこなわれますと放送した。8時前のニュースの時間が終わるまでに2度も3度も繰り返したから、他のテレビや新聞も色めき立ったに違いない。

 

 問題は、複雑困難な脳死判定に間違いがなく、臓器が正しく安全に、それを待つ患者さんに移植されることである。その状況を専門家でもない赤の他人が知ってどうするのか。少なくとも同時並行的に野球の中継でも見るように知る必要はないであろう。

 すべてが終わって、移植を受けた患者さんの容態が落ち着いたあと、実は先週こういうことがありましたという程度の発表でもいいはずである。病院もネットワークもしっかりと箝口令を敷いて、関係者の間だけで静かに事を進めるべきであろう。

 事は人の生死の問題である。マスコミが正義の仮面をかぶって報道するけれども、実は人びとの野次馬根性を刺激しているだけのこと。本能の刺激を受けた馬たちも、興味半分こわさ半分で人の死を話題にするのは、やはり行き過ぎである。

 他人(ひと)のために我が身を差し上げますというドナーの気持は完全に忘れ去られている。

 偶然のことながら、この騒ぎの前日であったか、消防・防災ヘリコプターが移植臓器の搬送をすることになったという報道があった。まことに喜ばしいことで、私もかねてそうあるべきだと考えていた。というのも、アメリカではヘリコプターや飛行機を臓器搬送に使うのは当然のこと、ヘリポートのない病院は臓器移植をおこなう資格がないとまで言われているからである。

 (西川渉、99.2.27)

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