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3段階遅れの救急システム

   

 

 

  先週、日本の救急システムは2段階遅れではないかということを書いて、第4回日本エアレスキュー研究会に一般演題として提出した。ところが、よく考えてみると、あれは間違いだった。――実は、3段階遅れだったのである。

  日本よりも進んでいる国では、たとえばドイツやフランスの場合、交通事故や早産などで救急患者が発生すると、先ずその場に医者が駆けつける。しかも、そのための移動手段は、大きくて走りにくい救急車ではなく、小回りがきいてスピードの出る乗用車である。あるいは、ちょっと離れたところへはヘリコプターで飛んでゆく。

  つまり、医者が動かず、高速移動手段もない日本は、こういう国にくらべて2段階遅れと考えたのである。

 

  ところが、もうひとつ先をゆくのが、医師どころか病院そのものを現場にもっていこうという考え方である。これを実行しているのがアメリカのバージニア州に本拠を置く宗教団体、オペレーション・ブレッシング・インターナショナルの「フライング・ホスピタル」である。

  私自身も先日のパリ航空ショーで機体の内部(下図)を見せてもらったが、かつて旅客機として使われたロッキードL-1011を改造して、空飛ぶ病院に仕立て上げたものであった。ワイドボディの広いキャビンを利用して手術台3台、歯科と耳鼻咽喉科と眼科の治療ができる椅子2台、手術前後の準備と快復のためのベッド12人分などの設備がある。これに医師や看護婦など、医療スタッフ50〜60人をのせ、医療機関の少ない発展途上国、内乱などで難民のあふれる地域、あるいは大災害に見舞われたところへ飛んで、1日およそ30人の手術と数百人の診察や治療にあたる。

  この飛行機、医療施設、医薬品などの費用は全てアメリカ市民の寄付によってまかなわれ、医師や看護婦は無償の奉仕をする。現地の滞在日数は平均10日前後。その間に、たとえば1996年夏のエルサルバドルでは2週間で12,000人、同年秋のウクライナでは7,000人の人びとが治療を受けた。

 

  勿論これを交通事故の救急に使うわけにはいかない。けれども、地域紛争による難民の現場や、地震や洪水などの災害現場に急行して医療活動に当たるのは、救急活動の一環にほかならない。

  日本では、こういうことをしようとしても、一つは宗教的な風土が異なる。もう一つは税制が異なる。したがって寄付が集まらないから、実現するのも非常に難かしい。日本国民は、金の使い方まで官僚の指図を受けなければならず、個人の自由にならない。つまり、いったん税金として取り上げられ、あとは彼らの恣意によって使い道が決まる。それも政治資金の元手や選挙の票になりそうな土木工事や、高級官僚が天下るための公団公社へ配分されるから、とても新しい救急費用なんぞは出てこない。

  したがって医者は動かず、高速自動車も救急ヘリコプターも病院機もない。いつまでも旧態依然たる救急車を走らせ、患者を迎えにゆくだけである。もちろん現場の救急医や救急救命士や救急隊員が頑張っておられることはいうまでもない。ここで問題にしているのは、そうした個人的な努力ではなくて、システムの欠陥である。

  システムの欠陥を個人的な努力で補おうとしても限界がある。日本の救急システムは、とうとう3段階遅れになってしまった。

 

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[注] フライング・ホスピタルの機内配置図と説明

 

 前方4分の1くらいのスペース(Crew Transportation / Eductional Center)は通常の旅客機に見られるビジネスクラスの客席67人分が並んでいて、飛行中は医療スタッフがここに坐って移動する。地上で病院として活動しているときは、待合い室として使われ、患者の家族や付き添いなどの関係者がここで待つ。また、ここに現地の医師や医学生を招いて、機内のビデオ・システムで特別に手術のもようを見せることもある。一種の医学教育の教室として使われるわけである。

 その背後(Dental / ENT / Ophthalmology Area)は歯科、耳鼻咽喉科、眼科の治療室である。その後方に外傷の診断やトリアージをおこなう場所(Trauma / Triage Area) と、小手術および試験室(Minor Surgical and Examination Area)がある。

 機体中央部は手術を受ける患者の事前準備と術後の休養快復場所(Preoperative and Recovery Area)で、12人分のベッドが並んでいる。そして後部に手術室(Surgical Suites)があって、3台の手術台が衝立で区切られている。

 本機に搭乗する医療チームは、一般外科、整形外科、内科、泌尿器科、歯科などの医師と、看護婦や助手。また機内の主な設備は、手術台、計測器具類、手術用の灯火、X線装置、蛍光スキャナー、高圧消毒器、その他の試験器具などである。

 運航は通常、パイロット2人とフライト・エンジニアが1人。それに客室乗務員が何人か乗って、長時間の飛行では機内サービスをおこなう。客室乗務員は看護婦としての訓練も受けていて、現地到着後は医療チームに入って仕事をする。

 1996年6月から運航を開始、これまでにエルサルバドル、インド、ウクライナ、パナマ、フィリピン、ペルー、中国、カザフスタンなどへ飛んだ。その目的は医療施設の不十分な地域で医療代の払えない人びとを無償で治療することである。

 この慈善事業について、アメリカのジョージ・ブッシュ元大統領は「アメリカの良心」とたたえ、「人道上、これ以上に価値のある仕事は考えられない」と語った。それを単なるお世辞と取ったり、この活動を偽善事業と取るのは自由だが、経済活動と政治活動に熱心な日本の宗教団体との違いは明らかである。

 (西川渉、97.8.17) 

 

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