シリーズ・ベル206ヘリコプター

                            


 
 今年はベル206の量産30周年に当たる。初号機の引渡しは1967年1月13日のことであった。
 それより先、このヘリコプターの写真を初めて見たとき、われわれは斬新なスタイルに驚かされ、スマートな姿に魅せられた。当時、小型ヘリコプターといえばベル47やヒラーなど、どこか出来損ないの玩具のような感じがあって、そこまで悪く言うことはないけれども、206の流れるような線は見ただけで近代的なヘリコプターの誕生を感じさせた。
 しかも、その前身となった試作機OH-4が、これもお世辞抜きの表現を使うならば、鼻の丸い田舎娘ともいうべきアカ抜けのしない機体であった。それが花の都で美人コンテストに落ち、むなしく田舎に戻ったと思ったら、今度はほっそりと背の高いみごとな貴婦人に生まれ変わって登場したのである。
 それは、まるで毛虫が蝶にに変身したか、みにくいアヒルの子が白鳥になったかと思わせるものがあった。そして多くの人を惹きつけ、誰もがこれに乗ってみたい、早く飛ばしてみたい、仕事に使ってみたいと思ったものである。
 以来30年、206シリーズの生産数は1万機に近い。毎日1機ずつ製造されてきた勘定になる。これほど長く量産がつづき、改良と進歩を重ねてきた航空機もさほど多くはないであろう。
 今回は、その30年間にわたる206ヘリコプターの進歩と進化の跡をたどってみることにしよう。
 
 

LOH開発競争

 1960年、米陸軍は新しい軽観測用ヘリコプター(LOH)の設計開発競争に着手、各メーカーに提案要求を発した。それまで使ってきたベル47、ヒラーH-23、セスナL-19といった観測・連絡機がそろそろ老朽化してきたためである。設計仕様はアリソンT63-A-5ターボシャフト・エンジンを装備、座席数4人乗りでペイロード180kg、速度性能190km/hというものであった。
 この競争の勝者は既存の3機種に代わって、10年間で約3,600機が調達される予定だった。これでアメリカ航空工業界は一挙に燃え上がり、メーカー12社が応募、22種類の提案が国防省に集まった。
 応募したのはベル、ボーイング・バートル、セスナ、ジャイロダイン、ヒラー、ヒューズ、カイザー、カマン、ロッキード、マクダネル、レパブリック、シコルスキーの各社。このうちベル、ヒラー、ヒューズの3社が設計段階で勝ち残り、1961年5月19日、試作段階へ進むことになった。
 試作は各社5機ずつ。米陸軍はそれぞれの試作機にYHOー4A-BF(ベル設計番号D-250)、YHOー5A-UH(フェアチャイルド・ヒラーFH.1100)、YHOー6A-HU(ヒュ−ズ・モデル369)といった呼称を与えた。のちに1962年7月、これらの呼称はそれぞれOH-4A、OH-5A、OH-6Aと改められた。
 ベルOH-4Aが初飛行したのは1962年12月8日。1年余りの社内試験を経て、全5機が耳をそろえて米陸軍に引渡されたのは64年3月19日。うち1機は右舷に2挺のマシンガン、左舷にXM-75りゅう弾砲を装備していた。
 米陸軍は3機種を実際に飛ばして評価試験をおこなった。試験は1年間にわたって入念におこなわれ、ついに65年5月26日、結果が公表された。計画発表から5年後のことで、勝ち名乗りを受けたのはヒューズOH-6であった。飛行性能の良さと価格の安さが勝ち残った理由である。
 当時、米陸軍が望んだのは出力が大きく、運動性の良い機材であった。敏捷な運動性はベトナムの戦場で敵の対空砲火を避けるのに最も望ましい能力である。ところがOH-4はその点が充分でなかった。それに対してヒューズOH-6Aは機敏な運動性を持ち、出力の余裕も大きく、かつ機体は墜落時の衝撃吸収性があって戦場でパイロットを護るのに適していた。
 おまけに値段が安かった。競合機の半分以下という破格の安さで、最初から1,000機を越える契約が成立した。
 
 

デザインを外部へ委託

 ところがベル社では、この結果が出る前から、マーケティング・チームがOH-4Aを基本とする新しい民間向け小型タービン・ヘリコプターの開発をもくろんでいた。
 当初は胴体幅をわずかに広げる程度で民間市場に売り出す考えだったが、それではますます小太りの田舎娘になってしまう。スカウト機としては実用的かもしれぬが、尾部ローターのドライブ・シャフトはテールブームの上面に沿ってむき出しのまま取りつけられ、グリースの詰まった軸受けが並び、主ローターの2枚ブレードはちょっとした風にもばたばたとあおられた。卵型のシャープな感じのするヒューズOH-6の横に並べただけでも、不格好の感を免れない。
 これでは民間機としての魅力に乏しい。安全性や飛行性能はもちろん大切だが、もうひとつ人を惹きつける格好の良さも必要だ。というので、ベル社は社外のデザイン会社に胴体の再設計を依頼した。その結果が、あのベル206の基本スタイルとなり、民間市場で一挙に受注数を伸ばす要因となったのである。
 ベル206の外観は、今でこそ見慣れてしまって、誰もが当たり前のように思っている。しかし、当時はまだアグスタ109もなければシコルスキーS-76もAS350も存在しなかった。これらはどこかベル206の線にならったところがあり、今や206の形状が古典的といわれるゆえんでもある。
 こうして民間機として生まれ変わったモデル206Aは、原型機が1965年8月に完成、65年12月に初飛行した。そして翌年1月に開催されたアメリカ・ヘリコプター協会(HAA、今の国際ヘリコプター協会HAIの前身)の年次大会で「ジェットレンジャー」の愛称とともに公開され、大きな話題を呼んだ。
 余談ながら、筆者は、このHAA大会の1か月後にベル社を訪れる機会があった。ジェットレンジャーは本格的な飛行テストに入っていて実機を見ることはできず、写真とパンフレットによる説明を受けただけだが、大きな将来性をもった新製品を生み出そうという意欲は充分に感じることができた。
 そのときのメモを見ると、自重はベル47よりも少なく、総重量は逆に大きいから、総重量に対する有効搭載量の比率は47の36%に対して、206は55%にもなると書いてある。ピストン機からタービン機に変わったのだから当然といえば当然だが、自重よりも搭載量の方が大きい。つまり自分の体重よりも重いものを持ち上げるという説明に驚かされたりした。同じタービン機でも、アルーエトUは42%しかないというのが当時のベル社の数字である。
 にもかかわらず、運航費はピストン機と余り変わらない。その頃ジェットレンジャーに最も期待されたヘリ・タクシーに使う場合、4座席のベル47Jー2Aでは直接運航費が燃料費、整備費、償却費(5年)、人件費、保険料(12%)を合わせて、1時間あたり47.04ドルであるのに対し、ジェットレンジャーも48.66ドルですむといわれた。
 ただし年間1,000時間の飛行という前提で、今から考えて当時の小型ヘリコプターが年間1,000時間も飛べたかどうかはともかく、時間あたりの費用がほとんど変わらず、しかもジェットレンジャーの速度は5割増し、客席数は3割増しだから、筆者のメモの中ではシート・マイル費用はほぼ半分になると計算している。まことに画期的なヘリコプターが実現しかかっているという感想をもって、ベトナム軍需に沸き立つベル社を後にした覚えがある。
 
 

ジェットレンジャーの改良と進歩

 さて、モデル206の基本構造は、胴体がアルミ合金のモノコック構造。機内はOH-4Aに対してキャビン後方が広くなり、大人3人がゆっくりすわれるようになって、前2人、後3人の5座席となった。窓も大きく、乗客の視界が広くなって、キャビン後方には手荷物室も設けられた。
 コクピットは新しい計器パネルを正面中央に置き、パイロットの前方視界を広げた。またパネルは、無線機や計器類が必要なだけ取りつけられるよう、内部容積を大きくした。降着装置はスキッド式で、アルミ合金の管がクロスチューブにボルト留めされている。
 エンジンはアリソン250-C18Aターボシャフト(317shp)。軍用T63の民間型で、シーソー式セミリジッドの主ローターを駆動する。この主ローターからはベル47やOH-4Aについていたスタビライザーバーがなくなり、ローターマストも長くなった。
 こうした206は、原型2〜3号機もテストに参加、1966年10月20日に型式証明を取得した。引渡しがはじまったのは67年1月13日。以来2年足らず、68年末までに361機が生産された。ほかにイタリア・アグスタ社でも1967年末からライセンス生産がはじまった。
 まさに好調の出足である。スマートなピカピカのヘリコプターがデモ飛行に行くと、たちまち多数の注文が舞い込んだ。乗り心地の良さと格好の良さで、ウォール街のヘリポートではジェットレンジャーを使うビジネスマンが増えた。僻地や山岳地の建設作業員たちもジェットレンジャーで現場に飛び、石油開発の作業員は海上の掘削リグまでピストン機の半分の時間で飛べるようになった。
 この間、1968年1月31日、米海軍はモデル206Aの採用を発表した。TH-57シーレンジャーと名付けられたが、基本的には206Aと変わらず、アビオニクスが海軍専用の機器にかわっているだけであった。1968年中に全部で40機が調達され、それまでのベルTH-13M(モデル47)に代わる訓練機となった。のちに、米海軍は206BジェットレンジャーVを基本とするTH-57Bを51機、-57Cを89機調達した。したがって米海軍向けの訓練機、TH-57は総数180機が製造されたことになる。
 そして、あろうことか、米陸軍もLOH競争で採用したOH-6Aの生産コストが急騰したという理由で同機の調達を中断、改めて再度の入札をおこうことにした。その結果、1968年3月8日、今度はベル206Aが勝者となり、OH-58Aカイオワの呼称で2,200機が採用された。納入がはじまったのは1969年のことである。ちなみにOH-6の調達数は1,434機であった。
 1971年になると、改良型のベル206BジェットレンジャーUが完成、1番機はカナダのオカナガン・ヘリコプター社に引渡された。206Bは、エンジン出力が400shpにパワーアップされ、出力の余裕ができたために高温時にも満席満タンで、本来の性能が発揮できるようになった。
 それから間もなくアリソン社は、出力を420shpまで高めた250C-20Rエンジンを完成した。これは、それ以前のアリソン250Cシリーズにくらべて、燃料効率が良く、整備性も高かった。この出力増加分を吸収するために、ベル社はトランスミッションの出力を強化した。その結果、206Bのホバリング能力はいちじるしく良くなった。
 1973年には1,000機目のジェットレンジャーが出荷され、76年には量産2,000号機が完成した。
 1977年夏、改良型の206BジェットレンジャーVが実現した。エンジンはアリソン250-C20J(420shp)。ローター系統は依然、旧来のシーソー式だったが、尾部ローターは新しく大きなものに改められた。
 ジェットレンジャーの生産は、やがてカナダへ移されることになった。カナダ製1番機が出荷されたのは1986年12月20日である。
 こうして1988年1月までの21年間に、ベル206は軍用機やライセンス生産を含めて総数7,000機を越えた。そのうち民間機は4,000機で、この民間型4,000号機は1988年初めに完成、同年2月のHAI大会で展示された。
 かくてベル・ジェットレンジャーは最も標準的な小型タービン機として不動の地位を築き上げ、ベル社のいう古典機となった。
 
 

OH-58AからOH-58Dへ 

 ところで、米陸軍によるOH-58Aの採用は、ベル社として露骨なお祭り騒ぎこそしなかったけれども、3年前のLOH競争の雪辱を果たしたことになる。しかもOH-6を上回って、2倍に近い2,200機が採用されたことは、逆転の勝利といってよかった。
 民間型との違いは主ローター直径が大きくなり、アビオニクスが変わり、座席は前方2席だけで、後方は物資搭載用のコンパートメントとなった。エンジンはアリソンT63-A-700(317shp)である。
 1号機が引渡されたのは1969年5月23日。その後ただちにベトナムの戦場へ送りこまれ、第一線で使われた。用途は本来ならば軽観測機ということだったが、輸送任務の方が多かった。
 1976年、ベトナム戦争は終っていたが、ベル社は陸軍との契約でOH-58Aのエンジン出力を上げてOH-58Cへ改修する作業に取りかかった。まず3機のOH-58Aを改造して-58Cが試作され、評価試験の結果、1985年3月までに435機の-58Aが-58Cに改められた。ほかに当時の西ドイツに駐留する米陸軍のOH-58Aも、150機がイスラエル・エアクラフト・インダストリー社(IAI)で-58Cに改修された。
 改良の内容はキャノピーを平らにして乱反射をなくし、エンジンを出力増強型のT63-A-720(420shp)に換装、赤外線削減装置を取りつけるというもの。また計器パネルが新しくなり、アビオニクスを改善し、整備性も良くなった。同時に出力の増加は当然、高温・高地性能の向上をもたらした。
 こうした改良は、やがてOH-58Dにつながった。その計画は1970年代の終わり、米陸軍の「陸軍ヘリコプター改良計画(AHIP)」にはじまる。将来の新しいLHX開発までのつなぎとして短期的なスカウト・ヘリコプターを確保するのが目的であった。
 AHIP計画が発表されるといくつかの提案がなされ、審査の結果1981年9月21日、ベル社のモデル406が採用された。既存の206を改造して5機が試作され、1号機は1983年10月6日に初飛行した。それから1985年3月までにさまざまな評価試験がおこなわれた。
 このOH-58D、ベル社のいうモデル406は、エンジンがアリソン250-C30Rの軍用型T703-AD-700(650shp)に換わって、一挙に出力が大きくなった。ローター・システムも2枚ブレードが、折りたたみ可能な4枚ブレードに改められた。
 また主ローターの上方81cmの高さには、大きな目玉のようなMMS(マスト・マウンテッド・サイト)が取りつけられ、みずからは樹木や丘の陰に隠れたまま敵情偵察が可能になった。したがって敵に発見されたり、攻撃を受けることも少ない。
 MMSは、大きな目玉を持ったETのような外観だが、内容は高度な精密電子機器で、テレビ・カメラ、熱映像センサー、レーザー測距儀、精密照準装置などを含む。自動的に地形を探査し、正確に目標をとらえて照準を合わせ、追尾しながら、射手にミサイルの発射指示を出し、パイロットには戦闘情報を提供することができる。
 これで昼夜を問わず、霧やもやがかかって視程の低いときでも作戦行動が可能になった。同時に地上の指揮官に対してはリアルタイムで戦闘情報を提供し、偵察、保安、空中監視などの情報を送り、さらに味方の攻撃ヘリコプター、空中機動部隊、地上砲兵隊に対しても目標の捕捉と識別情報を送ることができる。価格は200万ドル。どうかすると、ヘリコプター本体よりも高価であった。
 火器はスティンガー空対空ミサイル4基、またはヘルファイア空対地ミサイル4基、もしくはロケット弾、0.50インチ・マシンガン2基などを機体左右に張り出したアウトリガーに取りつける。
 米陸軍は、こうしたOH-58Dを1987年7月までに64機入手、1987年6月11日からは欧州にも配備した。このとき12機がロッキードC-5Aギャクシー1機に搭載、空輸された。
 
 

OH-58Dにもステルス性

 再び余談を加えると、2年前、1995年初めに筆者がベル社を訪れたとき、OH-58Dは総数507機の改修計画があって、95年度予算までに390機が出来上がると聞いた。ほかに台湾、韓国、豪州などからも新製機の注文を受けており、米陸軍向けの改造機と一緒になって生産ラインを流れている。
 その工場を見てゆくと、国外から受注した新製機にまじって、ときどき薄くて平らな機首を持つ機体が目についた。これまでの206シリーズのように機首先端が丸く細くなっているのではなく、鉈の刃先のように左右平行のまま直線的に薄くそいだようにとがっているのである。
 これは、いま流行のステルス性を目的とするもので、前方からやってきたレーダー波が丸い機首では乱反射するのに対し、鉈の刃状の形態では一方向にしか反射せず、したがって敵に探知されにくい。
 そのうえ、もっとステルス性を高めるために、短固定翼や尾翼の前縁にも特殊な複合材製のレーダー波吸収カバーがかぶせてある。さらに機首上面には長径15cmくらいの楕円形の穴が2つ左右にあいていて、その中に太い糸屑のような複合材がくしゃくしゃに丸めて詰めこんであった。訊いてみると、レーダー波を吸収する仕掛けだそうである。その大きな穴には蓋などはないから、雨が降ると内部に水が入る。その雨水を抜くために、下面左右に2本のドレーン筒が突き出しているのが見えた。 
とにかくあらゆる工夫を凝らして、敵に見つからぬように忍び寄り、その動静を探って攻撃を加えるのが本機の任務なのである。
 また降着装置にも工夫があって、脚上方のボルトをゆるめると、機体を押し下げることができる。同時に主ローターのブレード4枚を折りたたみ、MMSを取り外して、尾部の水平および垂直安定板をたためば、そのままC-130輸送機に搭載することができる。その搭載準備に要する時間は2人で10分。戦場でC-130から降ろして飛び立つまでに7分しかかからない。つまり世界のどこへでも迅速な展開が可能なヘリコプターというわけである。
 湾岸戦争のときも、このようにして115機が砂漠の戦場へ送りこまれ、総計9,000時間の飛行をしながら、任務遂行率92%というすぐれた実績をあげた。また飛行時間あたりの整備工数は、米陸軍のヘリコプターの中では最も少ない機材である。
 こうしたOH-58Dの派生型として、ベル社は1984年5月21日、モデル406CSコンバット・スカウトの開発を発表した。動力系統は変わらないが、マスト上方の照準機器はコクピットの屋根の上に直接取りつけるルーフ・マウンテッド・サイトに変わり、その中にレーザーによる目標捕捉装置、赤外線暗視装置(FLIR)、熱追尾装置などがおさめられた。
 火器はクイック・チェンジが可能で、TOW2ミサイル、スティンガー空対空ミサイル、ヘルファイア対戦車ミサイル、2.75インチ・ロケット弾、7.62ミリ・ミニガン、20ミリ・キャノン砲、50ミリ・マシンガンなど。
 モデル406CSの原型機は1984年6月に初飛行した。1987年までにさまざまなテストを終了、火器発射試験にもすぐれた成功をおさめたが、顧客は必ずしも多くない。1987年末サウジアラビアが15機を発注、1990年7月1番機が引渡された。シンガポール空軍も20機を発注している。
 
 

新しい訓練機TH-67

 1990年代に入ると、米陸軍はOH-58Dのような実戦用機材に加えて、ヘリコプターの新しい基礎訓練機を必要とするようになった。従来のヒューズTH-55やUH-1といった機材が古くなって時代の要求に合わないばかりでなく、整備費のかかりが大きくなってきたためである。
 そこで1992年5月、既存の民間機から「新訓練ヘリコプター」(NTH)として見積提案を求めることになった。その要求内容は、総重量が 2,720kg以下の小型機で、民間耐空性基準に適合し、昼夜間のVFR飛行と乗員2人乗務のIFR飛行が可能な「既製品」とする。ただし座席3席と燃料タンクは墜落時の耐衝撃性がなくてはならないというもの。
 飛行性能は、高度700mで166km/hの巡航速度を維持し、毎分150mの上昇性能を有すること。高度700m、風速毎秒10m、気温35℃で地面効果外ホバリングができること。毎秒18mの風の中で、エンジンおよびローターの始動と停止ができること。エンジン停止状態で、安全なフル・オートローテイションができること。加えてタービン・エンジン装備が望ましいというのが、米陸軍の希望であった。
 そのうえで、運航費は現用ベルUH−1ヒューイにくらべて、37%以下でなくてはならないという条件がついた。これにより米陸軍としては年間4,000万ドルの経費を節約する狙いである。
 こうして1992年8月10日の締切りまでに4社5機種が名乗りを上げた。ベルTH-206、シュワイザー330、エンストロームTH-28、そしてAS350がアリソン250-C30Mエンジン装備とチュルボメカ・アリエル1B1装備の2種類。それから半年余りの審査と評価試験飛行を経て選ばれたのがベルTH-206であった。
 TH-206は、基本的には民間型206Bと変わらない。206B-3ジェットレンジャーを基本とし、アリソン250-C20Jエンジン(420shp)を装備する。NTHとしての特徴は、陸軍の要求通り、2人の学生を同時に訓練することがができる。前席に教官と学生1人が坐り、後席にもう1人の学生が坐って前席の様子を見ている。その際、計器類が完全に見えるように閉回路のモニターテレビを右席背後に取りつけ、飛行計器や航法計器を映し出す仕組みになっている。
 さらに、このモニター装置は訓練飛行中の状態を初めから終わりまで記録し、地上に降りて再生しながら、訓練飛行の状態を振り返って教官の注意を受けることもできる。
 また民間機で開発された最新のアビオニクス技術により、パイロット2人乗りの計器飛行も可能。こうして、採用されたベル 206Bに、米陸軍はTH−67クリークという名前をつけた。クリークとは、米陸軍の伝統に従ってアメリカ・インディアンの部族名から取った愛称である。量産機の引渡しは1993年10月からはじまり、96年2月に最後の137号機が納入された。契約価額は約1億ドルに達する。
 なお現在、TH-67の後席は学生の同乗輸送と計器飛行訓練にしか使われていないらしい。というのは、もともとオートローテイション訓練の場合は後席への同乗が禁じられているためで、一時的に後席の学生を降ろして実施する。また計器飛行訓練のときは、後席に学生をのせ、1人連続1時間半の訓練が終わると、今度は後席の学生が前席にすわって訓練を受けることになる。
 
 

206Lロングレンジャーの誕生

 こうしてベル206シリーズは、民間型206Aからエンジン出力の増強によって206BジェットレンジャーU、Vと進歩し、軍用機としてもTH-57、OH-58A、OH-58C、TH-67、4枚ブレードの406/OH-58D、406CSと進展してきた。
 その一方で、キャビンを引き延ばした206Lロングレンジャーが誕生する。その開発計画が発表されたのは1973年9月25日のことであった。開発の目的は5人乗りの206Bと15人乗りの205とのギャップを埋めること。そのための基本構造は206Bの胴体を60cm引き延ばして、座席数を最大7席とするものであった。
 ロングレンジャーの座席配置はパイロット1人と乗客6人、または機長、副操縦士、乗客5人、もしくは客席を4席とするエグゼクティブ内装も可能である。
 キャビン左舷には、いわゆる「ダブルドア」がつき、大きな貨物や救急担架の搭載が容易になった。このためロングレンジャーは折からブームを呼びはじめた救急ヘリコプターとしても使われるようになった。現在ではもっと大型の救急機が多いが、そのはじまりはほとんどロングレンジャーだった。日本でも聖隷三方原病院で、1機が救急機として使われている。
 当初のエンジンはアリソン250-C20B(420shp)。206Bと変わらないが、2枚ブレードの主ローターは直径が1.2m大きくなった。またノダマティック防振装置がついて、ローター回転に起因する振動を遮断し、機内の乗り心地が改善され、キャビンの騒音も小さくなった。初飛行は1974年9月11日。引渡し開始は1年後の75年10月である。
 これを改良したのが206L-1ロングレンジャーUで、1977年9月のアメリカ・ビジネス機協会(NBAA)の年次大会で発表された。エンジンもアリソン250-C28B(500shp)に変わって出力が増し、高温・高地性能が良くなるとともに、最大離陸重量は1,837kg(4,050ポンド)に増加した。
 機内はキャビン後方の空間が広くなった。またカウリングが新しくなり、防火壁が強化され、エンジン取りつけ部、フリーホイール、インプット・シャフトなども改善された。
 FAAの型式証明を取ったのは1978年5月だが、同年12月にはシングル・パイロットの計器飛行も認められた。その後さらにエンジンやバッテリースターター・システム、ローター・ヨークなどの改善により、最大離陸重量は1,882kg(4,150ポンド)まで増加した。
 1981年12月には、高出力のアリソン250-C30Pエンジン(650shp)を装備する206L-3ロングレンジャーVが量産に入った。同機はエンジン出力が増加したが、トランスミッションは変わらず、定格出力は435shpのままだったために、出力の余裕が大きくなり、高温・高地性能が向上した。のちに、トランスミッションの出力は456shpに増加、飛行性能も大きく向上した。
 1986年1月までに、ロングレンジャーおよび同U、Vは合わせて960機が生産された。引渡し先はさまざまな民間運航会社だが、救急ヘリコプターとしても数多く使われた。
 その生産がカナダに移されたのは1987年1月。同年5月にカナダ製1番機が出荷された。
 一方、1980年10月、206L-1ロングレンジャーUの国外向け軍用型「テキサスレンジャー」が発表された。同機はアリソン250-C30Pエンジン(650shp)を装備、TOWミサイル4基、0.30/0.50インチ・マシンガン、または2.75インチ空対地ロケット弾の装備が可能であった。
 乗員席には装甲板がつき、キャビン後方にはミサイル・コントロールのための電子機器が取りつけられた。ただし現在まで、同機は余り売れていない。
 206Lからはさらに1990年、トライドエア社が野心的な双発化構想を実行に移した。206L-3を基本とするジェミニSTである。ソロイ・コンバージョン社のデュアルパックを使って、アリソン250-C30P(650shp)1基の代わりに250-C20Rを2基取りつけ、合計870shpの双発機とするもの。
 同時にベル社も、ジェミニSTの開発に協力する形で206L-4を基本とするツインレンジャーの開発に着手した。
 
 
 

ロングレンジャーWとツインレンジャー

 現用206L-4ロングレンジャーWがカナダ運輸省とFAAの型式証明を取得したのは1992年10月のことである。L-3の改良型で、エンジンはアリソン250-C30P(650shp)と変わらないが、トランスミッションが435shpから490shpへ強化され、最大離陸重量は4,150ポンド(1,882kg)から4,450ポンド(2,018kg)へ300ポンドの増加となった。
 この総重量の増加に伴って胴体や降着装置が強化され、尾部ローターの推力も増加した。206L-4の量産1号機が引渡されたのは、92年12月である。
 206LTは206L-4を双発化したものである。型式証明が交付されたのは1993年11月19日。同時に片発停止の場合でも安全な飛行がつづけられるカテゴリーAの承認も受けた。これにより構築物の上のせまい場所でも離着陸が認められたことになる。
 LTに使われた双発構造は、トライドエアが開発したジェミニ双発機の機構を基本としている。ジェミニの開発には日本の川田工業が協力し、型式証明の取得にはソロイ・コンバージョン社が実際の作業に当たった。
 ベル社は、こうした一連の開発作業に協力すると共に、ライセンス契約を結んでLTの生産をすることになった。この契約で、トライドエアは中古機の206L-1、L-3、L-4を双発機へ改造することになった。この改造機が「ジェミニST」と呼ばれるものである。
 したがってLTもジェミニも基本的には変わりがないが、LTというときは新品の206L-4が基本であり、ジェミニは中古のL-1、L-3、L-4が基本になっている。エンジンはいずれもアリソン250-C20R(450shp)が2基。ちなみに、かつての206Lー1は、このエンジンが1基だけであった。
 新製機の206LTは、機体価格がおよそ150万ドル。206Lー4単発機の100万ドルに対して、ほぼ1.5倍になる。
 なおジェミニSTは1994年9月12日、単発飛行の承認を取得した。これにより同機は燃料を節約し、航続距離を延ばすために、初めから単発で離陸し、飛行を続けてもよいし、飛行中いつでも双発から単発への切り換えができるようになった。航続距離は70km伸びるという。ただしベル社の見解は、206LTはあくまで双発機であり、初めから片発で飛ぶのはおかしいとして、独自の小型双発機427の開発へ向かうことになる。
 
 

プロダクト2000計画

 1990年代に入って間もなく、ベル社では21世紀をめざす新しいヘリコプターの開発を進めるために「プロダクト・プラン2000」と呼ぶ計画が立てられた。ローターシステム、トランスミッション、機体構造、コクピット、操縦系統、その他の技術開発を進めて、現用機の技術革新をはかろうという戦略目標である。具体的には新しい小型単発機(ニューライト・シングル)、小型双発機(ニューライト・ツイン)、中間双発機(インターミディエイト・ツイン)、新中型双発機(ニューミディアム・ツイン)、そして民間型ティルトローター機の開発を順次すすめていくことになった。
 この計画の背景は何か。ベル社によれば、市場が急速に変化してきたこと、安全規則がいっそうきびしくなったこと、技術的な進歩によってすぐれた製品が実現できるようになったこと、メーカー同士の競争が激化してきたことなど、大きな状況変化がある。その変化に対応するために中間双発機としての430が実現し、小型双発機427や民間型ティルトローター機609の開発もはじまった。
 とりわけ、この計画の先頭を切って進められたのが206シリーズの技術革新であった。206の技術革新が必要な理由は、同機が生まれて30年近くたち一応の役割を果たし終えたこと、開発時期が古いために無理に飛行性能などを向上させようとすると開発コストがかかって機体価格が上がってしまうおそれが見られるからである。
 こうして新小型機(ニューライト)の開発がはじまった。開発にあたっては現用ロングレンジャーを基本としながら、それよりも運航費が安く、信頼性が高く、飛行性能にすぐれ、乗り心地が快適で、多用性を有するというのがベル社の設計目標であった。これまでのロングレンジャーがL1からL4まで漸進的に進歩してきたとすれば、そこから大きく踏み出して、新世代の小型単発機と双発機を実現しようというのである。
 その中の単発モデル、407の開発は1993年末にはじまった。ロングレンジャーを基本としながら、エンジン、トランスミッション、ローターなどの動力系統は全て改められた。ローターは、ベル社伝統の2枚ブレードが4枚ブレードに変わったが、これは新しい飛行性能を引き出すためであった。しかし開発コストを抑えるためにOH-58Dのローター・システム技術を応用することにした。同じく尾部ローターとトランスミッションもOH-58Dからもってきた。
 
 

ベル407の特徴

 主ローター・ブレードは直径10.7m、翼弦255mmで、敏捷な運動が可能になった。そのうえ2枚ブレードにくらべて振動が少なく、騒音も小さい。
 ハブは複合材製のヒンジレス。ブレードは柔軟なグラスファイバー強化プラスチック(GFRP)製のヨークに取りつけられ、フラッピング運動が可能。またエラストメリック・ダンパーによってリードラグの動きをコントロールし、エラストメリック・ベアリングによってピッチ角の変更もできる。この構造は「ソフト・イン・プレーン」と呼ばれ、騒音と振動が少ない。
 ブレードも複合材製。GFRP製のスパーにノーメックス・ハニカム・コアを取りつけ、全体を矢張りGFRPの外板で包んでいる。こうしたハブとブレードはOH-58Dにくらべても材料が改善され、使用制限時間がなくなった。
 尾部ローターはブレードが2枚だが、206にくらべて推力が大きい。そのため407は毎秒17mの風でも、高度3,050m以下ならば、どんな方角へも飛行ができる。トランスミッションもOH-58Dそのままではなく、出力吸収能力が674shpまで強化され、耐用時間が長くなった。
 振動防止のためには、206のノーダルビームに替えて、もっと軽くて安いSAVITADという装置が使われている。これはローターとトランスミッションのアセンブリをエラストメリック・マウントを介して2本のビームに取りつけ、各ビームを胴体の屋根にスプリングを介して取りつける。またビームの自然周波数はローターに起因する振動周波数よりも低い仕組みになっている。そのため共振が起こらず、振動を遮断することができるというわけである。
 エンジンはアリソン250-C47B(814shp)。ロングレンジャーの-C30P(650shp)にくらべて出力は25%増。30年前の206Aに装備された-C18A(317shp)にくらべると、エンジン全体の構造や外形はほとんど変わらないまま、2.5倍にもなった。最大連続出力は704shpで、これに完全デジタル・エンジン・コントロール装置(FADEC)がつく。
 FADEC装備のエンジンをもつ単発機は407が初めてである。これによって、エンジン価格は上がるが、始動時の過回転がなくなるばかりでなく、エンジンのサージングを防ぎ、フレームアウトを探知すると共に、自動的に再点火するという機能も持っている。したがってパイロットの労力が減るばかりでなく、安全性が増し、性能が向上し、オーバホール間隔(TBO)が長くなり、整備費が下がるといった利点がある。結果的に、FADECによって、407の直接運航費(DOC)は13ドル安くなったというのがメーカーの説明である。
 機体構造は206L-4とほとんど変わらない。しかし機首は新しいハニカムコア合金でつくってあって、腐食防止に役立っている。また後部座席ふきんはキャビン幅を17.8cm広げるとともに、窓を35%ほど大きくしてドアも大きく開くようにした。壁はカーボンファイバー強化プラスティック(CFRP)である。
 ドアは開口部が広く、幅が1.37m。建て付けも良くなって、飛行中の騒音が減り、水密になった。このあたりは206と大きく異なる。機内は7席。コクピットにはパイロットのほか乗客1人が乗ることもできる。後方の主キャビンは5座席で、2人が後ろ向きになって後方の3人と向かい合う。後部座席の肩回りは1割ほど大きくなった。それに窓が大きいために視界が良いばかりでなく、採光も良く、機内は快適である。
 
 

売れ行き好調の407

 キャビン背後には手荷物室がある。テールブーム先端には水平安定板と垂直フィンがつき、尾部ローターが回っている。
 操縦装置からは増安定システムがなくなった。その代わり操縦系統全体を再設計し、軽い力で操縦できるようにした。パイロットは1人でもよいが、気象条件は有視界飛行のみで、計器飛行の承認を取る計画はない。余りにコストがかかり過ぎるためという。ただし計器飛行の要望が多いので、計器証明を取る代わりに自動操縦装置をつけることを検討している。
 燃料タンクは、容量477リッター。これで最大離陸重量2,270kgで離陸すれば、655kmの航続性能になる。ほかに手荷物室に76リッターの増加燃料タンクを積むことも可能で、航続距離は2割ほど増加する。ほかに油圧系統やアビオニクス類も新しく改良された。
 飛行性能は、超過禁止速度が当初240km/hだったが、生産75号機から260km/hとなった。また巡航速度もはやくなり、航続距離は伸びて、ホバリング高度限界も上がった。ペイロードも増加している。
 このため機体価格は206L-4よりも115,000ドル高くなったが、それにもかかわらず直接運航費は1時間あたり270ドル程度。これは206L-4の10ドル増に過ぎず、最終目標は4ドル増の264ドルまで下げたいという。
 もうひとつの目標は巡航飛行中の騒音をいっそう引き下げることで、そのために巡航中のローター回転数を減らす承認をFAAに申請している。パイロットがコクピットのスイッチによって、RPMを90〜93%まで下げられるようにしようというもので、騒音はさらに小さくなる見こみとか。ただし、そのときは超過禁止速度も203km/hが最大限界となる。
 また機内搭載時の最大離陸重量も、2,380kgまで増やすことを検討中。これでペイロードはさらに増加する。
 こうしたベル407は1996年2月9日、米FAAとカナダ運輸省の型式証明を取得、最初の2機が米ペトロリアム・ヘリコプター社とグリーンランドエアに引渡された。以来1年間で約100機が生産されたが、これほどの好調ぶりは最近のヘリコプター界では珍しい。受注数も200機を越えて、目下のところ世界で最も売れゆきのよいヘリコプターとなっている。飛行性能にすぐれているばかりでなく、販売価格の安いことがその理由であろう。
 これで、ベル社は半世紀にわたって培ってきた小型ヘリコプターの広大な市場を、今後も長く確保できるに違いない。日本でも今年5月から輸入1番機が飛びはじめたところである。
 だが、ベル社の小型ヘリコプター戦略は、407にとどまらない。407に続いて、もうひとつの成功をねらうのが、双発型のニューライト・ツイン427である。同機が407と異なるところは全く新しい設計になること。つまり407が206の派生型として型式証明を取得したのに対し、427は新たな型式証明を取得する計画になっている。
 こうしてロングレンジャーから407へ飛躍した206シリーズは、427でさらに大きく発展するもようである。機体は407よりも長く延びて、最大8人乗り。1997年12月に初飛行し、98年末までに型式証明を取る計画だが、詳細については、いずれご紹介する機会もあろう。
 
 

日本の206シリーズ

 以上に見てきたようなベル206シリーズは、日本ではどのように使われているのだろうか。イタリアのようなライセンス生産はなされなかったけれども、輸入機数は決して少なくない。
 その輸入元である三井物産エアロスペース(株)野田真吾部長によれば、ジェットレンジャーが初めて輸入されたのは1969年(昭和44年)8月であった。機種は206Aで、納入先は毎日新聞航空部。取材飛行に使うためである。それより先、毎日新聞社はOH-6の民間型、ヒューズ369の購入を決めたが、ヒューズ社がベトナム戦争で忙しく、待ちきれなくなっていったんKH-4を購入、3〜4年の期間をおいてジェットレンジャーを選定したという経緯がある。
 いらい今日まで、ジェットレンジャーは約250機が輸入され、新聞社や自家用機を初め、ヘリコプター事業会社のテレビ報道、送電線パトロール、農薬散布などさまざまな飛行に使われてきた。また警察や海上保安庁も数多く使用している。
 今年3月末の在籍機数は146機。うち1機が206Aで、残りは206B。また、99機がヘリコプター事業会社、26機が警察、4機が海上保安庁、17機が自家用という内訳である。
 一方、ロングレンジャーは初めて輸入されたのが1979年。機種は206L-1ロングレンジャーUで、納入先は大阪エアウェーズであった。以来およそ50機が輸入されたが、3月末現在の在籍機数は43機。うち8機は最新の206L-4で、すべて警察が使用している。
 余談ながら、ベル・ヘリコプターはモデル47を初め、UH-1やAH-1など、ほとんど全機種が日本でライセンス生産されてきた。いずれも自衛隊が採用したためだが、206だけは陸上自衛隊のLOHが米陸軍の初期の選択にならってOH-6になったため国産化されなかった。これが日本で製造されていたならば、もっと沢山の206が飛んでいたにちがいない。
 では、世界的にはどのくらいの206が製造されたのだろうか。いくつかの集計によると民間型ジェットレンジャーが約5,000機、軍用型のOH-58が3,000機以上、ロングレンジャーが1,500機以上で、総計9,600機を越えるもよう。それに新しい407を加えるならば、およそ10,000機といっていいであろう。
 そのうえ、機数ばかりではない。米運輸安全委員会(NTSB)の集計によると小型単発ヘリコプターの中では世界で最も事故率が小さく、最も安全という評価を得ている。ヘリコプターとして使いやすく、経済的であることも重要だが、それにも増して安全性と信頼性が重要であることはいうまでもない。
 今、モデル206ヘリコプターは407、427といった新世代機を迎えて、新たな発展段階に入った。本シリーズの将来は、今後ますます大きな進展が期待できるであろう。
 (西川渉、『エアワールド』、1997年8月号)
 

 
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