門扉をあけない政府 

 

 先日のカンボジア危機に関して、昨日のテレビで日本の救援機が出遅れた問題が取り上げられた。出遅れて、なおかつ出て行ったのは魂胆あってのことではないかという疑問が、ここでも提起された。しかし、そんな深慮遠謀があればむしろ頼もしいくらいだという私の見方は先週この本頁に掲載した「宰相の器」に書いたばかりである。

 今日言いたいのはその問題ではなく、内乱の危機が迫った当時カンボジアにいた邦人の人びとに対し、日本政府が何もしてくれなかったばかりか、プノンペンの日本大使館は助けを求めてきた日本人に門扉を開けず、追い返しにかかったという恐ろしい事件のことである。

 あとで警察の誰かが取りなして中に入れてくれたらしいが、このような日本の官僚たちの心根はいかなる形ででも記録しておかねばなるまいと思い、ここに書きつけておく次第である。それにしても、この警察というのは日本の駐在警察官だったのか、カンボジアの警察だったのか。テレビでははっきりしなかったが、カンボジアの警察だったとすれば、ここでも日本の恥をさらしたことになる。

 しかもテレビ画面に出てきた日本大使と称する男は、あのときは大使館自体が危険だったからと言いわけをした。それならば助けを求めてきた日本人を誘導して、もっと安全なところへ避難すべきではなかったのか。それをただ追い返すとは、何だかフランス革命以前の貴族と平民の話か、ロシア革命以前の領主と農奴の話を聞いているような気がする。大使館というのは、まことに恐るべき人非人どもの集まりである。

 ほかにも、あのテレビ番組では事前の情報収集にはじまって、パスポートも金も持たずに避難してきた人の扱いなど、米国やタイ国の実例とくらべて日本大使館の無為無能無策ぶりが報じられた。それに対する大使館の言いわけは、アメリカ大使館は60人もいるが、日本は16人しかいないからという。ところが、タイの大使館には13人しかいなかったという数字が出てきて、量よりは質の問題――というよりも根本的な心構えの問題であることが露見した。

 ともかく、これらのことは日本国民の多くがテレビで見たはずだから、これ以上つけ加える必要はあるまい。ただし、この問題をほかのマスコミが取り上げないのは奇怪である。わが国営放送も外務省に遠慮しなければならないことでもあるのだろうか。

 実は、私自身も日本大使館については、ちょっとした思いがある。ひとつは今から20年ほど前、私の勤務していた会社が初めて国外でヘリコプターの合弁会社をつくることになり、その国へ出かけていったときのこと。私は先ず大使館へ相談に行った。ところが、そんな話は聞いていないという。当然であろう。今初めて私がやってきて、これから事を起こそうとしているのである。そのために何か参考になることはないかと思って、西も東も分からぬからこそ教示を願って出たのである。

 しかし聞いていないというからには、おそらく霞ヶ関から相談にのってやれといった訓令でもきていれば、多少は話になったのかもしれない。目先のきく企業は縁故を頼って、そういうことをやっていたフシがあるが、こちらはまだ会社も人間も若かった。

 そうでなくても世界中、航空事業というのは外国人を極度に嫌う。日本でも航空事業に対する外国資本を制限し、外国機の国内飛行や外国人の操縦も厳しく規制している。いかに小さなヘリコプターでも、外国で航空機を飛ばす。しかも有償の仕事をするのは予想外に難しいのである。

 そのために相談に行ったのだが、結局は日本政府として一私企業のために何かをするわけにはいかないといって門前払い同様の結果となった。「聞いていない」とか「私企業のためには」という台詞は、おそらく彼らの常套句であろう。今から思えば相談に行った方が莫迦だった。

 カンボジアの日本人も日本大使館に助けを求めたのが間違いだったのである。行くならばアメリカ大使館かタイの大使館へゆけばよかったのだ。現にあのとき、日本人の脱出者を乗せてくれたのは、真っ先に飛来したタイの飛行機だったではないか。  

 さらに私の経験は、バングラデシュで仕事をするためにダッカのホテルに泊まっていたとき、時のラーマン大統領が暗殺されてクーデターが起こった。早朝、聞き慣れない銃撃の音で目をさまし、何事かと思って窓の外を見ると、ほの暗い未明の道路を戦車が走っている。

 こちらは無論なんのことか分からなかったが、しばらくしてヘリコプターの利用に関する交渉相手の石油会社から電話がきて、しかじかの状況だから外に出ないようにという注意を受けた。結局あのときは1週間ほど、全く何をすることもなく、日本との連絡も取れぬままホテルに軟禁状態になった。ようやくダッカ空港が再開し、その第1便か第2便か忘れたけれど、初日の飛行機でバンコクへ向かうことになった。

 空港は大変な人で混雑し、飛行機はタイ航空の707だったような気がするが、出国管理の窓口は山のような人だかり。実はこのとき私のビザは、予定外の足止めを食らったので、滞在許可の期限が1日過ぎていた。しかし、それは、こちらのせいではない。この国のクーデター騒ぎが原因である。そんなことは誰でも知っていることで、とがめられることはあるまいと高をくくったのがいけなかった。「お前のビザは期限切れだから、ここを通すわけにはいかない」といわれたときは、バングラに永住しなければならないかと思ったわけではないが、脳天を金槌でブン殴られたような気がした。

「それは、おかしいじゃないか」と2〜3度押し問答をしたが、向こうは表情ひとつ変えない。とにかく周囲は山のような人で、同じ係官に向かって次々とパスポートを持った手が伸びてくる。とっさに、人波にまぎれて押し通ろうとも思ったが、空港の中には機銃をもった兵隊があちこちに立っている。クーデターの直後だから未だ異常事態は続いている。奴らの気も立っているから、万一撃たれて怪我をしては詰まらんと思ったから余り無理をしない方がよかろうと自答して、待合い室に引き返した。

 そこには、現地でお世話になった商事会社の人が待っていてくれた。飛行機が飛び立つまでは何が起こるかもしれないから、見とどける積もりだったとおっしゃる。それから直ちに市内に引き返し、バングラ政府の窓口に行ってビザの特別延長許可証を貰い、汗だくで空港に戻って次の飛行機に乗ることができた。

 そういえば、あの1週間、日本大使館からはホテルには何の連絡もなかった。こちらも連絡しようとは思わなかったが、消息を絶たれた日本国内では、あとで聞いたところ、会社も家人もひどく心配したらしい。日本政府としてクーデターの後、在留邦人の調査や確認はしたのだろうか。

 先日のカンボジアのクーデター騒ぎを見れば、おそらく何にもしなかったのであろう。自分たちは国家を代表し、重大な使命を帯びてここに来ているのだ。ダッカのホテルに誰がいようと、プノンペンの日本人がゲリラの砲弾で死のうと、そんなことは関知するところではないというのが、わが外交官の自負心なのであろう。

 いつぞやアメリカで、「われわれは本国からやってくる代議士の下足番みたいなものですよ」という自嘲を、極めて高位の外交官から聞いたことがある。しかし彼らは代議士の下足番にはなっても、国民の下足番になる積もりはない。

 国民に対してはいつも門扉を閉ざしているのが日本政府なのである。

(小言航兵衛、97.7.28

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