自衛隊輸送機のカンボジア派遣に関する私の小言について、ある方から電子メールをちょうだいした。
その趣旨は、たしかに土井委員長には呆れ果てるけれども、問題は今回の派遣の目的が緊急の邦人救助ではなく、自衛隊機派遣の既成事実をつくることのみにあったことが納得できない。すでに民間機が飛んでいる段階で、結局何もできずに帰ってきた。それも予定の行動だ、というのである。
そういわれても仕方がないような結果になってしまったのは残念だが、首相のもともとの発想は、決して既成事実をつくることではなくて、やはり「乃公(だいこう)出でずんば」の気持があったのではないだろうか。
そして、そのような気持にさせたのは、自衛隊派遣の既成事実をつくることよりも、先のペルー事件が頭の片隅にあったのではないか。あのときフジモリ大統領は実にうまくやった。自分だってできないことはあるまい。よし、やってやろうじゃないかという向こう受けを狙ったのではないかと思う。
しかし受けるどころか、世間の非難を浴びる結果になったのは、先ずタイミングが悪かったからである。指示命令の発動に際して何か逡巡するところがあったのかもしれない。つまり法的に不明確なところがあったり、政府部内にも反対の意見があったりして、愚図ぐずしている間に時機を逸したのである。
もちろん私は、新聞とテレビの報道に接しただけで、それ以外のどんな事情があったのかは知るよしもないが、発想が純粋でタイミングを逸しただけならば、首相は今でも遅くないからもっと明確に説明したらいいと思う。法律上曖昧といっても、危機に際しては法規を超えることだってあり得るのである。
それを、今朝の『朝日新聞』が揶揄しているように、
は=はぐらかす
し=しゃべらない
も=もったいぶる
と=とまらない
ようでは、国民の納得は得られないであろう。
はぐらかしたり、しゃべらないことの背景に自衛隊機派遣の既成事実をつくってやろうというような深慮遠謀があればまだご立派というものだが、それすらもなかった。
もともと、この人は国家の経綸を預かるような宰相の器ではないのである。単なる野心家に過ぎない。遠いカンボジアまで大きなC-130を3機も飛ばすなどという大それた(?)決断はすべきではなかったのだ。
トップがトップダウンの指示を的確に下すには、それなりの器量が必要なのである。
(幸兵衛、97.7.21)