セスナ・サイテーション

 

 

 セスナといえば、かつては軽飛行機の代名詞であった。世間一般には今でもそう思っている人が多い。ビーチ、パイパーと並んで、軽飛行機の3大メーカーとされたが、今では事情がやや異なる。軽飛行機よりもビジネスジェットが同社の主力製品になっているからだ。

 軽飛行機メーカーとして発足し、70年の間に大きく変身したセスナ社の製品の中から、ここではサイテーション・ビジネスジェットの全貌を見てゆくことにしたい。(参照:サイテーションの年譜、開発時期一覧、現用機の主要データ、開発中の4機種主要データ


(サイテーション・アンコール)

 

一挙4機種の開発計画を発表 

 昨年10月、ラスベガスで開かれた米ビジネス航空協会(NBAA)の年次大会で、セスナ社は一挙4機種の開発計画を発表した。

 現用サイテーションジェットの改良型CJ1、そのストレッチ型でエンジン出力を上げたCJ2、現用サイテーション・ウルトラの改良型ウルトラ・アンコール、そして新しいソヴリンである。

 CJ1は、好調の売れ行きを見せてきたサイテーションジェットの最大離陸重量を90kgほど増やし、燃料満タンでもパイロット1人に乗客3人と手荷物をのせられるようにするというもの。離陸滑走路長は1,000m。コクピットには最新のアビオニクスを装備して、パイロットの操作性と信頼性を高め、2000年春までに型式証明を取る予定。

 その姉妹機CJ2は主翼スパンを広げ、キャビンを1mほど延ばして、乗客6人がゆったりすわれる。胴体の長くなった分だけ窓の数も増え、与圧装置は高度7,189mまで標高ゼロの気圧を保つことができる。

 最大離陸重量も増加する。尾部の貨物室が大きくなり、小型ビジネスジェットとしては最大級の2立方米以上の容積。燃料搭載量もCJ1の1,460kgから1,810kgへ増加、航続距離はCJ1の2,730kmが3,110kmに伸びる。

 エンジンはウィリアムス・ロールスロイスFJ44-2C(推力1,043kg)が2基。出力が強化されたために、13,000m以上の高々度をCJ1よりも速い740km/hの巡航速度で飛ぶ。離陸後、高度11,880mまでの上昇時間はわずか8分。パイロットは単独操縦が可能である。

 1999年夏までに初飛行し、1年間の試験飛行で型式証明を取ったのち、2001年初めから引渡しに入る計画。基本価格は420万ドル(約5億円)という。

 ウルトラ・アンコールはウルトラを基本とし、エンジンがJT15D-5DからPW535Aに変わる。どちらもプラット・アンド・ホイットニー社の製品ではあるが、エンジン換装によって、出力は10%増、燃料消費率は16%良くなり、少ない燃料で航続距離が長くなる。そのため燃料搭載量は2,637kgから2,403kgへ減って、満タン時のペイロードは110kg余り増加する。

 航続距離もウルトラより伸びる。VFR条件で1,850km、IFRで3,150kmである。着陸重量は変わらないが、最大離陸重量はウルトラよりも150kg増加、高度1,370mまでの上昇時間は31分である。

 アンコールはすでに1998年7月9日に初飛行し、9月末までに110時間の飛行をした。型式証明は99年末までに取得、2000年春から引渡しに入る。機体価格は688万ドル。ウルトラより30万ドル高い。

 

新しいソヴリン

 サイテーション・ソヴリン(モデル680)は、中型ビジネスジェットとしては最大のキャビンを持ち、米大陸横断ができる航続性能と、抜群の離着陸性能を持つ。それでいて価格は普通の中型機と変わらないから、これは最も安くて、最も大きく、最も遠くまで飛べる中型機であるとセスナ社はいう。

 すなわちセスナ社が長年にわたって保持してきた基本理念――安くて良いものを提供しようという経営哲学を実現するものである。そのための手段は、サイテーション]の胴体をやや長くして新しいスーパークリティカル翼を取りつけ、PW306Cターボファン・エンジンを装着する。価格は1998年の物価水準で1,200万ドル。この中には内装費やTCASUおよびEGPWSが含まれる。ほかに多少の装備を加えると、ソヴリンの典型的な価格は1,267万ドルになる。引渡し開始は2002年秋の予定。

 このソヴリンについて、セスナ社は価格のほかに大きさと航続性能を強調する。キャビンが大きいだけでなく、手荷物室にも余裕がある。最大巡航速度は822km/h。通常は高度10,660mを820km/hで飛行する。また高度12,500mをマッハ0.75、13,700mをマッハ0.7で飛ぶ。そしてマッハ0.68で米大陸横断が可能。運用高度限界は14,300mである。

 キャビン内部はサイテーション]より12cmほど長くなり、容積はホーカー機に比べると2割増し、リアジェット60にくらべると4割増しという。ペイロードは燃料満タンで725kg。最大ペイロードは1,130kg、乗客8人が搭乗できる。

 初飛行の予定は公表されていない。型式証明の取得目標は2002年夏、同年秋から引渡しに入るという。

 こうしてセスナ・サイテーションのラインナップは、従来の6機種が8機種に拡大され、小型機から超中型機までビジネスジェットの地歩を固める態勢がととのった。その各機種を見てゆく前に、セスナそのものの歴史を再確認しておきたい。

 
(サイテーション・ソヴリン)

 

セスナ創業と戦後の発展

 セスナ・エアクラフト社は1997年、創業70年を迎えた。今から70年余り前の1927年9月8日、カンサス州ウィチタに設立されたもので、かのリンドバーグがニューヨークからパリまで大西洋単独横断に成功してから4か月後のことであった。

 創立者はクライド・セスナ。それまではスタント飛行士として、自らつくった飛行機で年間60回以上の曲技飛行ショーを催し、大金を稼いでいたばかりでなく、数々の記録をつくった。創業10年前の1917年には自作の複葉機で、ブラックウェルからウィチタまで122kmを36分35秒で飛び、時速200キロの公式記録を樹立している。

 だがセスナ・エアクラフト社の創立から間もなく大恐慌が起こり、多くの会社がつぶれた。セスナ社も例外ではなく、1931年に解散に追い込まれた。しかし1934年、甥のドゥエイン・ウォレスが資金を投入して会社を再開する。そして2年後ドゥエインが社長になり、クライド・セスナは引退したが、社名は変わらなかった。以後ドゥエインは1975年まで40年間にわたってセスナを引っ張りつづける。

 ちなみに1975年からはラッセル・メイヤーがトップに立ち、今もその立場にある。このようにセスナ70年の歴史は、わずか3人の人物によって率いられてきた。したがって良くも悪くも家族的な雰囲気と倫理観に満たされ、最先端の技術を必要とする製品をつくりながら、家内工業で手作りの工作をするような仕事をしてきたのである。

 第2次大戦中はむろん多くの軍用機をつくった。特にAT-17ボブキャット双発練習機は1940〜44年の間に総数5,400機を製造、パイロットの養成に貢献した。が、戦争が終わると、セスナ社は直ちに民間機の製造に戻った。というのは、多数のパイロットが戦場から復員してきて、自家用機やビジネス機を飛ばすようになるだろうという予想を立てたからである。そのため誰にでも操縦しやすい安全な飛行機「空のファミリーカー」を開発するという方針を打ち出した。

 そこから生まれたのが世界中に普及したセスナ軽飛行機である。その最初は複座のモデル120単発機で、戦後5年ほどの間に2,171機が生産された。同機は85hpのピストン・エンジンをつけ、最大速度193km/hであった。次のモデル140はエンジン出力を90hpに増やして、4,905機が製造された。

 1957年9月に初飛行したモデル150は1958年にFAAの型式証明を取り、77年までの20年近い間に23,836機が生産された。左右複座で曲技飛行もできる。1977年からはモデル152が登場する。エンジン出力が増し、プロペラが改良されて、最初の1年間に1,541機が生産された。

 

軽飛行機の大量生産 

 これらの複座機に並行して、セスナ社では4人乗りの軽飛行機も生産がつづいた。1948年に生産がはじまったモデル170は、145hpのコンチネンタル・エンジンをつけてり、1956年までに5,173機が製造された。

 それに代わるモデル172スカイホークは160hpのエンジンをつけ、1956年から大量生産に入った。78年末までに30,581機が生産されて、史上最も人気の高い軽飛行機となった。そのデラックス・モデル175スカイラークは175hpのエンジンを装備、2,120機が製造された。

 モデル177カージナルは片持ち翼の4人乗り単発機で、150hpと180hpの2種類を合わせて1967年以来4,070機が生産された。

 モデル180スカイワゴンは1953年から量産に入った6人乗りの機体で、6,000機以上がつくられた。その後継モデル185は300hpのエンジンをつけて1960年7月に初飛行した。

 モデル182スカイレーンは1956年から生産がはじまった。これもよく売れた高性能機である。それによく似たモデル205は1962年から64年の間に578機が生産された。これらは、いずれも6座席だが、その内容を高めたデラックス型P206は1964〜70年の間に647機が製造され、実用型のU206ステイショネアも1964年から大量生産がはじまった。

 その頃、1963年のことだが、セスナ社は創業5万機目の飛行機を完成した。これに当たったのはモデル172スカイホークである。ちなみに1975年には10万機目の単発機が出荷された。

 一方、モデル310はセスナ初の双発機として1953年1月3日に初飛行、翌年から量産に入った。この5〜6人乗りのビジネス機は、のちに320スカイナイト、与圧キャビンの340、401、402ビジネスライナー、404タイタン(1976年)、初のファーストクラスのキャビンをもった411(1965年)、与圧キャビンをもった414チャンセラー、421ゴールデン・イーグル(1967年)と発展する。 

 だが、大量生産によって成功をおさめたかに見えたセスナ小型ピストン機も、1980年代に入ると製造物責任(プロダクト・ライビリティ:PL)の問題が大きくなり、航空機の事故や不具合に伴う訴訟問題が次々と発生して、賠償のための保険料が急増し、生産中止に追い込まれた。そのやめセスナ軽飛行機の生産は1986年に中断し、従業員は18,000人から3,000人へ激減した。

 

キャラバンにも成功 

 このようなPL法に対し、セスナ社ではラス・メイヤー会長が先頭に立って、改正運動をつづけた。その結果、1994年「ジェネラル・アビエーション再生法」が議会を通過する。その法案にクリントン大統領が署名したのは同年8月17日だが、その場にはメイヤー会長も同席していた。それを受けて、セスナ社は1996年7月3日、カンサス州インディペンデンスに新しい軽飛行機工場を設置、小型ピストン機の製造をはじめた。1986年の製造中止から丁度10年後のことである。

 製造再開後の1号機、モデル172スカイホークが顧客に引渡されたのは1997年1月。つづいて1997年4月には182スカイレーンが引渡され、8月からは206ステイショネアとT206ターボ・ステイショネアの製造もはじまった。

 PL法の問題が燃えさかる中で成功したのは、キャラバンである。1985年から引渡しがはじまった同機は頑丈な単発ターボプロップ機で、フェデラル・エクスプレスの宅配便の輸送機として採用され、販売機数を大きく伸ばした。

 キャラバンにはモデル208と208Bがある。208は標準型とキャラバン水上機、208Bは旅客輸送用のグランド・キャラバンとスーパーカーゴマスターから成る。搭載量は貨物にして最大2,100kg、乗客ならば14人で、貨客の混載も可能。全機合わせて最近までに1,000機が売れたが、フェデックスはそのうち300機を使っている。また標準型キャラバンは1998年初めから675shpのPT6A-114Aエンジンを装備、キャラバン675と呼ばれるようになった。

 なお、創業者のクライド・セスナは1936年に会社を退いたのち、農業にいそしんだ。しかし、その間にもアメリカ航空界の先駆者として数々の栄誉と表彰を受けている。1953年には当時のアイゼンハワー大統領から「航空の世界を切り開き、傑出した貢献をした」という理由で表彰を受けた。

 その死は1954年11月21日、心臓マヒであった。享年74歳。サイテーション登場前のことだが、航空界におけるセスナの名前は誰ひとり知らぬものはなく、これからも忘れられることはないであろう。

 

サイテーションの誕生

 それでは以下、サイテーションの系譜をたどることにする。このビジネスジェットは過去30年間に、昨秋公表されたばかりの計画も含めて、少なくとも16機種が開発され、生産されている。これらは技術的に関連しつつ、派生型や発達型、もしくはややかけ離れた独立型となって登場してきた。

 したがって、これらの16機種をただ一列に並べただけでは、頭に入りにくい。そこで、ここでは時間的な順序を追いながら、できるだけ相互の関係を見てゆくことにしたい。それを図示したのが下の図だが、この整理は私自身によるもので、セスナ関係者やサイテーションに詳しい人から見ればおかしいところがあるかもしれない。ご指摘をいただければ、後日修正いたしたい。

 

 セスナ・エアクラフト社がジェット・ビジネス機の開発を構想しはじめたのは、1960年代の終わり頃であった。その背景にあったのは、いうまでもなく軽飛行機の生産実績である。当時セスナ機は単発と双発を合わせて世界中で10万機以上が飛び、軽飛行機の分野では圧倒的なシェアを誇っていた。

 また、これらの軽飛行機は、34%がビジネス機として使われていた。しかし飛行能力はほとんどが航続距離1,000km以下で、乗客は通常3人くらいしか乗れななかった。ところが、当時のアメリカは経済成長が続いており、大企業の経営者たちは出張する機会が増え、しかも範囲が拡大しつつあった。

 その頃アメリカには9,000か所の飛行場があったが、そのうち定期路線が飛んでいる空港は525か所に過ぎなかった。しかも定期便はほとんど大都市の空港に集中していて、国内旅客の68%はわずか22か所の空港で乗降していたのである。

 そのあたりの問題点に気づいたセスナ社は、ビジネス航空の市場調査をした結果、最高級のターボプロップ機は値段が58万ドルで、高度7,500mを480km/hで飛べるような機材。またジェット機は最も安くて80万ドル。高度10,500mを800km/hで飛ぶというものだった。しかもターボプロップ機はパイロット1人で操縦できたのに対し、ジェットの方はパイロット2人が乗り組まねばならないというのが、当時のFAAの規則であった。

 そこでセスナ社はターボプロップとジェットの中間をいくビジネスジェットを考えた。機体価格は60万ドル。高度10,000mを640km/hで飛び、運航費や整備費が最小限ですむ機材である。また操縦がやさしくて、双発機のライセンスを持っているパイロットならば、容易に乗りこなせるように考えた。

 それは、これまでの軽飛行機の生産にあたって、安全で、操縦がしやすく、経済的な製品をつくり出すというセスナ社の基本理念を、ビジネスジェットにも同じように当てはめたものである。事実、そこから生まれたセスナ・サイテーションは今日までの30年間、どの機種も安全で、使いやすく、経済的な航空機ばかりとなった。

 その始まりは「ファンジェット500」である。キャビンは6人乗りで与圧され、ビジネスジェットとしては初めて1人でも操縦できるように設計された。また価格を抑えるために高速性能を二の次としたため、鳥が後ろからぶつかるなどと悪口をいわれたこともある。

 この開発計画が発表されたのは1968年10月、NBAA大会の会場であった。エンジンはプラット・アンド・ホイットニーJT15D-1が2基。公表から間もなく、たちまちにして125機の注文を獲得した。

 

3冠馬の名前を取る

 ファンジェット500の初飛行は計画公表から1年後の1969年9月15日であった。ウィチタ市営空港の滑走路を450mほど走っただけで地面を離れ、離陸性能が設計通りであることを実証した。そのあとをセスナ421がついて上がり、空中での監視と写真撮影をおこなった。飛行は1時間45分に及んだ。この間、脚が引込められ、速度は416km/hに達したが、到達高度は雲が低くて3,000mまでしか上がれなかった。それでも2人のテスト・パイロットは機体に取りつけられた諸系統の点検をおこない、予想以上にすぐれた航空機であることを確認した。

 その後もテスト飛行は順調に進んだ。しかしネーミングが良くない。ファンジェットなどという言葉はどこにでもある普通の言葉だし、500という数字をもった飛行機は、エアロコマンダー500やロッキードL-500など至るところに見られた。

 そこでセスナ社は智恵を絞り、さまざまな神話や古典文学をあさり、会社の内外からアイディアを集め、ついに「サイテーション」(Citation)という名前にたどり着いた。それは神話でも古典でもなく、1頭の馬の名前である。しかし、そのサラブレッドは1948年の3冠馬に輝いた駿馬で、20年たった当時としては神話や古典のような名前でもあった。それに3冠馬の脚の速さと勝負強さは、セスナ社の新しいビジネスジェットにふさわしい名称でもあろう。

 こうしてサイテーションと呼ばれるようになったビジネスジェットは、風洞試験やテスト飛行によって総重量が増加したり、エンジンの取りつけ位置が後方に移ったり、垂直尾翼が大きくなったりする設計変更もあったが、初飛行から2年後の1971年9月9日、FARパート25にもとづく型式証明を取得した。

 この間、エンジンの騒音を減らすために空気取入れ口のコンプレッサーも取り除かれた。この措置は、その後まもなく騒音問題がやかましくなったことからすれば、正解であった。これで同機が上空300mを通過したときの騒音は81デシベルになったが、それは双発ピストン機と同程度の騒音であり、ちょっとやかましい会社オフィスなどと変わらない騒音である。

 また騒音が小さいために、サイテーションはそれまでジェット機の乗り入れを認めなかった飛行場へも入っていくことができた。そのうえ比較的短い滑走路でも発着できるという離着陸性能の良さが相まって、サイテーションはどこでも使える便利なジェット・ビジネス機というセールス・ポイントで販売できるようになった。

 

石油危機で売れゆき増加

 サイテーションは売れゆきも悪くなかった。価格は1970年9月のNBAA大会で695,000ドルと発表された。この中にはアビオニクス装備と地上および飛行訓練費が含まれ、コンピューターによる1年間の整備管理費も含まれていた。それに機体については3年間、アビオニクスについては1年間の補償期間が設けられた。つまりセスナ社としては、誰でも手軽に安心して使えるようなサイテーション支援体制をつくり上げたのである。

 その販売のためのセールスマンは80人。彼らは先ず実物大のモックアップをトレーラーに積みこんで、全米を走り回った。そして1971年8月、量産1号機が飛ぶや、すぐに全米でデモ飛行がはじまり、わずか2週間のうちに95時間の飛行をした。こうして量産機の引渡し開始までに投入された販売費は3,500万ドル――当時のセスナ社にとっては資産の4割という大金であった。

 こんな販売努力に加えて、ちょっとした幸運もあった。というのはサイテーションの引渡し開始と同時に石油危機が起こったのである。これでジェネラル・アビエーションの分野は大きな打撃を受けたが、サイテーションにとっては却って有利に作用した。その一つは、サイテーションがほかのビジネスジェットにくらべて2〜7割も燃費が少なく、石油危機への対応策としてはピッタリの航空機だったからである。

 そのうえ定期航空が石油危機のあおりで便数を減らしたため、旅客機が混み合うようになり、いっそうサイテーションの人気が高まった。そして三つめの幸運は、石油危機のために開発活動が活発になった石油会社にサイテーションがよく売れたことである。

 こうしてサイテーションは1972年1月の引渡し開始から3年間、石油危機を背景として競争相手を引き離し、ビジネスジェットのベストセラーとなった。引渡し機数は1972年の52機から74年には85機に増えた。この間、74年11月に200号機が完成し、75年7月には250号機が出来上がった。

 また最初の顧客の中にはカリフォルニア州政府も含まれ、当時のドナルド・レーガン知事の乗用機となった。これで知事が定期便に乗ったときのハイジャックを心配する必要もなくなり、身辺警護も楽になった。

 のちに1976年12月15日、主翼スパンを伸ばし、最大離陸重量を5,375kgに増やして、スラストリバーサーをつけたサイテーションTが型式証明を取り、12月21日から引渡しに入った。

 

単独操縦へのこだわり

 しかし、初めのうちサイテーションにも一つの問題があった。パイロットの単独操縦が認められなかったことである。それは型式証明の認可の基準が連邦航空規則FARパート25、つまり大型旅客機と同じ基準だったためで、パイロットは2人が乗組むよう義務づけられていた。

 けれどもサイテーションはもともとパイロット1人でも操縦できるよう設計されたものである。そこでFAAに対して再申請が出され、さまざまな試験飛行がおこなわれたのち、1977年1月7日サイテーションT/SP(モデル501)がFAR23にもとづく型式証明によって単独操縦を認められた。FAR23は小型般用機やコミューター機の型式証明基準で、SPとはシングル・パイロットの略である。

 ただし、FAR23は総重量5,670kg以下の航空機が対象である。そこでセスナ社は制限重量を超える機体についても例外を認めてもらうようFAAと交渉をはじめた。その結果、1984年に条件つきではあったが、適用除外が認められ、その後のサイテーションU、サイテーションジェット、ブラボー、サイテーションV、ウルトラなど、パイロット1人での操縦が可能となった。

 このようにパイロットの単独操縦ができるビジネスジェットは、サイテーションが初めてである。そのことにセスナ社がこだわったのは、経済的にすぐれた航空機をつくるばかりでなく、航空機自体の優秀性を示すものと考えたからであろう。

 

サイテーションUに発展

 サイテーションTにつづいては、その胴体を1.2m引き延ばしたサイテーションU(モデル550)が登場する。主翼スパンが増加し、胴体が延びて8人乗りとなり、総重量が増えたにもかかわらず、離陸滑走距離は911mまで短縮された。同時に運用高度限界は13,100mまで上がった。

 エンジンはP&W JT15D-4ターボファンが2基。騒音は機体の内外ともに静かで、燃料効率が良く、燃料搭載量が増えて航続距離が伸びた。また当初のサイテーションの長所を残しながら、機内は広く、手荷物室の容量も大きくなった。パイロットの単独操縦が可能なU/SPは計器に工夫があって、1人でも操縦がしやすいようにできていた。

 この開発計画が公表されたのは1976年9月14日、改良型のサイテーションTが型式証明を取得する直前であった。そして1977年1月31日に原型機が初飛行し、1978年3月に型式証明が交付された。

 つづいてパイロット1人でも操縦可能なサイテーションU/SPがFAR23にもとづいて型式証明を取得した。最大離陸重量はサイテーションUの6,033kgに対して、5,670kgに抑えられたが、昼夜間の計器飛行が可能だった。

 サイテーションUは1984年までに503機が生産されて、改良型のS/Uに受け継がれた。その違いは、主翼がサイテーションVと同じスーパークリティカル翼に変わり、高速時の抵抗を減らして一層の高速性能を発揮しながら、低速時の操縦性を保持し、短い滑走路でも離着陸可能というものであった。また主翼と胴体の取りつけ部のフェアリングの形状を改めて抵抗を減らしたり、燃料搭載量を増やしている。

 さらに機内騒音が小さくなり、手荷物室が大きく、有効搭載量が増加した。またパイロット1人での操縦も可能であった。

 同機は1984年2月14日に初飛行し、同年夏に型式証明を取って引渡しに入った。しかし、それから間もなく1985年9月ニューオルリンズで開かれたNBAA大会で、セスナ社は再びサイテーションUの生産を再開すると発表した。こうしてサイテーションUはS/Uを合わせて、1994年末まで16年間にわたって生産がつづき、引渡し総数は800機以上となった。

 その後はブラボーに引き継がれたが、高性能のS/UはサイテーションXにもつながる。


(開発中のサイテーションCJ1)

 

フラクショナル機として大量受注

 余談ながら、サイテーションS/Uは、その頃エグゼクティブ・ジェット・アビエーション(EJA)社から一挙6機の注文を獲得した。ビジネス機は本来、個々の企業が経営トップのために購入するもので、ひとつの会社からいっぺんに多数の注文がくることは珍しい。

 ところがEJAは、この6機のサイテーションによって独自のフラクショナル・オーナーシップ事業を始めようとしていたのである。同社は1965年に設立され、ビジネス機のチャーター運航をしていたが、1984年フラクショナル・オーナーシップというアイディアを生み出し、その事業に乗り出した。その事業内容は、ビジネスジェットの所有権を分割して売り出し、それを買った分割所有者にはいつでもその飛行機に乗れるという権利を保証した。たとえば、ある飛行機の8分の1の所有権を買った顧客は年間100時間の飛行をする権利を持つというものである。

 この方式は当初、航空機のセールスマンから嫌われた。本来ならば飛行機1機が売れるところが8分の1しか売れなくなると思われたからである。ところが実際は逆で、EJA自身が先ず大量にサイテーションを買いこみ、さらにビジネスジェットなど考えてもみなかったような多くの顧客を開拓してくれたのである。

 冒頭にご紹介したサイテーション・ソヴリンは、昨1998年10月のNBAA大会で開発計画が公表されたものだが、その発表と同時に50機を発注したのもEJAであった。この6億5,000万ドル相当の注文に加えて、同社はさらに50機の仮注文も出している。

 また、それより先、上のS/Uによってフラクショナル事業を始めたEJAはサイテーションを次々と発注し、近年ではサイテーションXウルトラを78機、サイテーションZを29機、サイテーション・エクセルを52機、サイテーション]を36機購入している。これだけでも、EJAがセスナ社に支払った金額は20億ドルを下らないであろう。

  

高性能のサイテーションV 

 サイテーションUに続くサイテーションVは全く新しく設計された高速中型機で、それまでのサイテーションよりもかなり大きな機体である。その設計にあたっては、さまざまな研究と調査がおこなわれ、3発機も検討されたが、セスナ社のめざす市場には合わないということになり双発機に落着いた。

 初飛行は1979年5月30日。試験飛行中に軽いダイブでマッハ0.90を記録し、最大運用速度はマッハ0.83まで認められることになった。FAAの型式証明は1982年4月30日。引渡し開始は1982年12月で、200機以上が生産された。

 サイテーションVの高性能は主翼の設計からきている。新しく設計された後退翼に加えて、翼型も新しくなり、従来の標準的なビジネスジェットにくらべて抵抗が小さかった。運用高度限界も15,500mに上がった。この高度では、もしも与圧がなければパイロットは数秒間で失神するほどの気圧だから、万一与圧系統が故障したときはオートパイロットによって自動的に4,200mまで降下し、水平飛行に移るような仕組みになっている。

 だがサイテーションVの最大の特徴はやはり飛行性能で、高々度ではこのクラスのビジネスジェットの中では最も速く、また安定性が良く、上昇性能にもすぐれていた。それに燃費が少ないので、運航費が安いという特徴も見逃せない。

 このビジネスジェットを最初に買ったのはゴルファーのアーノルド・パーマーである。彼は、この飛行機を「V番アイアン」と称して、自ら高性能の操縦を楽しんだ。

 サイテーションVからはサイテーションYとZが生まれた。サイテーションYは1990年代初めに登場したもので、サイテーションVのすぐれた飛行性能を受け継ぎながら、最新の機器を搭載して、より近代的な航空機となった。1983年から94年までにサイテーションVとYは合わせて240機生産された。

 サイテーションZは、さらに飛行性能を高めたもので、強力なギャレットTFE731-4ターボファン・エンジンを装備して、上昇性能と速度性能が良くなった。機体形状は有害抵抗が少なくなり、巡航速度は885km/h。型式証明の取得は1992年3月で、その1か月後から量産機の引渡しがはじまった。

 

サイテーションXとウルトラ

 サイテーションYとZの開発に先だち、モデルVに続いて、サイテーションXの開発がはじまった。その開発計画は、1987年9月のNBAAで明らかにされたが、実機はそれに先だって1987年8月に初飛行していた。

 その基本となったのはサイテーションS/Uで、P&W JT15D-5Aエンジンを装備、推力は360kg増の1,315kgとなり、巡航速度は790km/hへ向上した。運用高度限界も13,500mまで上がっている。また胴体が0.6mほど伸びて、キャビン長は5.5mになり、同じ8人乗りでも機内の余裕ができた。外観上は窓が片側1個ずつ増えて、7個になった。

 最大の特徴はやはりスーパークリティカル翼である。S/Uから受け継いだものだが、前縁には新しい防氷装置がついた。このスーパークリティカル翼はセスナ独自に開発したもので、非常に評判が良く、サイテーションVもそのため量産機の引渡し開始の時点までに70機の予約注文を受けていた。

 型式証明は1988年12月9日。翌89年4月から引渡しがはじまった。標準装備には乗客8人分の内装、レーダー、ハニウェル自動操縦装置、スラスト・リバーサー、航法装置などが含まれる。

 こうしたサイテーションXは5年後の1994年9月からサイテーション・ウルトラに変わった。これも大きな技術革新で、サイテーションXを基本として全体の設計を改めた結果、機体外形は変わらないが、内部はキャビン設計も操縦系統もパイロット計器パネルも飛行性能もすべてが改良され、巡航速度と航続性能が向上した。

 エンジンはJT15D-5D。出力は1,380kgに増加したが、これがウルトラの飛行性能を向上させた最大の理由である。

 その飛行ぶりは、最大離陸重量でも970mの滑走で飛び上がり、高度12,500mまで20分で到達する。乗客は8人。モデルXよりも速く、その出現当時、ウルトラは「ベスト・ビジネスジェット」といわれ、「より優れた飛行性能を求め、より良い快適性を望み、より速い速度を願いながら、費用をかけたくない人のためのビジネスジェット」と評価された。

 このサイテーション・ウルトラの発達型が、昨秋公表されたウルトラ・アンコールである。

 
(サイテーション・エクセル)

 

理想を追究したエクセル 

 ウルトラの開発に並行して、セスナ社では1993年、未来を先取りするような設計研究がはじまった。サイテーションXの主翼、尾部、および諸系統を利用しながら、もっと大きなキャビンをもつ新しいビジネスジェットを開発しようというプロジェクトである。

 この計画には特別大きな(extra large)キャビンを持つモデル560という意味で、560XLという名前がつけられた。その発音がなまって「エクセル」になったのである。1994年秋に計画公表となったエクセルは、乗客がかがむことなく、真っ直ぐに立って背を伸ばしたまま機内を歩けるようなキャビンをもちながら、構造は簡単で、離着陸距離が短いという特徴を持っていた。

 このような広いキャビンは、ビジネスジェットの普及につれて、必要条件と考えられるようになった。ちなみに当時のビジネスジェットに求められた条件は、広いキャビンのほかに、滑走距離が短かく、信頼性が高く、手荷物室が大きくて、機体価格と運航費が安いことであった。エクセルは、そんな理想的なビジネスジェットをめざしたもので、発表と同時に200機の注文を受け、最終的には1,000機の販売を目標としている。

 エンジンはPW545。これでエクセルの巡航速度は800km/h以上、滑走距離は1,066m、高度12,500mまでの上昇時間は20分であった。

 

原点に戻った小型機 

 このようにして、サイテーションが高性能に向かう一方、セスナ社はもう一度原点に戻り、1970年代のサイテーション原型機やサイテーションTの設計思想に立ち返って、ビジネスジェットを初めて使う人のためのサイテーションをつくるべきではないかと考えた。それによって新たな顧客を開拓しようというわけだが、それがサイテーションジェットである。

 同機はかつてのサイテーションTと同程度のキャビンを持ちながら、エンジンはJT15D-1A(推力998kg)からウィリアムスFJ44-1(推力860kg)に換装して出力を減らした。にもかかわらず、速度性能は逆に良くなり、航続性能も伸びるという結果となった。その秘訣は機体を軽くして、層流翼型を採用し、機体構造にも画期的な改良を加えたためである。構造を改めることで胴体の外形も変わり、主翼の取りつけも単純化された。

 結果としてサイテーションジェットはキャビンの利用面積が大きくなり、総重量はサイテーションTの5,375kgから4,672kgへ減り、燃料搭載量も1,714kgから1,460kgへ減りながら燃費は2割ほど減って、航続距離は1割の伸びとなった。

 ウィリアムスFJ44エンジンは小型のターボファンで、プラット・アンド・ホイットニーよりも単純な構造を持ち、構成部品は700点しかない。このエンジンはサイテーションジェットの整備費や運航費の引き下げにも役立っている。

 初飛行は1991年4月29日。1993年1月の引渡し開始までには約100機の注文を受けたが、初めてビジネスジェットを使うという新しい顧客を開拓するのに貢献した。発注者の3割がターボプロップ機からの乗り換えだったのである。

 このサイテーションジェットは間もなく、昨秋発表された改良型CJ1とストレッチ型のCJ2に発展することになっている。

 

世界最速のビジネス機

 サイテーション]は世界で最も速いビジネスジェットである。というよりも、民間機の中ではコンコルドに次いで、どの機種よりも速い航空機というべきであろう。あるいはコンコルドがわずか十機余りしかつくられなかった特殊な超音速機であることからすれば、真の実用機としては世界最速といえるかもしれない。

 引渡しがはじまったのは1996年。一度でも乗ったことのある人は、パイロットでも旅客でも誰もが魅了された。というのは、高度13,100mをマッハ0.92の高速で飛ぶために、サイテーション]はいつも旅客機を眼下に見下ろしながら、追い抜いて行けるからである。旅客機のパイロットたちは頭上を駆け抜けて行く飛行機を見て無線機のマイクを取り上げ、地上の管制官にいま飛んで行った機体は何かと問い合わせる。管制官がサイテーションだと答えると、彼らは決まって黙りこんでしまうのである。

 このサイテーション]の構想が明らかにされたのは1990年10月ニューオーリンズで開かれたNBAA大会のときであった。価格は1,200万ドルだが、飛行性能は2,000〜2,500万ドルの機材にもひけを取らないという意気込みだった。

 高性能のジェット機を設計するには、エンジンと主翼の組み合わせが大切である。そのためセスナ社はいくつものエンジン・メーカーと交渉し、理想的なエンジンの開発を要請した。その理想とは、高々度の飛行が可能で、高出力で燃費が少なく、高い信頼性と整備性を持ち、騒音と排気ガスが少なく、出力の余裕があるというもの。しかも、顧客に対しては2,500時間もしくは5年間の保証ができなければならないというのである。

 この理想の条件を掲げて、セスナ社はいくつものエンジン・メーカーに当たり、最後にアリソン3007Cターボファンを探し出した。それはサイテーションVのギャレットTFE731より2倍近い大きさで、推力は64%増しであった。

 エンジンが決まると、次は主翼の設計である。ボーイング777の主翼設計チームの協力を得て、後退角37°の主翼が実現することになった。この角度はビジネスジェットの中では最も深く、旅客機でもボーイング747のそれに近い。翼型はスーパークリティカルで、主翼上面の衝撃波の発生が後方に移るため、抵抗の発生を遅らせることができる。こうして、サイテーション]の主翼は、空力的に高速、高々度でこそ本来の機能を発揮するものとなった。

 

 
(サイテーション])

理想のビジネスジェット

 実際、出来上がった機体は試験飛行中に軽いダイブをしてマッハ0.99の最高速度を記録した。これはFAAの規則に、マッハ0.92を運用速度限界とするためには、マッハ0.07の余裕がなければならないという規定があるためである。そこで、実際にマッハ0.99が可能であることを実証し、そのうえで限界速度はマッハ0.92ということになった。

 このような速度を出すためには、胴体も細心の注意をもって設計されなければならない。前方胴体とコクピットはサイテーションVから流用したものだが、Vよりもやや長い。またキャビンの大きいことが求められ、床と座席は5cmほど下げて、少しでも頭上に余裕ができるようにした。中央の通路は長さが7.3mほどで、天井の高さは1.77mになっている。

 胴体下面のフェアリングは主翼の付け根部分でふくれながら、機首下面から尾部までつづく。これは胴体に沿って発生する有害抵抗を最小限に抑えるための形状である。同時に、このふくらみのために、その内部に操縦ケーブルや油圧系統などを通すことができて、それだけキャビンの余裕が生じることにもなる。

 コクピットには、いうまでもなく最新の電子装備が取りつけられている。特異なのはパイロットの頭上にスィッチ・パネルがないことである。

 このサイテーション]がウィチタで45分間の初飛行をしたのは1993年12月21日。それから2年5か月後にFAAの型式証明を取得した。量産1号機が引渡されたのは1996年8月29日。受け取ったのはゴルファーのアーノルド・パーマーであった。そして曰く「私はこの飛行機の完成を首を長くして待っていた。この飛行機がまだ開発段階にあったときから、私は何度もセスナ社に足を運び、話を聞いては興奮したものだった。だから、いよいよ実物が出来上がった今、私はこの飛行機について何もかも知っているような気がするが、本当はこれからわくわくするような飛行がはじまるのだ」

 マッハ0.92などという速度は、数年前までは誰もがその実現に疑問を抱いていた。その夢のスピードが、今ここに実現したのである。

 サイテーション]の設計チームは1997年5月、コリアー・トロフィーを授与された。セスナ社としては2度目の受賞だが、その理由は「理想のビジネスジェットの設計、開発、型式証明取得に成功し、アメリカ航空史上初めてマッハ0.92の高速巡航性能を持つ航空機を実現させた」というものであった。

 話は冒頭に戻る。創業70年にして世界で最も速いビジネスジェットを実現しながら、セスナ社はさらに昨年10月、一挙4機種の開発と改良に乗り出した。その飽くなき挑戦は、今後いっそうサイテーションの将来を揺るぎないものとしてゆくであろう。

(西川渉、『エアワールド』誌99年3月号掲載)

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