デク大臣と白アリ官僚

 

 新しい内閣がスタートしたばかりだが、閣僚として選ばれた諸公はいつまで大臣の椅子を享受できるのか。

 大臣の任期は「憲法にも示されておらず、現実に戦後の大臣の平均在任期間は1年に満たない」。何故そうなるのか。「最大の理由は一人でも多くの自民党議員が一度は大臣を経験するためである」と書いているのは菅直人著『大臣』(岩波書店、1998年5月29日刊)である。

 なんのことはない、大臣というのは仕事をするための役職ではなくて、名誉を得るための地位だったのである。確かに、先日の組閣を見ていても、自薦他薦の猟官騒ぎは餌に群がるサルかハイエナみたいで、ようやく餌にありつけたのか、テレビ・カメラの前で思わず「やっと」という言葉を漏らした新米大臣もいた。

 こういう人物にとってはとにかく大臣にさえなればいいのであって、任期が長かろうと短かかろうとろくな仕事はせず、1年足らずでは実質的な業績も上げられないのは当然のこと。官僚の意のままに動かされて、その結果がここまで堕落した日本となったのである。

 この本によれば、官僚に動かされる大臣のシステムは、任命の瞬間からはじまる。首相官邸に呼ばれて、総理大臣から「何々大臣をお願いします」といわれるまで、自分が何大臣になるのか分からない。そして短かいやりとりの後に部屋を出た途端、就任した役所の官僚に呼び止められ、「このたびは、おめでとうございます」などと莫迦げた挨拶を受ける。

「支持者や親しい人、あるいは同僚の議員からおめでとうと言われるのはありがたく、素直に受け入れられるのだが、部下となる役所の者に言われるのはどうしても奇異な感覚だった」と著者は書いている。本来ならば「よろしくお願いします」と言わねばならないはずだが、なに役人の本心は、大臣はあくまでお客さんに過ぎないのである。

 著者は、この奇異な挨拶と同時にメモを渡され、就任の記者会見でしゃべる内容についてレクチャーを受けるが、「私は組閣当日の記者会見は廃止したほうがいいと思う」と書いている。「官邸のドアを開けるまでは、自分がどこの大臣か分からないケースの方が多い。その状況で、いきなり記者会見で政策方針などを聞かれても、答えられるほうがおかしい」

 先日の組閣でも、私は午前2時近くまで全閣僚の記者会見を聞いたが、結局は時間の無駄で、堺屋太一経済企画庁長官の話を除いては何にも残らず、閣僚諸公も所信や方針を語るというよりは、何とかうまくこの場をやり過ごしたいという気持の方が先に立っているように見えた。

  

 本書の中で、厚生大臣になった著者は、まず省内の「大臣レク」に臨む。そこには30人もの幹部職員が詰めかけていて、1対30で著者の洗脳にかかる。その中で薬害エイズ事件に関する官僚たちの主張が出てきたとき、著者は彼らの説明をさえぎって「なぜ400人もの患者が亡くなるような大事件が起きたのか。調査チームをつくって徹底的に調べたい」と切り出す。

 ところが、官僚たちは調査委員会をつくることに同意しない。理由は前例がないからというが、実は本当のことがばれてしまっては自分たち自身が恐ろしい罪をかぶることになるからであった。その結果はすでに明らかになっている通りで、最近もエイズ研究班の最初の会議を録音したテープが法廷に出された。このテープは、その存在すら隠されていたものだが、関係者は非加熱の輸入血液製剤が怪しいことを明らかに認識していたことを示す内容であった。

 エイズ調査委員会の設置を考えた著者の頭の中にあったのは、航空機事故調査委員会だった。もっとも、本書の説明では「航空機が墜落した場合に運輸省でつくられる……この委員会では専門家たちが事故の原因を調査し、必要があれば刑事告発もする」と書かれていて、わずか2〜3行の文章にいくつもの間違いが見られるのは残念である。

 ここに書くまでもないが、事故調査委員会は昔の全日空727の羽田沖事故の当時と異なり、事故の発生に応じてつくられるものではないし、運輸省からは一応独立した組織になっているはず。また委員会が刑事告発をするのかどうか。私の理解はあくまで同じような事故を繰り返さぬために原因を明らかにして対策を立てることであって、告発まではしないのではないかと思う。ただし、乗員その他の関係者に業務上過失致死傷などの罪状が認められるときは、警察が告発することになろう。

 つまり事故調査は、原因究明と責任追及を分けておこなうことが重要で、これをごっちゃにすると乗員や関係者の正確な話が聞けなくなってしまう。そこで航空事故の調査では原因究明に重点が置かれるが、薬害エイズ事件の場合は原因究明がすなわち責任追究につながるところに官僚たちの抵抗があった。もっとも現在、原因究明はほぼ明らかになったが、責任追及がどこまで進んでいるのか、必ずしも充分とは思えぬところがある。

 

 本書に出てくるもうひとつの問題は、大臣になると「自分は何々省の代表だ」という意識にとらわれ、結果として縦割り感覚になってしまうことである。そこから省庁間をへだてる壁がますます高くなり、「まるで別の国の政府のよう」になってくる。

 しかも、私の見たところ、お互いに言葉の通じない国のような関係で、直接話し合うことは殆どない。間に通訳を入れないと話ができず、その通訳になるのはしばしば民間業者である。あるプロジェクトが複数の省庁に関連する場合、民間人が間に立って走り回らなければ話は進まない。プロジェクトの窓口は一つの省であっても、その省が関連省庁と調整をしたり、依頼を出したりするようなことはないのである。

 

 さらに閣議のあり方も問題と著者は書いている。というのは閣議の議題は事務次官会議を通過したものしか出てこないからで、閣議では実質的な論議は何にもおこなわれず、単に「事務次官会議の追認機関になっているのが今の姿である」。

 そして出てきた議題は、官房長官が案件を読み上げる間に、各大臣は次々と署名していかなければならない。多い日は何十という案件があって、質問とか議論などしている暇はない。「書類は総理から始まり、右にまわっていく。次から次にくる。いちいち中味をチェックすることもできない。ましてや、その内容をしっかり読んで確認するなど、とても不可能だ」

「実は……翌日の新聞を見て初めて昨日の閣議でこんなことが決まったのかと知ることもあった」。いわば「サイン会だけの閣議」だったと著者は書いている。

 しかも、閣議に議題を上げる事務次官会議は、全省庁の利害関係が一致したものしか通さないから、どこか都合が悪いという省庁が一つでもあれば、廃案になってしまう。当然、閣議の論議は必要がないわけで、これでは行政改革もへったくれもないであろう。

 かくて大臣諸公が官僚の操るデク人形を演じている間に、白アリ官僚の方は土台や支柱の中に自分の巣をどんどん食い広げてゆき、最後は柱そのものを腐らせてしまう。薬害エイズの多数の犠牲者が出たのも、岡光以下の厚生省幹部の汚職も、すべてはそうした白アリ行政の結果であった。無論どの省庁も同様であろうことは想像に難くない。

 2か月前に出版された本書はそうした実態を明確に描き出し、大臣のあり方、閣議のあり方、国会審議のあり方などを具体的に提案している。

 私も本が出た直後に読んだが、ちょうど国会の委員会の場で著者が「私が最近書いたものです」といいながら橋本首相に手渡している場面がテレビに映った。しかし橋本内閣にとって何の効果もなかったことは、この2か月間のていたらくが証明している。

 小渕内閣も相変わらず、デク大臣の集合に終わるのだろうか。

(西川渉、98.8.2) 

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