ヘリコプター初物語

 〜First Attempts〜

 

 ヘリコプターの歴史については、今年5月から7月にかけて本頁に20年前の拙文を11回に分けて掲載した。にもかかわらず、今度は10年余り前の拙文を再び掲載することといたしたい。今回はヘリコプターに関して初めての出来事をたどりながら、その歴史を組み立てる構成になっている。前回との間には重複しているところもあるので、そのあたりはやや手を入れて簡略にした。

 また前回同様、できるだけインターネットの機能を生かして、拙文に関連するウェブサイトがあれば、そこにリンクさせて、立体的な構成になるよう心がけたい。


第一章 ヘリコプター前史

 

初めに原理ありき

 レオナルド・ダビンチ(1452〜1519年)はルネサンス期の「万能の人」として、絵画や彫刻などの芸術作品を初め、土木技術、数学、地質学、水力学、解剖学、機械学など多彩な分野に業績を残した。それらの研究の成果はおびただしい手記の中に残されているが、航空に関しても鳥の飛翔の解明に始まって、はばたき機、グライダー、パラシュート、空気ねじなどの設計スケッチとメモが残っている。この空気ねじをレオナルドは「ヘリックス」と呼び、「のりづけした布でらせん形の帆のようなものつくり、円形の台の上に立てた帆柱に取りつけ、それを高速で回転させるならば、それは空中高く昇っていくであろう」と説明している。これがヘリコプターでなくて何だろうか。ヘリコプターの原理は、ここに発想されたといえよう。

 このレオナルド・ダビンチの誕生日――1452年4月15日にちなんで、このほど「ヘリコプターの日」が制定された。今年(1986年)4月15日には、記念行事として「ヘリコプターの夕べ」が開かれ、学識経験者による講演会が行われる。また5月10日〜11日には東京ヘリポートで国際ヘリコプター・ショーが催される予定である。

初めての模型実験

 回転翼によって空中に持ち上げようという発想を、実際の模型実験に移したのは「ロシア科学の父」ミハイル・ロモノーソフ(1711〜1765年)が史上初といわれる。1754年のことであったが、彼自身は300年前にレオナルド・ダビンチが空気ねじの原理を考え出したことを知らなかったらしい。

 この模型は「エアロダイナミック」と呼ばれ、ロシア科学アカデミーの会報によれば、「2つの回転翼を時計のバネによって反対方向に回し、空気を下向きに抑えつけて上昇するという発明であった」この装置によって、ロモノーソフは温度計その他の測定機器を大空へ飛ばそうとしたのである。

 つづいて西ヨーロッパでも、いくつかの模型実験が行われた。フランスの博物学者、ローノイの模型は鳥の羽根を使った回転翼を心棒の上下に取りつけ、ロモノーソフの模型と同様、反対方向に回して回転トルクを打ち消すようになっていた。1784年にはパリの万国博覧会でも実演され、人びとの関心を広く集めたといわれる。

 イギリスの科学者、ジョージ・ケーレイ卿(1773〜1857年)は「航空学の父」として固定翼の原理を解明した人だが、回転翼についても関心を持ち、多くの模型をつくった。最後の設計は1843年に発表されたもので、4つのローターと2つのプロペラがあって「空飛ぶ馬車」と名づけられた。それは車体の左右に同軸反対式のローターを張り出し、これで上昇しながら、後方のプロペラで前向きに推進させようという構想であった。

エジソンの出力計算

 その後、多くの人びとが垂直飛行のなぞに取り組、さまざまな模型実験を試みた。有名なトーマス・エジソンもそのひとりである。彼はローターの種類をあれこれと変え、それらを電気モーターで回しながら重量計につないで、各ローターの発揮する揚力を測定した。その結果、どんなに効率の良いローターでも、当時存在するエンジンでは最大70kg程度の揚力しか発揮できないという結論に達し、ヘリコプターの実験を中止してしまった。

 エジソンの計算によれば、ヘリコプターを飛ばすためのエンジンは、重さが1馬力あたり1.2〜1.7kg以下でなければならないという。つまり、その程度に効率の良い、軽くて力の強いエンジンが実現するまでは、回転翼機も実現できないという結論だった。

 ここに回転翼の原理が何百年も前からわかっていながら、ヘリコプターがなかなか実現せず、ライト兄弟の飛行機(1903年)に先を越された理由がある。(つづく

(『航空ジャーナル』別冊「ヘリコプターの世界」掲載、1986年2月刊)

【後記】

 その昔、朝日航洋の社長、高橋英典氏(故人)から、レオナルド・ダビンチの誕生日を調べてくれといわれた。翌日その答えをもってゆくと、「よし、これをヘリコプターの日にしよう」ということになった。それが本文にあるわが国「ヘリコプターの日」の由来である。

 それから3年間、全日本航空事業連合会は毎年、4月15日に記念講演会、半月後のゴールデン・ウィークに東京ヘリポートでヘリコプター・ショーを開催した。折から日本経済は高揚期にあり、景気のいいところへショーの宣伝も効いたのか、あれこれ相まって自家用ヘリコプターが急増した。

 自家用機急増の要因のひとつに、ヘリコプターの減価償却が2年で可能だったこともある。これは昭和30年頃、税法上の償却年数を決めたとき、ヘリコプターの耐用年数がグライダーと同じ――すなわち2年程度とみなされたことによる。つまり、高価なヘリコプターを2年で償却できるというので、節税対策の一助になることが分かり、利益の出過ぎた企業が――そればかりとは限らぬが、続々と社用ビジネス機としてヘリコプターを買い入れたのである。

 これを知った大蔵省は、関係者の反対をよそに、強引に税法を改め、償却年数を5年に伸ばした。といっても国会の議決を経たわけではなく、償却に関する別表の数字を「2」から「5」に書き換えただけのこと。その途端にヘリコプターを買う人がいなくなった。

 土地の値上がりを抑えようとして金融機関に総量規制をかけたやり口と同じで、ふくらんだ風船に針を刺したように、日本経済は一挙に縮小し、ヘリコプター・ブームも消し飛んで、ヘリコプターの日も忘れ去られてしまった。

 (西川渉、99.8.28)

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