ヘリコプター初物語

 〜First Attempts(2)〜

 

 

ヘリコプターの初飛行

 ヘリコプターが初めて人を乗せて飛んだのは、ライト兄弟の飛行から4年後、1907年のことであった。ルイ・ブレゲエのつくった「ジャイロプレーン1号機」が同年8月24日、初めて地面を離れたのである。そして地上60cmくらいのところで2分間滞空した。

 もっとも、この飛行は不安定で、放っておけば墜落する恐れもあったため、4人の人が機体の四隅を支えていた。したがって真の飛行とは認められていない。その翌年に飛んだ改良機も、今度は人手を離れて5m近く上昇したが、操縦できずに墜落してしまった。つまり、この頃のブレゲー機は離昇する力はあったが、安定性や操縦性がなかったのである。

 そこで、ヘリコプターによる真の「初飛行」という栄冠は、わずか3か月後、同じフランス人のポール・コルニュの上に輝いた。

 このヘリコプターは、団扇のような翼のついた直径約6mのローターを、機体の前後につけていた。飛行は20秒間。高度は1.5m程度であった。やはりブレゲー機と同じように安定性も操縦性もなかったが、ともかくも自由飛行をして、歴史上の金字塔を打ち立てた。1907年11月13日のことである。

 最近も「フランスはなぜあんなにヘリコプターの開発に熱心なのか」「なぜフランスのヘリコプターは優れているのか」というような質問を受けることがあるが、その理由はヘリコプターの初飛行がフランス人によって行われたことにあるのかもしれない。

ヘリコプター初の公式記録

 フランスの自動車技師、エチエンヌ・エーミシェンは1920年代初めに気球つきヘリコプターの実験に取り組んだ。これは「ヘリコスタット」と呼ばれ、水素ガスを詰めた気嚢でローターの揚力不足を補おうとしたものだが、1922年ついに気球なしの飛行に成功した。このヘリコプターは、前後左右に張り出したワク組みの先端に2枚ブレードのローターをつけていた。また五つの小さなプロペラがついていて機体の水平姿勢を調節するようになっていた。

 エーミシェンはこれで100回を超える試験飛行をしたが、1922年11月11日、60〜80mの飛行に成功した。1924年4月14日には360mの直線距離を飛行、3日後には525mを飛んで自らの記録を更新した。つづいて5月4日初めての1,000m周回コースを飛び、航空技術協会の90,000フランの賞金を獲得した。これらは、いずれもヘリコプターによる公式記録である。

 しかしエーミシェンは結局、ヘリコプターの安全性を最後まで信じなかったらしい。彼は1937年に次のように言っている。「ヘリコプターは余りに複雑な機構をもっていて、無数の部品はいつ何時故障するかもしれない。したがって、いつも危険にさらされているわけで、唯一の安全手段はヘリコスタットしかないと思う」


(気球によってエンジンの出力不足を補い、
かつ安全も確保しようとしたエーミシェンのヘリコプター)

オートローテイションの始まり

 1924年4月18日、スペインの技師、マルキス・ペスカラは自作のヘリコプターで736mの直線飛行をして、公式国際記録をつくった。これは前日のエーミシェンによる公式記録を破ったものである。

 このヘリコプターは4枚ブレードの複葉ローターが同軸で反転するという特異な構造だったが、エンジンが故障しても完全に着陸できるという特性を持っていた。

 すなわちエンジンが止まっても、このヘリコプターのローターは自由に回転し、多少の揚力をもちながら降下していって、地面近くでパイロットがピッチを上げて軟着陸ができるようになっていた。いうまでもなく現在のオートローテイション着陸の始まりであり、これによってヘリコプターの安全性は飛躍的に向上した。(つづく

(『航空ジャーナル』別冊「ヘリコプターの世界」掲載、1986年2月刊)

【追記】

 本頁を見ていただく方は別として、世間一般には、翼のないヘリコプターはエンジンが停まると石のようにストーンと墜ちると思っている人が多い。しかし、それがオートローテイションによって滑空し、安全に着陸できるのだということになったとき、ヘリコプターは全く別のものに変った。このことを実現したのがマルキス・ペスカラである。仕事をしたのはスペインだが、出身はアルゼンチンの人だったという。

 ヘリコプターの安全性はオートローテイションによって質的に高められ、オートローテイションなくしてはヘリコプターの存在はあり得なかった。ヘリコプター人は、この人に感謝しなければならない。

(西川渉、99.9.1)

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